「行くのか」
まるでそれが散歩か何かのように軽く声をかける相手を、白糸は呆れ顔で見やった。男は涼しい顔で視線を受け止め、ゆるやかな動きで釣り糸を放った。ぽちゃん。水面に広がった波紋はほどなく消え、後に残るはのどかな鳥の声。時おり微風がさわやかに頬を撫でる。初夏の日差しは肌を灼くほどではなく、何とも気持ちのいい午後だ。
「おまえ…………どんどん人間くさくなるな」
「そうか?」
広袖に鼻を近づける男に、そうじゃないと突っ込みかけて白糸は額に手をあてた。男は愉快そうに笑う。のみならず、
「眉間にしわを寄せてばかりいると折角の美人が台無しだぞ」
などと言う。自分が何を心配しているのかこの男には一生わからないだろう。わざと大きなため息をつく。と、少しばかり真面目な声で男は白糸の名を呼んだ。
「お前の言いたいことはわかるよ。だがこうなってしまったものは仕方がない。ただ俺は水が流れるように、あるべきようにあるだけさ」
「何を偉そうに……そんなにいい女か」
「ああ、俺が今まで出会った中で一番だ」
「人間の中で?」
「いや、女の中で、だ」
しゃあしゃあと言う男の過去を白糸は知らない。どれほどの永い時を過ごしてきたのか、“彼女”のように側に在る者はいたのか。そもそも知り合ってからほんの数ヶ月しか経っていない。永遠に近い時を活きる自分たちにとって、それは一瞬と同義だ。白糸がこの地を離れれば彼はすぐに自分のことなど忘れてしまうだろう。
ここにいればよいのに、と、口の中でつぶやくようにした男を鼻で笑う。
「たわけが。いればおまえのところの人間を食うぞ」
「人を食わずともやってはいけるのだろう?」
「旨いのさ」
かすかに眉をひそめる男に、白糸はかろうじてその先の言葉を飲み込む。別れの時くらい憎まれ口は封印してやるかと柄にもないことを思い、そんな自分が可笑しくて嗤った。
今度は首を傾げる男。その姿は本当に(身に纏うきらびやかな衣裳を除けば)ただの人間のようで、思わず言葉が口をついて出た。
「もしもおまえが退治されるときが来たら、弔いくらいはしてやるよ」
「ありがとう」
間を置かず返された言葉の意外さに白糸が目を丸くすると、男は鷹揚に笑った。細められた瞳の奥はとても静かだった。
どこかでまた鳥が啼いた。水面はそよとも動かない。どうせ移動は夜になる。もう少しだけここにいようと白糸は思った。


【2012/02/24 記】


(2013.11.08)


モドル