初めて会ったのは八重桜の散る頃だった。ぽってりとした花がいくつも水面に浮かぶのをかき分けるように立ち上がると、背後で悲鳴がした。むしろ驚いたのはこちらの方で、なんとなれば一つには、そこがめったに人間の寄り付かないいわゆる神域だったから、そしてもうひとつには、そもそも己の姿を視認できる人間が近頃めっきり減っていたから。
振り向けば手で顔を隠している若い娘。申し訳ない、怖がらなくていいからと声をかけながら近付くと、やはり余裕を失った高い声で着物、きものと叫ぶので、慌てて脱ぎ散らかしたものを羽織るとようやく娘は手をほどいた。ああ驚いたと呟く声音は高くも低くもなく、つまり、欠片も怯えていなかった。たぶんそれがとても嬉しかったのだ。
蝉の声が破れるように響く頃、彼女はほとんど毎日そこに姿を見せるようになった。病気の父のために薬草を採りに来るのだと言い、だから長居はできなかったが、清い流れに足を浸して自分と話すひとときを、彼女もまた大切に思っていてくれるようだった。去り際、別れ難くて名を呼ぶといつもちょっと顔をしかめた。寄せた眉根が可愛らしいと思ったから、彼女が本気で怒らない程度に繰り返しそうした。
銀杏の葉が黄色く染まる頃、彼女の父が死んだ。覚悟はできていた、と動いてそれきりの唇がかさかさと罅割れていたから、そっとふさいだ。突き飛ばされるかもしれない、と身構えての行動だったが、両の腕(かいな)は震えながらも自分の袖をつかんだ。初めて共に夜を過ごした。
辺りが真っ白な雪に覆われる頃、独り言のように、あなたと出会ってから自分の名前を好きになれた、と言って小さく笑った。国学者の父がつけたというその名は、たしかに珍しい響きを持つものだったが、とても美しいではないか、と答えると、この名があなたと出会わせてくれたのかもしれない、などというものだからたまらず抱き締めた。腕の中で彼女はこのうえもなく幸福そうに微笑んでいた。
春も夏も秋も冬も、同じように続くものと思っていた。命の違う者同士、別れは必ず来るだろうがそれはもっと先のことと。
先のことと思っていたのに。
二度目の夏が終わる前に彼女は死んだ。
そして、自分は。

ここは、

ここはどこだ。

今はいつだ。

彼女はどこだ。

愛しいいとしい、

俺がころした、

とわ。


【2012/03/01 記】


(2013.11.12)


モドル