キッチンの明かりをつけ、冷蔵庫の扉を開ける。ビニール袋で何重にもくるまれたタッパーを取り出しかけて思わず声が漏れた。なるべく傾けないように運んだつもりだったが、愛らしい少女お手製の「夏のごろごろ野菜カレー」は達彦の指を汚し、焦った彼のジーンズにもいくつかのシミを作りつつある。慌てて布巾を取り上げ、濡らして叩く。氷が効く、と聞いた気がして途中からそれも動員した。効果のほどは定かでないが、もともとの濃色が助けになったか汚れはほとんど目立たなくなった。安堵する。気に入りなのだ。
先程よりもよほど慎重に中身を皿に移してレンジに押し込み、はっと気づいて蓋をする。時間は適当だ。娘と暮らしていた頃も、離れた今もあまり料理はしない。親子二人、食べる分を稼ぐのに精一杯だった。寂しい思いをさせたろうと思う。
人工的なオレンジに照らされて回転する深皿を見つめ、達彦は今日のことを思い返す。
予想通り、青年――かつての少年――の姿を見ることは叶わなかった。娘によれば身長は達彦よりわずかに高いのだという。無条件に顔がほころぶのを感じた。あの時はせいぜい腰くらいまでしかなかった。ちょっと見上げるように話す達彦に、娘はそれじゃ上すぎだと笑った。けれどその表情は隠しようもなくこわばっていて、だから自分は一層落ち着けたと思う。落ち着いて、ちゃんと嘘をつけたと思う。
嘘?
違う。
言うべきことは言った。言う必要のないことを口にしなかっただけだ。
これは誰に対しての言い訳だろう、作家の常で彼は自分の言葉を俯瞰する。妻だろうか。娘だろうか。それとも。
帰り道に思い至ったひとつの可能性が再び意識の表層に浮かび上がり、達彦の背を氷の冷たさで撫でて消える。
彼を探さなければならない。5年前唐突に姿を消した彼を。それが救いようのない結末の呼び水になるとしても。
目の前の箱はとうにその仕事を終えているのに、作家は未だそれに気づくことなく立ち尽くしている。


【2012/02/21 記】


(2013.11.06)


モドル