画面の右下に並ぶ4つの数字がすべてゼロになったことに気づいて、ゆかりは小さく伸びをした。ちょうどキリもいいし、一旦休憩だ。書きかけの文章を保存し、パソコンをスリープ状態にする。電気を消して窓を開けた。風はない。月もない。門柱の前の街灯がつめたい光をあたりに放っている。どこかで犬の遠吠えが一つ、重なるようにもうひとつ。その響きが消えるのを待って、静かにベランダに出た。と、頭上斜め後ろで何かが身じろぐ気配がした。 屋根になにか、いる。 ひとつ呼吸をして、ゆっくり振り向く。 土気色の顔を引きつらせ、《なにか》――ガクが泳ぐように両手に動かしていた。その膝には丸くなってすやすやと眠るツキタケがいて、哀れな青年はそのせいで逃げようにも逃げられないのだった。ここぞとばかりに嫌味な笑顔をお見舞いしてやろうと思ったゆかりは、しかし結局吹き出してしまう。青年は憮然とした表情になった。 「気持ちいい夜ですね」 話しかければそっぽを向かれる。こうなればこちらも意地だ。 「隣、いいですか」 返事を待たずに屋根に手をかけた。さすがに静止するような声が彼の唇から漏れたが、無視して今度はベランダの手すりに足をかける。腐っても田舎育ち、このくらいのことは造作もない。勢いをつけて体を引き上げ、ぴたりと屋根のへりに張り付いた。得意げに顔を上げれば、青年は体を固まらせたまま目を丸くしている。予想通りの反応に満足し、隣に並ぶべく一歩踏み出す。 「……っ」 その爪先が何かにひっかかった。 バランスを崩したゆかりの右手を温度のない右手が掴む。すんでのところで自由落下による全身打撲および複雑骨折の悪夢から逃れたゆかりは、逸る鼓動を抑えてわらう。 「あー……さすがに冷や汗かきました」 「……へらへらしてるからだ。ちゃんと足元見ろ」 「ほんとですね、すみません」 「まずサンダルで屋根に登るな」 「ごもっとも」 躊躇なく裸足になる彼女を、青年は宇宙人でも見るような目つきで見つめている。 沈黙を破ったのは、もちろんゆかりのほうだった。 「どうして無視するんですか」 答えがないのは織り込み済みだ。 「2月9日に何があったんですか」 ぴくり、とガクの肩が動いた。その鋭いラインを綺麗だな、と思った。維継(これつぐ)も大概痩せているが、この人はそれ以上だ。力をこめて抱きしめればぽきりと折れてしまいそうなその体躯に、ちゃんと食べているのかと余計な心配をしかけ、それが余計どころか無駄きわまりないものであることに気づいて、ゆかりはぴしゃりと額を叩いた。どうもこの人を死者扱いできない。 さておき、沈黙である。幸い、慣れている。我慢比べは永遠につづくかと思われた。 ころり、とツキタケが寝返りを打ったので、触れられないのはわかっていたけれども、ゆかりはその元気よくはねた前髪に手を伸ばし、 「5年前の2月9日、何をしていた」 それは毛先の数ミリ手前で止まる。 不意打ちだった。あまりにも。 咄嗟に上を見る。 月はない。 風もない。 あの日はどうだった? 食い入るように闇を見つめる彼女の、両の瞳にすでに現実の風景は映らない。代わりに走馬灯のように流れるのは《あの夜》に見たもの。こわいくらい巨きかった満月。十字路の向こうから必死に走ってきたあの人。血のように赤いマフラー。それが視界を覆って、 「おい。おい!」 がくがくと両肩を揺さぶられ、ゆかりは我に返った。見ればずいぶんと近い距離にその顔はあり、慌てて飛びすさろうとしたが余計に強く肩を掴まれ、それでようやく今己がいるのが屋根の上だということを思い出した。一度は引いた冷や汗がまたぞろ背を伝う。深呼吸を一回。しかるのちに大丈夫だ、という意味をこめて手刀を切り、苦笑を浮かべながらその肩を押し返そうとしたが、青年は動かない。 「えっと……どうしました?」 「こっちの台詞だ」 彼は自分の顔から視線をそらすことなく、 「なぜ泣いている」 ぶっきらぼうに尋ねた。 頬に手を触れれば、たしかにそれはつめたく濡れていた。おまけに壊れたポンプのように、新たな水滴があとからあとから二つの窪みから吹き出している。自分のことながら、しかしだからこそ、ゆかりは途方に暮れてしまった。説明はむずかしい。 「俺のせいか」 重ねて問う人の瞳には、先ほどまでの辛辣ぶりが嘘のように真摯な光が宿っている。 「いったい、」 「大切な人を」 最後まで言えなかったのは単純に息がつづかなかったからだ。 「大切な人を、失くしました」 ぼやけた視界に、周囲とは違う種類の黒が映る。 「5年前。2月、9日」 瞬間、ガクはまたたきさえも止めた。 二人の間を静寂が埋める。 ポンプはいまだ壊れたまま、体中の水分を吸い尽くす勢いで水を噴き出している。無駄なこととわかりながら、ゆかりは目元を押さえようとした、その時、がばりとガクが頭を下げた。その額は今や膝の上の少年にぶつかる寸前だ。 「すまなかった!!!」 大音声が深夜の住宅街に響き渡る。驚きすぎると涙が止まるということをゆかりは初めて知った。 「俺はっ……何て勘違いをっ……かくなる上は煮るなり焼くなり好きにしてくれ、」 「ちょ、ちょっと落ち着こうかガクさん」 「俺はスジばかりで美味くはないと思うけれども!!」 動揺も露に青年はますます低く頭を下げ、横腹を圧迫されたツキタケが苦しそうに唸る。 「うん、わかった、わかったからツキタケ君が!」 ハッと顔を上げたガクと目を合わせ、ゆかりは唇に人差し指を当てて見せる。青年はそれを見、下を見てもう一度顔を上げると厳粛な表情で頷いた。 やがて少年のひそめた眉が徐々に戻り、元通り安らかな顔で寝息を立てるまで、二人は一言も声を立てずにいたのだった。 月がないので時間の経過がわからない。しかし町の空気は深い眠りの中に沈んでいる。またどこかで犬が長く吠えた。 そっと隣を見上げれば、ちょうど青年もこちらに顔を向けたところだった。視線がぶつかる。彼がまた悲愴な顔つきになったので、ゆかりは慌ててその口をふさぐような形に両手を出した。開きかけた唇は「あ」の形で止まる。 「ええと……誤解は、解けた?」 「……ほんっとうに、」 「いや、うん、大丈夫大丈夫。わかってくれたならいいんです、けど」 ガクが納得してくれたのは喜ばしいことだが、何がどうなったのかさっぱりわからない。 「……言いたくなかったら言わなくてもいいんですけど」 その先の言葉を察したのだろう、ガクの表情が変わった。眉間に寄ったかすかな皺、浮かぶのはためらい。骨ばった手が膝の上の小さな頭にそっと載せられた。長い指が丁寧に眠る少年の瞼を覆い、 「誰にも言わないでほしい」 低い声にゆかりは小さく頷いた。 「俺とツキタケが殺された日だ」 右手を幼子の上に、左手は脇で固く握り締め、死者はおごそかに告げた。 絶対零度の炎が、隠しようもなくその瞳に灯る。ころされた、という五文字がゆかりの中で意味を成すまで時間がかかった。殺された。 おそらく命日であろうと想像はしていたけれども、投げかけられた言葉はあまりに重く。 「……犯人は、」 「俺が裁く」 ようよう絞り出した言葉への返答は文字通り間髪入れず放たれ、ゆかりはふたたび言葉を失う。そんなのはだめだ。ツキタケ君はどうするの。そうしたら、あなたは。どれも会ったばかりの自分に言える言葉ではない。 だからただ、だらりとぶら下げられたその拳を握った。 両手で、強く。 「どうした」 「うん」 「痛い」 「うん」 「離せ」 「やだ」 「……馬鹿だな、お前は」 「うん」 彼の手は女性のそれと見紛うくらいすべらかだったが、何せ骨と皮ばかりでごつごつしていたので、きっと本当に痛いのはゆかりのほうだ。 それでもかろうじて涙はこらえることができた。 それで結局、こうして並んで空を見ている。おそらくは一日のうちで一番闇の深い時間帯、東京の外れのこの町では意外なほどよく星が見える。5月とはいえ、夜は冷えた。しかしその夜気は腫れた目元に心地よく、 「なんでなんでしょうね、本当に」 ゆかりは前を見たまま呟いてみる。 「さあ」 今はおとなしく隣に座る青年もまた、前を向いたままそれに答える。 「あら投げやり」 「あえて言うなら共鳴ってとこじゃないのか」 ガクはからかわれたことが不満だったようだ。いかにも面倒そうに言葉をつづけた。 「2月9日、大切なものをなくす」 「たったそれだけで?」 「マイスウィートとお母様のことは聞いたろ」 ゆかりは首を傾げた。マイスウィートとは姫乃のことだから、 「ああ、《無縁断世》。霊の力を増幅させる……でしたっけ」 「おまけにあの馬鹿サングラスとヤギ軍団のせいで、今のココは霊的なエネルギーがちょっと異常なくらい濃くなってる。そりゃもう、いろんなことがあった」 青年は疲れたようにちょっと肩を落として、 「そのうち地獄の釜の蓋でも開くんじゃないか」 物騒なことをさもどうでもよさそうに言った。 「んん、ヤギって?」 「あれだ、キヨイ」 「……あ、あれヤギの角だったんだ」 また一つ疑問が解消した、と思いながらゆかりはさりげなく視線を下に落とした。ツキタケは今は彼女に背を向ける形で丸まっている。潮時だな、と思った。 「それじゃ、私もそろそろ寝ますね」 おやすみなさい。軽く片手を上げて立ち上がる。 「そうだ、化野ゆかり」 「……はい、なんでしょう」 振り向いたゆかりに、ガクは大真面目な顔で要請した。 「俺にはマイスウィートがいるから惚れないでほしい」 「……」 ふるえる唇をきつく噛み締め、ゆかりはどうにかOKサインを指で示すと、くるりと背を向けた。行きの倍の集中力でもって慎重に足を降ろし、後ろ向きのままもう一度だけ片手を振って室内に入る。開け放しだった窓をゆっくり閉めて、 「……っ」 声にならない声で爆笑した。 ツキタケから聞いていたとおり、犬塚ガクはとんでもなく変な奴だ。 変で、だけどたぶんとってもいい奴だ。 *** 「あだしの、ゆかり、さん」 ちいさく自分を呼ぶ声にゆかりは振り返った。そこには目下、彼女を悩ませる青年と同じく季節はずれの格好をした少年が、唇を固く引き結んで立っていた。 「アニキのことなんですけど」 真剣な声音に、ゆかりも自然と真面目な顔になる。 「きっと、もうわかってると思うんです。関係ないって。でもきっかけが見つけられないんだ」 「違うって何が?」 「……それはアニキに聞いてください」 「いや、聞きたいのは山々なんだけど、」 ゆかりの言葉をツキタケは左手で制した。大人びた仕草だった。 「アニキとオイラ、ときどき屋根に上って空を見るんです。満月の日とか、逆に今日みたいに月がない日とか。そういう日は星がよく見えるから」 話の流れが見えないまま、とりあえずゆかりは頷く。 「たいてい2時間もしたら中に戻るけど、オイラが途中で眠っちゃうようなときはアニキはそのままずっとそこにいてくれるんです。オイラが起きるまで、動かさないで」 だから。ほんの少し後ろめたそうに目を伏せながら、それでもツキタケは力をこめて言った。 「今日、オイラ、途中で寝ちゃうんで」 「……ん?」 「いっつも、屋根に上がるのはねーちゃんが寝てからだから、11時半くらいです」 「ああ、」 「ゆかりさん、じゃあ私、今日は夜ふかししないで11時半に寝るね」 隣に座る姫乃が力強く請け負った。可愛い子供たちの粋なはからいを見せられて、臆するのは大人ではない。 「わかった、ありがとう」 にっこり笑ったゆかりをちょっと眩しそうに見つめ、ツキタケは、 「ああ、そうだ、大事なこと」 慌てたように付け加えた。 「アニキは……ときどき、突拍子もないことを言ったりしたりすることもありますけど、あの、笑ったりしないであげてください。そういうのが一番……ダメなんで」 「ん?うん、わかった」 少年は心の底からほっとしたように笑った。 *** かの人のあだ名が《Mr.ガラスのハート》という、不名誉だが大変彼にふさわしいものであることを、ゆかりが知るのはもう少し先の話である。 (2012.08.13) モドル |