クーラーもないのに真夏でもひんやりとしている店内。晴れた日は照明を付けないことにしているようで、店員が座るレジ前だけがひっそりと手元灯で照らされている。出された麦茶を十味はごくごくと飲み干した。
「いい飲みっぷりですねえ」
すかさず注がれた二杯目も半分ほど空けて、ようやく一息つく。
「いやしかし参るなこの暑さは」
「ほんとに」
「ここは天国だ」
「ええ、まあ、ある意味……」
すっかり馴染みになった店員が意味ありげな視線を寄越すので、つられて部屋の隅に目をやると、半透明のもやもやした塊が目にもとまらぬ速さで本棚の間に消えた。あの大きさはネズミではないだろう。もちろん巷で嫌われる黒い虫でもない。
「なるほどな……」
「古本屋ですからね、いろいろあるんですよ」
「困ったのが来たら明神に退治してもらえ」
「そうします」
でもうちは客筋がいいので大丈夫、と胸を張る小柄な女性を改めてまじまじと見つめる。嬢ちゃんほどではないが華奢な身体に似つかわしくない豪胆な性質(たち)なのは知っていたが。
「あんた本当に気が強いな」
「母親譲りでして」
あのうたかた荘に居着くことができた人間は、嬢ちゃんとその母親に続いて史上三人目。しかも初日にあのガクに抱きつかれるというハプニングがあったにも関わらず、飄々と越してきてひょうひょうと暮らす彼女は、住人ともなかなかうまくやっているようだ。
「怪我のほうはもういいのか」
のみならずあの女の案内屋に弟子入りしたと聞いた時は仰天した。実際はそれほど大仰なものではなく、無縁断世を守るための対策云々という話だったのだが、先だってはその彼女――湟神澪の代わりにあのグラサンと共に依頼を片付けてきたと言う。だいぶ厄介な案件だったようで、十味は見舞いも兼ねて今日、彼女の勤め先に顔を出したというわけだ。
「全然!」
笑う彼女の、見た限りではその言葉を信用してもいいように思うが、そもそもあまり肌を出さない服を好む女性であるため、本当のところはわからない。
そのことについて十味は若干の責任を感じている。元々霊が見える体質だったようだが、それでもうたかた荘を紹介しなければこんな危険な目に遭うことはなかったのではなかろうか。けれどこの黒髪の女性はもし十味がそんなことを言ったら、笑って大きく手を振って、そんなことあるわけないと言うのだろう。プラチナさんに付いてったのは私の意志ですし、強くなれるのは楽しいし、何よりうたかた荘に住めて私とっても嬉しいんですよ、と。
「そうそう十味さん、来週の月曜日はお暇ですか?」
「じじいはいつでも暇だよ」
「まだお若いじゃないですか、で、みんなでピクニックに行くんですけどよかったら一緒にいかがですか」
「ほう」
「片尾山(かたおさん)に。あそこなら近いし、山ならちょっとは涼しいでしょう」
うたかた荘の一行が世界をかけて(と言えば明神はいつでも訂正する。「俺たちは姫乃のために戦っただけだ!」)死闘を繰り広げていた時、十味は呑気にも彼らがピクニックに行っていると思ったのだった。今では笑い話だが、なんでわしを誘ってくれなかったのだとすねた十味が、満身創痍の彼らを出迎えた時の驚きといったら。
「こんなじじいでも登れるかね」
「だからお若いですって」
美味い空気に涼しく吹きわたる緑の風。気心知れた仲間たちとせせらぎの元で食べる弁当は、きっと格別の味がするに違いない。
なるほど夏の思い出づくりとしては全く悪くない、と十味は思った。


【2012/03/18 記】


(2013.11.21)


モドル