いい匂いだな、と目の前の男がつぶやいたので、ガクはおもむろに脳天めがけてピコピコハンマーを振り下ろした。一片の容赦もなく。とてもいい音が響いた。なるほどこの中は空っぽだからな、と心中深く納得する。
「なんだよいきなり!」
「貴様は俺を怒らせた」
「俺が何をしたよ!」
「脳みそ筋肉の単細胞にはわからんだろうな」
んだとやるか、と立ち上がりかけた白髪頭は放っておいて台所へ向かう。視界の端をかすめたウサギは、いつも通り冷ややかな目をしていたが、今はほんの少しだけそこに哀れみが混ざっているようで余計に苛立つ。察しがよいのも考えものだ。
「ひめのん」
いとしい彼女の名前を呼ぶ。なあに、と答える声の愛らしさをガクはしばし噛み締めた。まるで今日、外を満たす大気のようだと思う。暖かく、柔らかで甘い匂いがする。するに違いない。大事なだいじなマイスウィートの声。
「何作ってるの」
「クッキー!えっちゃんにね、明日作っていくって約束したの!もうすぐ焼きあがるよ。みんなの分もあるからお茶にしよう」
にっこり微笑む彼女は天使のようだと思う。この家の台所を切り盛りする彼女は、食物など摂れない自分たちのためにも必ず膳を用意する。明神さんがたくさん食べてくれるからいいの、と笑って。役得に預かるあいつは大いに気に食わないが、奴がいなければこのオンボロアパートがないわけで、だからガクは食事のたびに暴力を振るうのは我慢してやっている。大変な譲歩だ。
ガクリンさっき明神さんと喧嘩しなかったね。少しだけ不思議そうな彼女に、うん、褒めて、と頭を差し出すと少し恥ずかしそうにガクの髪のあたりをかき混ぜるようにした。姫乃の手はその声と同じくとても温かい。はずだ。触れられなくとも俺にはわかる。大切なのは心が触れ合うことだ。
食べられなくても、匂いがわからなくても、触れられなくても、同じ時間を生きられなくても、今俺たちはここにいて笑顔を交わしあっている。
十分だ。それだけで俺は十分幸せだ。


【2012/02/18 記】


(2013.11.05)


モドル