車の停まる音、次いであらっぽいドアの開閉音。ざくざくと前庭の砂利を踏みしめる足音が近づき、
「冬悟(とうご)!」
凛とした声がゆかりの知らない名前を呼ぶ。
「ったく、道場破りかお前は」
箸を置いた明神がのっそりと立ち上がり、玄関へ向かおうとするのを見ながら、ゆかりは姫乃に彼の下の名を確認する。冬に悟るって書くんです、ようよう口の中の刺身を飲み込んだ姫乃がそう言うか言わないかしたところで、《道場破り》がダイニングに姿を現した。
一言で表すならばかなりの美人。前髪だけは明神と同じ輝くような白だが、それ以外――腰まで届きそうな長い髪だ――は漆黒、切れ長の瞳の下には泣きぼくろ。手足が長く、背も明神に並ぶくらい高いので迫力がある。丈の短いチューブトップ(へそが出ている)の上に七分袖のシャツを羽織り、労働者のようなニッカボッカを履いている。露出している左脇腹にちらりと黒い模様が見えた。刺青か、痣か。
美人は険しい顔をしていた。食卓に着く面々をぐるりと見回し、ゆかりに目を留める。ほんの一瞬、眉間のしわが深くなったような気がした。
「いやあお食事中にごめんね♪姫乃ちゃん久しぶり、相変わらず可愛いね☆」
その、あまりにも様子とは不似合いな台詞にゆかりは目を丸くしたが、すぐにそれは彼女の後ろに立っている男性から発せられたものだと気づいた。
「早いな白金(シロガネ)」
「俺の駐車テクニックをナメないでよ」
こう言ってはなんだがちゃらちゃらした感じの人だな、とゆかりは思う。堅気の人間ならば一生に一度も着る機会のなさそうな白いスーツとサングラス。黄色いネクタイに渋い赤色のシャツを合わせているさまはホストかヤクザの下っ端のようだ。ただしその身体つきが細いというより薄いと形容すべきもののため、どちらかと言えば前者に見える。
ゆかりの視線に気づいたか、彼は唇の両端を上げた。
「初めまして、ゆかりちゃん」
「え……どうして名前、」
「冬悟君が電話でね」
右手の親指と小指以外を内側に折り、口元に近づけて軽く振る。古くさい仕草だ。
「新しい住人が入ったんだ、今日は一緒に晩御飯も食べるんだってそりゃあ嬉しそうに言うから、お祝いしなきゃって駆けつけてみたらこんな美人さんだなんて。もー、言ってくれなきゃダメじゃない」
あまりにもわかりやすい世辞だったが、不意打ちだったのでゆかりは軽く頬を染めた。それを楽しそうに覗きこむ彼の髪もまた、新雪のような白銀である。
「みおオバチャン!」
と、視界の端を弾丸の速さで黒いものが駆けた。次の瞬間ニッカボッカ美人の胸元にひしとしがみつき、にこにこ笑うのはうたかた荘の最年少陽魂・アズミだ。その頭を軟派サングラスが優しく撫でる。と、いうことは、彼らも。
「ゴメンね、自己紹介が遅くなりました。俺は神吹白金(カンブキ・プラチナ)、彼女は湟神澪(コウガミ・みお)。冬悟君と同じ《案内屋》です。以後お見知りおきを」
清涼飲料水のCMに出てきそうな爽やかな笑みを浮かべる彼に、それは本名なのかと問うていいものかゆかりは悩み、ひとまずできる限りにっこりと笑った。

車内にはほのかにラベンダーが香っていた。全体的に丸っこく、いかにも軽快に走りそうなその車は夜目にも白く、持ち主との関連性をぼんやり考えながらゆかりはシートベルトを締める。滑るように車体が動き出し、アパートの前に立ち並ぶ面々が見る間に遠くなった。その人だかりは道路をふさいでしまうほどだったけれども、《見えない》一般人からすればそこには3人しか立っていないように見えるのだろう。爽やかな管理人とまるで姉妹のような母娘。
「いやあ、やっぱり姫乃ちゃんのお料理は絶品だね☆」
運転席から発せられる相変わらず呑気な声に相槌を打ちながら、その隣に目をやる。おそらくは《絶品》の数々とそしてアズミによって、《案内屋》湟神澪の表情はだいぶ柔らかくなっていたが、それでも神吹白金に比べて彼女は格段に無口だった。その分を彼が補っていたとも言える。
それでもたぶん、怒っているわけではないのだろう。
若干の希望的観測も含めつつ、ゆかりは彼女の胸の内を想像する。どちらかと言えば伝わってくるのは緊張。人見知りの類ではなく、こちらを警戒しているような――
「俺好きなんだよね、あの、鯵の」
「冬悟は言わなかったんだな」
なおも料理を褒めようとしたらしい白金をさえぎり、澪が後部座席を振り向いた。
射抜くような目だ。
つくづく今日はよく人に睨まれる日だとゆかりは思う。
もちろんゆかりとて人の子であるから、胸の奥がちりちりと焦げるような気もしないではなかったが、彼女は基本的にこういう人種を嫌うことができない。
「何をでしょうか」
「姫乃と雪乃さんのこと」
「……いえ、何も」
「澪ちゃん」
すこしばかり真面目な声で、今度は白金が澪の言葉をさえぎった。
「そりゃ《あれ》から初めてのケースで緊張するのはわかるけど、感じ悪いよ」
「なっ、」
「ゆかりちゃんごめんね、ほんとは優しいのよこの人。こう見えて趣味はぬいぐるみ集めだし」
脈絡のない、そしてずいぶん意外な言葉にゆかりはぽかん、と口を開けた。白金がバックミラー越しに笑った。
「……そっそそそそれは今関係ないだろう!!」
耳まで真っ赤になった澪が白金の肩をばしばしと叩く。それを左手で軽くいなし、白金はもう一度ミラーを通してゆかりを見た。
「パラノイドサーカスのことも聞いてないよね」
「……何サーカスですか?」
「パラノイド。うん、大丈夫、ゆっくり説明するから。夜風も気持ちいいし、ちょっとドライブしようか」
そう言って白銀の髪を持つ青年は、駅と反対の方向にハンドルを切る。

長い話だった。
発端は実に17年も以前にさかのぼるそうだ。
「漫画かアニメみたいですね」
感想をもとめられ、ゆかりは素直な気持ちを口にした。白金が愉快そうに笑う。
「とても現実の話とは思えないです。その、無縁……」
「《無縁断世》(むえんだんせ)」
「霊の力を……強くして?」
「増幅させて創り変える強力な霊能力者」
「アンプみたいなもんですか?」
「うーんちょっと違うけど、まあそんな感じかな」
どっちなんだ。突っ込みは心の中だけにとどめた。
「私、よく怖い話読みますけど、そんなの聞いたことがありません」
「基本的には秘されてるからね。裏社会ってほどじゃないけど、まあカタギの人間は知る必要のないことだよ」
一瞬、白金の横顔にこれまでとは種類の違う笑みが浮かび、けれどすぐに消えた。ゆかりは見なかったことにする。
「姫乃ちゃんとお母様……雪乃さんが、それ、だと」
「そう」
「もしも悪い考えを持った霊に二人を奪われたら、その能力によって国の一つくらい簡単に滅びると」
「そうそう」
「パ……《パラノイドサーカス》っていうのは、キヨイさんたちのことで、」
「うん」
「元々は二人を狙う、いわば敵だった」
「さっすが作家さん!理解が早いねゆかりちゃん。だから」
白金は一度言葉を切り、ゆかりにいたずらっぽく視線を送る。
「澪ちゃんは君が悪い奴じゃないかどうか心配なわけ。違うよね?」
「はい!」
「馬鹿かお前らは!!」
あざやかな突っ込みが助手席から飛ぶ。見れば澪は頭を抱えていた。
「大丈夫澪ちゃん、頭でも痛い?」
「お前のせいだよ」
「知ってる」
澪はわしゃわしゃと髪をかきむしったのちに大きなため息を落とし、ほんのちょっと前を睨むようにして、最後にぐっと拳を握りしめると座り直し、背筋を伸ばした。
「化野ゆかり」
「はい」
教師のような呼びかけに、ゆかりも背筋を正す。
「悪いが私はあんたを簡単に信用するわけにいかない。何しろ聞いたこともないケースだ」
明神も同じようなことを言っていたな、とゆかりは思い出す。
「そんなに危険なことなんですか?その、霊に触れるっていうのは」
「ありえないんだよ。そういう能力を持つのは冬悟や私たちみたいに外見に特徴があらわれるか、でなきゃ死にかけた経験を持つ奴だ。あんた、どっちでもないだろう?」
「そうですね」
そこへすらりと白金が口をはさむ。
「ガク君の関係者というわけでもないんだね」
「はい」
「ならさあ」
これぞまさに笑顔、と言うべき表情を浮かべたサングラスの青年は何でもないことのように、
「とりあえず修行してみない?」
また訳のわからないことを言い出した。

「しゅぎょう……ですか?」
「ちょっと大げさな言い方になっちゃったかな。その力をある程度《使える》ようになる訓練をしてみないかってこと」
今度こそ訝しげなゆかりに、青年はのほほんと言う。
「このレアケースが何に由来するものかはわからない。ただ、俺には君が何かを隠したり、嘘をついているようには見えないんだよね」
ほんの一瞬口元を引き締めるも、すぐに元の表情に戻る。
「この場合、一番の問題は君が中途半端な力を持っていることだ」
ゆかりは静かに考える。
「…………狙われやすいってことですか」
「その通り。最大の敵だったパラノイドサーカスを従えたとはいえ、姫乃ちゃんと雪乃さんを狙う奴らはまだごろごろいる。そいつらが仮にあそこを襲った時、標的になる可能性が高いのは《戦えず、且つ彼らにとって利用価値のある魂を持っている者》だ」
「利用価値」
「悪い霊――俺たちは《陰魄(いんはく)》って呼んでるけど、そいつらは魂を喰らうから、」
恐ろしいことをさらりと言う。
「彼らの《栄養》になりやすいのは一般的には生者(せいしゃ)――生きている人間、よりも陽魂のそれだけれども、霊が《見える》まして《触れる》生者となれば話は違ってくる」
息を継ぎ、その運転と同じようになめらかに白金は言葉をつづけた。
「何もしなくても触れるくらいなら、ある程度の訓練で自分の身を護る力を得ることはできると思う。君が真実ワルい奴ではないのなら、そして今までの話を聞いてなおあそこに住みたいと思うなら、おそらくはあの破格の家賃相応の、いやそれ以上の代価が必要になるんだ、残念ながら」
「やります」
間髪を入れない返答に、白金はすこしだけ驚いたようだ。
「また即答だね」
「おまっ……中学の部活じゃないんだぞ?わかってるのか」
慌てたような澪に、
「わかってないです」
意識して軽く言葉を放てば、予想通り彼女のまなじりが吊り上がるのが見えた。噛み付くように口を開こうとするのを手で制する。そのまま選手宣誓のように左手を掲げた。
「誓って、私はあのアパートに住む人たちに危害を加えようとするものではありません」
ゆかりの表情に、案内屋コンビは口をつぐむ。
「あそこを初めて見たとき、とても住みたいと思いました。実際、私が今住んでいるアパートはまもなく取り壊される予定で、且つ私にはお金がありません。また、ガクさんに何故触れられるのかを知りたい気持ちもありますし、何よりも」
ほんのすこし間を取る。
「今引き下がってはうたがいを肯定するようで業腹です」
澪の眉が下がる。ふたたび眉間にしわが寄ったが、それは敵意というより呆れだった。
「おまえ………………」
三点リーダ6つ分くらいの間を開け、うるわしの美女は本日初めての笑顔らしきものを唇の端に浮かべた。
「こいつは《国一つ》と言ったが」
「はい」
「実際問題、世界がかかってる」
「はい」
「しごくぞ」
「はい」
「『わかってない』のにそんなことが言えるのか」
「『わかって』たら怖くてこんなこと言えません」
「そんなに住みたいか、あんなボロ家に」
目を瞑った。
最初にまぶたの裏に映ったのは、やはり初めて会ったときの後ろ姿。
目を開ける。ちょうどその時、車がちいさなトンネルに入った。町中によくある、上に線路が通っているタイプのそれだ。車内が浅い闇に塗りつぶされる。案内屋たちの表情が見えなくなる。
暗がりを見据え、ゆかりはしっかりと頷いた。
闇がほどけるのがわかった。

(2012.07.30)

モドル