「なんだ、ありゃ」
間の抜けた明神の声で、止まっていた時間が動き出す。まずは湯呑の欠片を拾うべく、姫乃はゴム手袋をその華奢な両手にはめた。さっきから黙ったままの十味は、ゆっくりとゆかりの頭のてっぺんから足の先まで眺め、何事かを呟いた。そりゃそうだよな、と聞こえた気がしたが、何が《そう》なのかを問うていいものかゆかりはためらう。
「ガクリンは10月11日だよね、お誕生日」
「よく覚えてるなヒメノン」
明神は彼女のことをヒメノンと呼ぶらしい。
「そりゃああれだけ騒がれたら忘れられないよ」
結構辛辣なことをさらりと言い、少女は十味に怪我がないかを確認した。
「とりあえず双子説は消えたか」
一人ごちて、明神はぽりぽりと頭をかく。陽光の差し込む玄関をちょっと眺めてからゆかりに向き直り、にこりと笑った。
「あのバカはいっつもあんな感じだから気にしないで」
爽やかに言い放たれて、ゆかりは返答に困ってしまう。
「それより82年なら同い年だな!」
「ええ!?」
年下だと思っていた、とはとても言えない。助けを求めるように十味を見やれば、
「おお、まだ大学生くらいかと思ってたわ」
世辞だか何だかわからない言葉をかけられ、さらにゆかりは何を言っていいかわからなくなった。あたふたとする彼女を静かに見守っていた少年――エージは、
「ほんと、気にすることないから。まともに相手してたら疲れるぜ、ガクは」
大人びた言葉をゆかりにかけて、
「とりあえずアイツのことはいいだろ明神。それより、」
と、部屋の中空を指さすようにする。水を向けられた明神はぽん、と拳を叩いて、
「だな!」
今度は満面の笑みをゆかりに向けた。
「あー、このたびは《うたかた荘》においでくださいまして誠にありがとうございます。見てのとおりそんなに広くもないので、まあ、案内しながら説明するって感じでどうでしょう?」
さっと立ち上がり、うやうやしく礼をする明神をエージが苦笑まじりに見つめる。キヨイと呼ばれた青年を中心とする異形の一団は、もうこちらに興味をうしなったようでてんでにおしゃべりをしている。赤いワンピースの少女が明神の左脚にぴたりとくっついた。十味がよっこいしょ、と言いながら立ち上がる。割れた湯呑の始末を終えた姫乃は――すこしだけ気づかわしげな視線で明神と、ゆかりをちらりと見た。

リビングを出て、台所、トイレ、風呂(以上すべて共同)、そして管理人室。ここまでが一階。板がボロくなってるから踏むな、と言われた部分を注意ぶかく避けながらゆかりは階段を上った。ふるびてはいるが全体によく手入れされた建物だ、とあらためて思う。外見から想像するようなほこりの塊や蜘蛛の巣も見当たらず、何気なく褒めればそれは姫乃の母のおかげなのだと明神は胸を張った。今日は近所の奥様方と駅前まで出ているそうで、じきに帰ってくるだろうとも。うしろでエージと喋っている可憐な少女をちらりと振り返り、この子を育てた母というひとにすこしだけ思いを馳せる。しっかりして、素直そうで、とても感じのよい彼女の母親。きっと素敵な女性なのだろう。
上りきって驚く。廊下の片側に並んだドアはたったの四つ、反対側はただの大きな窓だった。思い返せば表に立ったときにわかりそうなものだが、あのときはそれどころではなかったのだ。
「一万円で……その、大丈夫なんですか」
言葉を選びながら口に出せば、あっけらかんとした返答。
「最初は一万五千……いや八千だったかな……?でもアイツが『なんかハンパだな!』って言い出して、俺も、一万円のほうが計算がしやすいかなって」
金銭への執着のなさを親友からたびたびとがめられているゆかりでさえ心配になってしまう発言だったが、それは表情から伝わったらしく、
「いやまあ、案内屋が本業だし」
白髪の青年はへらりと笑う。
「ヒメノンが来てから飯も食えてるし!」
急に名指しされて黒髪の少女は顔をほんのり赤らめた。
だってカップ麺のほうが高くつくんですよ、明神さんたらそんなことも知らないんだから。照れ隠しのようなその声をBGMに明神は廊下をすすみ、一番奥の扉を開けた。
まず目に入ったのは正面にひらいた大きな窓と、そこから差し込む傾きかけた午後の日差し。かすかに夕暮れの気配を含んだ金と赤の混ざった光が、ささくれた畳を柔らかに染め上げている。右手には一間ぶんの押入れ。手前のほうの襖にはゆかりの胸くらいの位置に一つだけ、花の形に切り抜かれた障子紙が貼られていた。たおやかな補修のあと。姫乃か、姫乃の母がやったのかな、と思う。
中にはひとつの家具もなかった。かえってそれが清々しかった。空き部屋だったろうに空気はまったく澱んでおらず、それもやはりここの生きている住人、母娘二人の功績なのだろう。静かに微笑んで、ゆかりは明神を見る。期待するような、すこしだけ不安そうなその目をまっすぐに見返す。
「是非ともお借りしたいです」
ぱっと空気がはなやいだ。
子供のようにガッツポーズを決める明神を横目に、すこし離れて立っていた子供たちを見やる。どの子も嬉しそうではあったけれども、それぞれに僅かずつ複雑そうな表情を浮かべているのもまた事実だった。ゆかりの胸がかすかにざわめく。それに、あの二人。コートにマフラーという季節はずれの二人組は未だに戻った気配がない。
「心配しなさんな」
低い声が聞こえてゆかりは振り向いた。いつの間にか背後には十味が立っており、年長者らしい落ち着いた――見ようによっては老獪な、と言えなくもない笑みを浮かべていた。ぽんぽん、と背中を叩かれる。
「こいつはな」
エージとじゃれる明神を顎でしゃくって示す。
「頭ン中ァ空っぽに見えて、まあ実際モノを考えるのは苦手なんだが、大事なことだけはちゃんとわかっとる。師匠譲りのお人好しで体力馬鹿だが、やるときゃやる」
その結果が嬢ちゃんとアイツらだよ、と十味はヒメノを見、階下を指差した。アイツらというのはリビングに残った彼らのことだろうか。
「姉ちゃんとガクの因縁はわからんが、まあ悪いもんでもなさそうだしな。逆に縁あって引かれたということかもしれん」
そこで十味は不思議な表情をした。
何かを、祈るような。
「十味さ、」
「これからよろしくな、ゆかりん」
ゆかりの言葉はあまりにも能天気な声にさえぎられた。
「明神さん?え、ゆかりん?ってなんですか」
「オレが考えたアダ名だよん」
「いやいやいやいや」
「語呂がいいだろ」
「いやいやうん、いやいやいやいや」
「あーこいつのネーミングセンスは諦めたほうがいい」
「なんだとエージ!」
「ヒメノの時と同じじゃねえか……」
心底呆れたというふうに首を振るエージに、明神がプロレス技らしきものをかける。赤いワンピースの少女が首に取り付き、やめろやめろ苦しいアズミ、と霊に触れられる青年が大げさに仰け反る。姫乃が駆け寄る。十味はそれを孫を見る祖父のような表情で眺めていた。
ばたり、と明神が仰向けに床に倒れこみ(ワンピースの少女――アズミはその胸に馬乗りになってはしゃいでいる)、荒い息を吐きながらそれでも笑顔で言った。
「うたかた荘へようこそ!!」

(2012.07.23)

モドル