連日のうだるような暑さに、早々に白旗を上げた同居人は、今、さながら浜に打ち上げられた魚のごとくリビングの床に寝そべっていた。
「汚ねえぞ」
「雪乃さんが毎日お掃除してくれてるから汚くないもん……」
成人式をとうに終えた、妙齢の女性がこの発言。エージは磨かれたフローリングに広がる黒髪を見下ろして、ため息を飲み込んだ。艶のある直毛と、発露の仕方は違えど子供じみた言動をするところは、たしかにあの男に似ているかもしれない。
化野ゆかり、24歳。うたかた荘に入居して三月(みつき)ほどになる生者。職業はモノカキ、ただし食えてはいない。お金がないからという理由でモノカキのくせに本をほとんど持たず、というか荷物をほとんど持たない、料理が苦手で、霊を全く怖がらない変な奴。そんな一連の認識に、一月(ひとつき)前、新たな情報が加わった。先住人・犬塚ガクの、彼女は従兄妹にあたるそうだ。それを知って、けれどエージの胸の内にあったモヤモヤはかえって大きくなったように思われる。
ツキタケと樹海を訪れた冬の日のことを思い出す。従兄妹などよりよほど濃い血で結ばれた、自分の妹であるところの真知は、エージの横をすり抜けてその気配に気づくことすらなかった。元々の霊感の強さの違いと言ってしまえばそれまでだ。しかし血縁関係だけが理由で生者が陽魂に触れる、なんてことがありえるのだろうか(今はもう、梵術の基本を習得した彼女は家中の誰に触れることもできるのだけれど)。
と、ゆかりがごろりと寝返りを打った。仰向けになったところで器用に上半身だけを起こし、エージの顔を覗き込む。
「どした?何かあった、」
カッと頬が火照るのを感じてエージは思わず顔をそむけた。真夏の太陽に熱せられた空気がそこだけ急速に冷えていくのを感じるが、他にどうすることもできない。
昨夜、丑三つ時にふと目を醒まし、ぼんやりとしたままふらりと自室のベランダに出た。ぐるりと見回せば窓の明かりは全て落ちていたのだが、左端の部屋で何か白いものがたなびくのが見えた気がして、ひょいひょいと手すりを伝い、なんの気なしに中を見た。
目に飛び込んだのはすらりと伸びる白い脚。膝から腿の付け根あたりまでを切り裂くまだ生々しい赤色が、下弦を少し過ぎた月に照らされていた。その傷に手をかざし、口を固く引き結んだ横顔はまるで知らない人のようで、エージはごくりと唾を飲む。慣れない梵術に全神経を集中させているのだろう、こちらに気づく気配は全くない。淡く発光する剄が情景を一層幻想的なものに見せていた。
ぽん、と頭の上に感触を感じてエージは現実に引き戻された。おそるおそる首を戻すと、目の前にあるのは穏やかな微笑み。
「何があったか知らんが、ファイトだ少年」
ぽんぽん、と今度は両手で肩を叩くと、ゆかりはすっと立ち上がり背を向けた。馬鹿みたいに呆けているエージを置き去りにして玄関のたたきに降り、サンダルをつっかけるとそのまま外へ出ていく。
ぱたん、と扉の閉まる音を聞き、エージはそっと唇をかむ。クールにサイキョー、なんてまだまだだ。子供みたいに見えるあいつはこんなにしっかりと大人で、普段、大人びているなどと言われて調子に乗っている自分はこんな時、たった一言のフォローを入れることすらできない。
ちくしょう。ちくしょう。こんちくしょう。


【2012/03/06 記】


(2013.11.14)


モドル