連日の文化祭準備に追われ、疲れもピークに達していた。今にもくっつきそうになる瞼をこじ開けて机に向かったところまでは覚えている。
ハッと気づけば置時計は午前1時を指していた。体を起こすと肩から何かが滑り落ちる感触。去年のクリスマスに明神がくれた半纏だった。振り返れば母は少し離れたところに布団を敷き、安らかな寝息をたてている。
課題の期限はまだ少し先で、眠りたくなかった理由は別にある。音を立てないように部屋の扉を開け、細心の注意を払って閉める。ほう、と息をつき、気を取り直して階下を覗けば、――話し声、らしきものが耳に届いた。ぼんやりとした明かりはたぶん管理人室から漏れている。かすかな胸騒ぎを覚えて、姫乃はゆっくり階段を降りる。今日の午後、昼寝をしていたというエージ君がまだ起きているのかもしれない。もしかしたら、明神さんが帰ってきた時に目を覚ましてしまったアズミちゃんかもしれない。
無意識に候補から外した人物が、細く開いた扉の隙間の奥に見えた、と同時に耳に届いたのは、
「俺ゆかりんのこと好きだー!」
「またいきなりだな!ええと、ありがとうございます。私も明神さん好きですよ、大家的な意味で」
その後、自分がどうやって部屋に戻ったのか覚えていない。

いつまでも布団でぐずぐずしている姫乃を母は不審そうに見やった。気遣わしげなその眼差しを避けるように支度をした。朝食はほとんど喉を通らなかった。こんなに残しちゃ大きくなれないよ!ヒメノ!と言うアズミに、思わず当たってしまいそうだったので、姫乃は黙って食器を下げた。何か言いたそうなエージの横をすり抜けて玄関を出た。明神さんはたぶんまだ寝ている。リビングにはゆかりさんの姿もなく、ほっとしたような泣きたいような気持ちで、ただ早足で歩いた。そこまでが今朝の話。

「桶川さん、今日、具合悪いんじゃない?」
放課後。人の良い委員長に帰宅を許可されてしまった。

重い足をひきずってうたかた荘の門をくぐると、そこには一番会いたくない人が立っていた。なのにどうして、
「おいおいどうしたひめのん!」
何もできずに廃墟の外でただ祈っていた時も、下水道であの狐の妖怪に殴られた時も、滲みすらしなかった涙がただただ頬を伝って落ちる。
あたたかな手が旋毛をぐいぐいと撫でる。まるで子供扱いだ。今までは、それでもいいと思っていた。明神の一番近くにいるのは自分だと思っていたから。ゆっくり大人になっても、それでもこの人は隣にいてくれると思ったから。
けれど春、新しい住人が現れて。その人はとても綺麗で、彼の横に並べるくらい十分に大人で、帰りを待つ間に眠ってしまう自分のような子供ではなくて。
おまけに心底、優しい人だったから。
「明神さんはッ……明神さん……」
「うんうん、どーした」
腰を落として自分と目線を合わせてくれる、この人との距離をどうしようもなく縮めたくて、でも怖くて、ずっとずっと苦しかったけれど。
言葉は迷いより先にあふれた。
「私、わたしね、」


【2012/03/04 記】


(2013.11.13)


モドル