昼間聞こえたような気がしたのは、本当は鶯などではなかった。今も耳に残る、時が経てばきっと薄れると信じた、なのにこの5年間片時も忘れることのなかった、愛しい人の声。そして、今も。
雨戸を細く開ける。うっすらと差し込む淡い光。月とわずかな星あかりだけを頼りにそろそろと一歩を踏み出す。草履はない。玄関まで回れば耳聡い師匠が起きてしまうだろう。それは駄目だ。それに、もしも本当に彼女が呼んでいるなら一刻も早く行かないと。
ありえないことだとわかっていた。頭の隅で警鐘がなっている。戻れ、戻れ、行ってはならない、けれどその声に従うことがどうしてもできない。だって、彼女が。
あの日は月が円かった。風はなく、吐く息は白く、手袋をしても指先が凍えるような夜だった。頭の芯がぼうっと痺れ、それでいて意識ははっきりと覚醒していた。恐怖はなかった。全てを失うとわかっていても。
名前をきちんと呼べたか覚えていない。はじかれたように顔を上げた彼女の憔悴しきった表情。それを見た瞬間、決意は揺るぎないものとなった。それでも伸ばす手が震えたのはなぜだったのだろう。
「依」
息が止まった。
目の前には、あの日と寸分たがわぬ姿の彼女。
見開いた目は真っ赤で、頬は涙で汚れていた。なのにとても美しいと思った。
「化野」
呼べばいつでも嬉しそうに笑った彼女は、しかし今は瞳から新たな水滴をこぼすだけだった。絵に描いたようにきれいな筋を描いて落ちてゆく雫が一つ、二つ。三つ、四つ。
「たすけて」
そう言いながら動こうとしない。同じだ。彼女はいつでも助けを求めながらけっして手を伸ばそうとはしなかった。誰かに触れることを何よりも恐れ、拒んでいた。
だから手を伸ばした。
触れたら終わりだと知っていた。
あたたかな感触。腕の中にすっぽりとおさまった彼女は、予想外の展開に身をこわばらせ、
ぐさり
腹から背中に何かが抜けた。
笑っている彼女と目が合った。違う、これは、
ぐさりぐさりぐさりぐさり
背に、首に、腕に、脚に、いくつもの衝撃。
彼女は耐えきれず声を立てて笑い出す。ちがう、かのじょでは、
ずちゃり。
月宮依の意識はそこで永遠に途切れた。


【2012/02/25 記】


(2013.11.09)


モドル