まるでフィルムを逆回ししているみたいだ。四角く切り取られた景色が吸い込まれるように遠ざかっていく。その枠から思い切り身を乗り出した。耳元で鳴る風が心地よい。
「気持ちいいよー維継(これつぐ)!」
振り返りざまに叫べば、
「うるさい恥ずかしい!」
運転席から負けず劣らずのボリュームで声が飛んできたので、ゆかりは身をよじらせて笑う。
「ちゃんと遠回りしてねー!」
「するからおとなしくしてろ!」
そういえばこの先の辻には交番があるはずだった。忠告どおり顔を引っ込め、荷物の間に体育座りをする。それでも胸の高鳴りは抑えられず、ちょんと首を上げて上を見た。幌からのぞく空は快晴。絶好の引越し日和だ。

ゆかりが荷台から降りる前に、エンジン音を聞きつけたらしい明神が姿をあらわした。頭に白いタオルを巻き、長袖のTシャツを腕まくりしたその姿はどう見ても引越し屋だ。
「明神さん!」
幌から顔を出して手を振ると、青年は目を丸くした。
「何ゆかりん、そんなとこ乗ってきたの」
「憧れだったんですよーこういう引越し。子供の時にトトロ見て以来」
「へえ。あれ、でもトトロってこう、オープンな感じのトラックじゃなかったっけ」
「ちょっとアレは目立ちすぎるってことで却下されちゃって」
「化野」
焦れたような背後の声に我に返る。
「ごめんごめん忘れてた」
言いながら地面に飛び降り、運転席の横までとことこと歩いた。
「本日の運転手、田中維継君です。私の親友です」
「……、初めまして、田中です。お世話になります」
奇しくも明神と同じようにタオルを巻き、大きめのTシャツに細身のジーンズを合わせた彼は、ゆかりの大学以来の友人だ。やや長めのさらさらした髪に黒縁眼鏡、ひょろりと細い体躯。一見バンドマンのようなその風貌のせいか、似たような恰好なのに白髪(しろがみ)の青年よりも数段センスが良いように見えてしまうのはご愛嬌。実際、女性の自分よりもよほど服装に関してこだわりがある彼に、ゆかりはことあるごとに説教を食らっている(「家ン中だからって中学のジャージを着るな!」)。
「はじめまして、明神です!ここの管理人やってます」
小学生のような挨拶をし、年若い管理人は目をきらきらさせてゆかりの背後に笑いかけた。
「親友かー、なんかかっこいいなゆかりん!」
「えへへ」
背中に痛いくらいの視線を感じたが、ゆかりはあえて無視する。
「さて、荷物下ろすか」
今日はお兄さん頑張っちゃうぞー、軽口を叩きながら幌の中を覗き込んだ明神はぴたりと動きを止めた。その横に維継が並ぶ。
「信じられないでしょ」
ため息まじりな声に管理人が振り向く。視線を受けて運転手は肩をすくめた。
「これで全部なんですよ」
黒革の手提げトランクが1つに傘1本。小ぶりな卓袱台と鏡台、木製の洋服掛け(解体済み)がやはり1つずつ。小柄なゆかりでも余裕で抱えられる程度のダンボールが3つと大きめの紙袋が1つ。以上。
「トラックいらねえじゃん!」
「だって……トトロ……」
「こいつ、まっすぐ来たらすぐ着いちゃうからって町内一周させたんですよ」
言い合う3人の脇をすり抜けるように、竹刀を背負った中学生が通り過ぎた。のどかに鳴き交わす雀の群れが彼らを見下ろしている。

「本当にすぐ終わったな……」
室内をぐるりと見渡し、維継は呆れ半分、感心半分で言った。ひとまず荷を下ろし、トラックを返して様子を見に戻ってみれば、朝までたしかに空室だったはずのその部屋はすっかり住人の色に染められていたのだった。その間わずか1時間。まだ昼食の時間にも早い。
「お前のそういうとこだけはすごいと思う」
「だけとか言わない」
窓辺でくつろぐゆかりは誇らしげに笑い、
「お昼はどうするの?って、あ、デートだっけか」
わざとらしくしゅんと肩を落として見せるので、
「いや、別れたから」
こちらもわざとらしく軽く答えれば、
「いいいいいつ!?」
友人(自称親友)は目を剥いて維継に詰め寄った。
「一昨日」
「早っ!だって付き合いだしたの今年の初めでしょう?」
「ああ、半年もたなかったか」
「馬鹿!」
大げさなリアクションで額に手をやり、そのまま動かない。面白いのでそっと手を伸ばしてみる。しかし次の瞬間何の前触れもなくがばりと顔を上げられ、行き場のなくなった維継の右手は大きく宙をかいて後ろにしまわれる。
「とりあえず焼肉ね。今日のお礼もあるし、おごるから」
いかめしい表情のまま、ゆかりは重々しく告げると先に立ち、年季の入ったドアのノブを慎重に掴んだ。

本日の昼食はざるそばだ。いち早く自分の分を平らげた明神は、いつも通り隣の器に手を伸ばす。小さな椀にほんのぽっちり盛られたそれは、一口で彼の胃の中に消えた。次はその隣だ。
「なあ、ユカリは?」
明神が食器を取りやすいよう、心持ち身を引き気味にしながらエージが尋ねる。食事のマナーには厳しい姫乃に叱られないよう、口の中のものをきちんと飲み込んでから、
「親友君とごはん食べに行った」
答えれば、少年は面白くなさそうな顔をした。
「食べていけばよかったのにねえ、せっかくの引越しそば。でも、」
テーブルの向かいに座る雪乃が残念そうにつぶやき、明神を見る。
「あの彼が《見えない》人なんじゃ仕方ないわね」
返事の代わりに明神はがしがしと頭をかいた。
できればお礼に昼ごはんくらいはおごってあげたいので、申し訳ないんですが、とゆかりは昨日電話で彼に告げていたのだった。いやいや何だか悪いね、幽霊屋敷でと明神が返すと、いえいえこちらこそ、家族はそういうの大好きなので全く問題ないんですけどね、とゆかりは笑った。
それが《親友》だったとは今朝初めて聞いた。ふーんすごいな、と明神は素直に思った。
多かれ少なかれ《見える》人間は周囲に――特に《見えない》人間に、誤解を受けやすいものだ。気味悪がられるか、頭のおかしな変人扱いされるか、ひどい時には存在そのものを無視されるか。その壁を超えて親しくなれた者は、少なくとも彼にはいない。
「そんなに仲良いんならメシくらいいつでもいけるだろ」
「や、すごい忙しい子なんだって。編集者?だっけ」
「……妙にかばうじゃねえか明神」
「?そう?」
くるりと首を回し、雪乃の隣に座る姫乃に問えば、黒髪の少女は珍しく言いよどんで目をそらした。エージの大きなため息が聞こえ、明神はますます首をかしげる。
「いーよ、早くそれ食っちゃえよ。まだガクとツキタケの分もあんだろ」
彼の言い分はもっともだったので、明神はひとまず疑問を棚上げし、姫乃の隣の椀へと手を伸ばした。マフラーの少年の膳を片付ける頃には、彼の中のモヤモヤとした気持ちは既に雲散霧消している。単純な男なのだ。
エージはそんな彼と、今のところこのアパートの中で彼に一番近しいであろう生者(せいしゃ)――姫乃を交互に見る。前者は食事に夢中、後者は物思いにふけっていて自分の視線に気づくことはない。
毎食ごとにささやかな陰膳を用意するのは、姫乃がここの住人になってからの習慣だった。
それを尊重しようとしたことくらい、エージにだってわかる。
ただ何となくつまらないのだ。それだけだ。

「何か面白いのやってます?」
リモコンを弄ぶ管理人の後ろから話しかければ、彼はうーんと唸ったのち、
「見たいのあったらいいよ」
と、手の中の小さな機械を差し出すようにした。しかしそもそもテレビを見ない性質であるゆかりは、今、どんな番組を放映しているのかすらわからない。正直に答えると、
「おお……今時の若い子はマジでテレビ見ないのか……」
明神は大げさにうめいて顔を手で覆った。
「何言ってんですか、同い年なんでしょ」
「あーそっか」
「ヒメノは普通にテレビっ子だろ」
「あーそれもそっか」
「お前、本当に言うことが適当だよな」
はっはっはそう言うなよエージ、青年が少年の肩を豪快に叩くのを眺めていると、不意に目の前に華奢な白い手があらわれた。ことり、と可愛らしい音を立てて置かれたのはほのかに湯気の立つ湯呑。
「どうぞ、ゆかりさん」
「ああーありがとう、ごめんね何も手伝わなくて」
「いいんですよ、食器洗ってくださったじゃないですか」
にこり、と微笑む少女に瞬間、みとれる。染めていない長い髪に白い肌。丸く大きな瞳はくるくるとよく表情を変え、小鳥のさえずりのような声が形の良い唇から紡がれるさまは、
「ああ……マイスウィートは今日も天使だ……」
たしかに天使と形容しても差し支えないくらい魅力的ではあったけれども。
「ガクリンはいつもこうなので気にしないでください」
《天使》がやや苦笑ぎみに言うので、ゆかりはとりあえず頷いておいた。
夕食はゆかりのリクエスト通り、天ぷらだった。一人暮らしをはじめて5年、ものぐさな彼女は自宅で揚げ物をすることなど一度もなく、ゆえに十歳ちかく年の離れている姫乃の手際のよさに終始感嘆の声を上げつづけたのだった。彼女の傍らから忠犬のように離れないコートの青年――ガクと一緒に。
《ちかん》――もとい、《犬塚ガク》と顔を合わせるのは内見の日以来だった。
結局、あの日は白金の車に乗り込むゆかりと入れ違いになるように帰ってきた彼に話しかける隙はなく、今日も昼間は遠目に姿をみとめていたものの、同行者のこともあってタイミングを逃していた。夕方も遅くなって帰宅したゆかりは、食事の支度を手伝おうと急いで台所に入ったのだが、そこには既に野菜を洗う姫乃とそれを熱心なまなざしで見つめるガクがいて、これはチャンス、と思ったのだが――。
「気をつけろひめのん!油がハネる!」
「だーいじょうぶだよガクリン」
「ホントに慣れてるんだね、主婦顔負けじゃない。ねえガクさん」
「…………おおおなんと見事な手さばき!!」
彼がゆかりの呼びかけについぞ答えることはなく、また狭いスペースにもかかわらず、一度たりともその長いコートの裾すら彼女の体に触れさせることはなかった。
今だって。
ゆかりがすこしばかり恨みがましい視線を向ければ、一瞬前まで(ゆかりの傍らの姫乃を見つめるために)こちらを向いていたはずの彼は、何食わぬ顔でふいと視線をそらす。そのままじっと見上げていると、やがて立ち上がり相変わらず不安定に体を揺らしながら階段を上っていった。
その姿が見えなくなったところで、詰めていた息を吐きだす。姫乃がちょっと困ったような顔をした。
「どうしたんでしょうね、ガクリン」
「うーん……にんともかんとも……」
ゆかりとしては避けられる理由に心当たりはない。
いや、正確にはひとつだけ。
しかしそれは消去法で導き出されたもので、事の真偽をたしかめるには話をするしかなく、
「無視されっぱなしじゃなあ……」
ひとりごちるゆかりの背後で、
「あだしの、ゆかり、さん」
ちいさく名を呼ぶ声がした。
そこには彼女を悩ませる青年と同じく季節はずれの格好をした少年が、唇を固く引き結んで立っていた。

(2012.08.06)

モドル