裏庭に出ようと、横着をして壁をすり抜けかけたグレイの背後で階段のきしむ音がした。同時に嬉しそうな声で、
「グレイさん!ちょうど良いところに!」
などと不穏な言葉が聞こえたので、グレイは無視してあくまで壁抜けを遂行しようとした。
「ちょっとちょっと待って待って、聞こえてるんでしょうこのお耳は」
「気安く引っ張るな!」
振り向いた先には満面の笑みがあり、その瞬間グレイは心底後悔する。
「いやいや今日は真面目な話ですって」
「……一応聞くだけ聞いてやる。何だ」
「グレイさんはニンジン派ですか?キャベツ派ですか?」
「貴様私を愚弄する気か」
「とんでもない!とっっっても大事なことなんです」
「…………ニンジンだが」
「よしっ!ありがとうございます!!」
なぜかガッツポーズをしてくるりと踵を返し、小脇に挟んだノートに何やらメモしようとする、その左手をつかむ。きゃあなにするんですか!せくはら!と叫ぶ人間は無視して、開いたページを覗けば、
「『Blue』?」
作品タイトルらしきものと殴り書きのようなメモ、そして下手くそな兎の絵。いや正確には兎の耳を付けている少年の絵。
「名誉毀損で訴えるぞ」
「大丈夫です!ブルー君が履いてるのは乗馬パンツでなく半ズボンですし、何よりおっさんでなく少年ですから、誰もグレイさんがモデルなんて気づきません!」
「……だあれがおっさんじゃあ!!!」
その日の午後、姫乃が帰宅する時間までゆかりは廊下の隅に正座させられ、“年長者“の説教を受ける羽目になった。

「で、なんなんだこれは」
同じ内容がたっぷり三周したところでようやく落ち着いたらしいクロックラビットに、ゆかりはおそるおそる言葉を紡ぐ。
「今度、初めて絵本の原作をやることになりまして」
話は次のような内容だった。――ウサギの森に住む少年ウサギのブルーは、人間の罠にかかって動けなくなったところを、森の神様に助けてもらう。神様は真っ白な毛並みと金色の瞳を持つ美しいウサギで、以来、ブルーは草の実やきれいな花を毎日神様に届けるようになった。しかしある日、何の前触れもなく神様は姿を消してしまう。大人ウサギが大混乱に陥る中、ブルーは神様を探す旅に出ることを決意する――
「その時カバンに入れるものを何にしようかと思いまして」
「そもそもキャベツはでかすぎるだろう。入るのか」
「いやでもやはりここはモデルの意見を入れるべきかと」
そのほうがリアリティが、と笑うゆかりの声を聞きながらグレイはもう一度ノートに目を落とした。
「これはあれか、続き物なのか」
「絵本でそれはきついです。この先はまだ考え中なだけ」
「ふん……で、最終的にこいつは神様に会えるのか」
返事がないので目を上げると、黒髪の駆け出し作家は何とも形容しがたい表情をしていた。少なくとも絵本の内容を語るには全く似つかわしくない、
――笑っているような泣いているような、
こんな表情を知っている。いつか、倚門島にいた頃、水に映した時の己の顔。
あの時何があった。
たしか、キヨイとコクテンが、
「決めてないんですけど」
我に帰れば、ゆかりはもう普段と変わらぬ穏やかな笑顔で微笑んでいた。
「でも、とりあえず探しに行くことが大事かなって」
言って窓の外を見やる。割合高い位置にあるそれからは、重苦しく垂れこめた曇天しか見えないのだが、ゆかりの瞳はまっすぐに何かを捉えている。
「会えると思いますか、グレイさんは」
だってお前はもうそう決めているのだろう。
そう指摘してやったらこの女はどんな顔をするだろう。


【2012/03/15 記】


(2013.11.20)


モドル