それはいい話ですね、とため息をこぼすように女は言い、あまつさえ目尻を拭う仕草まで見せた。ふざけているわけではなく本当にその瞳は潤んでいたので、正宗は何だか照れくさいような気持ちになり、ひときわ大きな音を立てて氷を削る。
「で、どうしたんですかその『星の王子様』」
「……読んだ」
「!どうでした?」
「……あの狐はいい奴だな」
「でしょう!」
自分の手柄のようににこにこする女は作家なのだという。ヒヨッコでまだまだ食えないんですよと言う割に質の良さそうな服を着て、ジントニックをゆっくり喉に流し込む姿はなかなかサマになっているが、童顔であることやどこか浮き世離れした雰囲気のせいで、妙にちぐはぐした、得体のしれない印象を人に与える。
――まるで真昼の幽霊のような。
正宗は軽く頭を振って妄想を追い払った。
「師匠は丁寧に物を扱う人じゃなかったから、もう頁なんか取れそうでな」
「あ、私、そういうの直してくれる職人さん知ってますよ。ご紹介しましょうか」
「高価(たか)いんじゃないか」
「正宗さんならお安くしますって」
正宗は本など読まない。だから作家なんて人種に何を話していいかわからず、放っておいてもよかったのだが、生憎と今日は他に一人の客もいなかったために沈黙に耐え切れなくなり、師匠の遺品を整理していたら愛用の雑嚢の中からボロボロになった『星の王子さま』が出てきたという話をしたのだった。
「バレットイーグル」は繁華街のど真ん中に位置するはずだが、地下であることもあり周囲の喧騒は全く入ってこない。絞ったヴォリウムで流れるジャズは、毎日正宗がこれまた亡き師匠のコレクションの中から選んでいるレコードだ。
「サン・テグジュペリは他に読みました?」
「読んでない。面白いのか」
「最近『夜間飛行』っていうのを読みましたけど良かったですよ」
「薬缶」
「いえ、夜の間のほうの『夜間』です」
正宗さんも冗談とか言うんですね、と女が目をなごませたので、本気で薬缶が空を飛ぶファンタジーものかと思った正宗は赤面した。だって狐がしゃべるんだぞ!薬缶が飛んだっていいじゃないか!
「それも飛行機乗りの話なのか」
「はい、でも戦闘機じゃなくて郵便配達の」
「手紙を飛行機で届けるのか!」
「そうなんです。ロマンですよね」
心持ち遠くを見るようにした瞳に、間接照明の淡い光が当たっている。その瞬間、彼女の心は確かにここにはなかった。
面白いなら読んでみるかなと一人ごちた正宗に、図書館にありますよ、堀口大学の訳が私は好きです、となんでもないことのように女は言ったが、そもそも誰の訳がいいだとか考えたこともなかった正宗は、作家というものと己との違いを改めて噛み締め、心の内だけでひっそりと彼女を賞賛した。
いつの間にか彼女のグラスは空になっていた。
「どうする」
目でグラスを指すと、女は小首を傾げるようにして数秒沈黙した。
「……オリジナルのカクテルとか、お願いできたりしますか?こんなイメージでみたいな」
「ああ。気に入るかどうかはわからんが」
「じゃあ」
女は一度言葉を切り、芝居がかった仕草でグラスをすっと押し出した。
「『星の王子さま』で」
薄々予想していたとはいえ思わず眉をしかめた正宗を、女は楽しそうに見つめている。


【2012/03/17 記】


(2013.11.21)


モドル