「肩の力を抜け……もっとだ……そう……そのまま両手を前に、胸の前でボールを抱えるようなイメージで……それじゃちょっと大きすぎる、」
最初はもっと小さくていい。澪はたしかにそう言おうとしたのだ。しかし、それが音になることはなかった。
目の前にあるものが信じられず、思わず瞬く。
成り行き上、己の一番弟子という扱いになっている童顔の女性――化野(あだしの)ゆかりが、今、軽く眉をひそめながらもどうにか両腕に抱えているのは、薄紫色を帯びた光の塊。彼女の内に秘められた魂の力――剄(けい)。

案内屋は、生身の身体でありながら剄を自在に使いこなし、悪しき者どもと闘う。その発現の仕方には空(キャ)・風(カ)・火(ラ)・水(バ)・地(ア)の五種類があり、澪が司るのは水。これは主に治癒の領域で力を発揮する。自分の元で学ぶ以上、ゆくゆくはそちらに特化した術を教えていくことになるのだろうが、なにしろゆかりは素人だった。
まずは四の五の言わずに、剄を具現化できるようになることが先決だ。
そう思った澪は、この十日間、彼女が考えうるかぎり《最短の》ルートでもって弟子を導いた。そして今日、はじめて発剄(はっけい)のやり方を教えたのだ。自分の身体を巡る剄の流れを感じ、そのまま指先から放出するように念じろ――
もちろん、期待などしていなかった。ただ、これまでの様子を見るかぎり、全くできないということはなかろうと踏んでいたのもまた事実で、実際、今、弟子は見事に剄を現出せしめている。だから本来ならばここは褒めてやるべき場面なのだろうけれども。
二つほど由々しき問題があった。
まず、その大きさ。
澪はボールと言ったのだ。
「……おまえ、何のボールをイメージした」
「えっ……バランスボール、です、けど」
あっ、消えちゃう!話しかけないでください!
悲鳴のような声を上げて、弟子は大きく表情をゆがめた。
光が揺らぐ。しかし次の瞬間、それを上回る強さの輝きが掌から放たれた。球体の輪郭に変化はない。
詰めていた息を吐いたのはゆかり。
澪はその横顔から目をそらすことができない。
つぅっと、背筋を冷たいものが流れた。

***
「ボールっつったらサッカーボールだろ」
エージが言い、
「バスケットボールじゃない?」
ツキタケが首をかしげた。
「ごめん……私、インドア派だったから……」
恥ずかしげにうなだれたゆかりに、
「それでもバランスボールはねえよ」
エージはつめたくツッコミを入れはしたものの、
「しっかしインドア派がよくあんなムチャクチャに耐えたな」
至極まじめな表情でゆかりをねぎらった。
「ううん、なんかね、あまりにも未経験すぎて面白かった!」
それは本心だ。
「運動しすぎて吐くって、漫画の嘘だと思ってたよ」
「……一応聞くけどさあ、中学の部活は?」
「帰宅部」
「高校」
「帰宅部……」
「……大学は」
「一年のときは何も入ってなくて、二年の秋から児童文学研究会。卒業まで」
「筋金入りっすね……」
ツキタケのマフラーがぴょこんと跳ねた。驚いたらしい。
それはそうだろう。そんなゆかりが現在取り組んでいる《修行》とは、朝夕5kmずつのジョギングに腹筋背筋腕立て。プラス、剄をその身体に巡らせ、現出させる訓練。
初日のありさまは凄惨をきわめた。前の晩に夜ふかしなどしていたから尚更だ。今はようやくその生活にも慣れつつあるけれど、さすがに帰宅後はシャワーを浴びて布団に潜るのが精一杯で、一応本業である執筆に滞りが出ることだけは困りものだった(今月は締切が少なかったのが幸いした)。
「目標は自分の身を護れるようになることだ。闘って勝つことでも案内屋になることでもない」
《修行》の初日、そう宣言した《師匠》こと湟神澪に、甘い期待を抱いていなかったと言えば嘘になる。その予想を大きく裏切った、単なる護身術の講習にしてはあまりに厳しいそれに、正直なところ最初の三日くらいは後ろ向きになる気持ちをぬぐい去れなかったゆかりであったが。
「気持ちは痛いほどわかるけど、あれでも湟神はプロだから。まずは出された課題を精一杯こなすことが大切」
と、何やら訳知り顔の明神に諭されて心を入れ替えた。元来、素直なたちである。
ようやく剄の何たるかを教わったのは、所定のコースを走り終えたゆかりが道路に倒れ伏さなくなった八日目のことだった。と言っても、澪が喋っていたのは実質3分にも満たないくらいで、ことここに至って彼女の方針――「身体で覚えろ」――を理解したゆかりは、以降、その指示にはなるべく素早く従うように心がけたのだった。それでずいぶん怒鳴られることは減ったが、それでも澪は常に厳しい表情を崩そうとせず(当然といえば当然のことなのかもしれないが)、それは過度な運動よりも何よりも、ゆかりにとって一番こたえることだった。
しかし、昨夜は。
「だけどスゲーな、そんなにデカかったのか」
エージが目を輝かせ、ツキタケもうんうんと頷く。ゆかりは曖昧に笑う。
「最初っからそんなんなら、ユカリ、いっそ案内屋目指しちまったらどうだ?」
「無理!それは絶対無理!」
大げさに手を振ると、少年たちはきょとんとした表情になった。
話の《先》を聞いていないのだから当然だ。小さくため息をこぼし、ゆかりは頭をかきながら続きの顛末を語る。

***
「よし、それじゃ……次だ」
声が震えそうになるのを必死に抑えながら、澪は弟子の手元を見つめた。
「あの木」
ゆかりが無言で頷く。
「陰魄だと思って、当てろ」
その肩がひゅっと縮んだ。そのままそろりと首を上げて、10mほど先にぽつんと立つ大木を見やる。
「大丈夫だ、おまえのソレくらいじゃ傷さえつかないよ」
ためらいの理由は察しがついたから、澪は先回りして言った。ゆかりがほっとしたように眉を下げる。が、すぐに表情を引き締め、ゆっくり息を吸って、吐いた。もう一度、今度はより深く吸う。
「はっ!!!」
裏返りそうに高い声は気合というにはずいぶん可愛らしかったが、そんなことに頓着している余裕は、澪にない。
さすがに周りに被害を及ぼすことまではないだろう。
しかしあの大木がどのような状態になるかなど、本当はわからなかった。
この、高貴な色を帯びたエネルギーがどれほどの強さを持つものかなど、
「…………は?」
間の抜けた声が、張りつめた空気を震わせたのち、己の鼓膜に響く。
「…………あれ?」
首をかしげた弟子が、伸ばした腕をおそるおそる引く。
一瞬前までたしかに存在していた巨大な球体は、今やきらきら光る無数の粒子に姿を変え、風に吹かれる線香の煙のように立ち上り、やがて大気に溶けるように消えた。

***
「そんなに急いで食べると、頭、キーンてするよ」
「うるさいっ!!」
ざくざくと音を立ててチョコレートパフェを蹂躙する澪を、白金は頬杖をついて眺めている。
奇妙な恰好の二人組は店内の注目の的だったが、頭に血が上っている水の案内屋はつゆほども気にならないらしかった。もちろん、白金はハナからそんなものは気にしない。
「それから何回トライしたの」
「そんなもん数えるかっ!!」
口の端についているコーンフレークの欠片を指で取ってあげた。澪は顔色ひとつ変えない。
「あれだけデカイんだぞ、しかも紫だぞ、期待するなと言うほうが無理だ、それをあいつ……当てることはおろか飛ばすことすらできないときた!!!」
ダン、と、スプーンを握りしめたままテーブルを叩いた澪に周囲の視線が集まる。その中にはウェイトレスの冷ややかな眼差しも混じっていたので、白金は少しだけ焦った。これでは追い出される。
「はいはい澪ちゃん、どうど……あ、キーンてしてるね」
「……うるさい」
おとなしくなった彼女の胸の内にあるのは憤りの形を取っているけれど、本当はもっと別のモノだ。付き合いの長い白金には手に取るようにわかり、だからこそ思案する。
「あらためて言うまでもないけど。……本来《ただの人》の剄に色なんか付かない」
「ああ」
「しかも、紫。神様レベルだね」
「……っ」
「ゆかりちゃんは地上に舞い降りた天使なのかな?」
「お前こんな時に、」
振り上げられた拳をなんなく受け止め、
「濁ってた?」
白金は静かに同僚に問う。
「……澄んでた」
「そう」
ならば状況はまだマシなほうだ。
「少なくとも《神憑き》ではない、と。不幸中の幸いと言うべきかな」
剄――魂が、何らかの霊的存在に影響を受けているケースには大きく分けて二種類ある。
善き意志の加護か、悪しき執着の呪縛。後者を俗に《神憑き》と呼ぶ。
「《化野》で《神憑き》じゃあ到底オレらの手に負えない」
「けど、《化野》は、」
す、と左の人差し指を差し出した。澪は口をつぐむ。
「その先は、まだ言うべきことじゃない」
にこり、と笑った自分の真意が彼女に届いたかどうか、そんなことは重要ではない。白金は届いたと信じている、それだけで十分だった。
「さて、」
空気を変えるために軽く掌を打ち合わせた。またも店内の注目を浴びてしまったようだが、もうこの話もおしまいになるので構いやしない。
「さしあたっての問題は、ゆかりちゃんがせっかくの力を使いこなせないことだね?」
澪が不承不承頷く。
「……あれは、精神的なものだろう。何かを攻撃することを、異常なまでに拒否している。いや、攻撃以前の問題だ」
「以前?」
「おそらくは《何かに働きかけること》そのものを」
「ふうん。……無意識に」
「ああ、無意識だな」
「じゃあ、そのロックを外せばいい」
「簡単に言うがな」
「簡単だよ。人間、切羽詰まればなんだってできるもんさ。オレがそのいい証拠でしょ」
思い出してごらん、神吹銀一(カンブキ・ぎんいち)によるオレのための修行の日々を。両腕を広げて明るく言えば、澪は一瞬得心したような表情になったが、
「しかしどうやって」
結局、唇をとがらせた。
「……その顔、オレ以外の人には見せないでね?」
「はあ?」
「うん大丈夫気にしないで」
心底訳がわからないという顔をした想い人の反応は、全くもっていつも通りだ。めげてなどいない。
「オレは周囲を味方につける系ヒーローだから」
モヤモヤを振り切るように、パチン、とウィンクをした。
「今日の稽古はオレがつけよう。大丈夫、大船に乗ったつもりでいて☆」
「おまえ、本当に性格変わったよな……」
呆れ顔の澪は、しかしそれ以上は何も言わずに、残り少ないパフェの攻略にかかった。
少しは信頼されてるのかな、そうだといいな、と白金は思い、入店から今まで手つかずだった灰皿を手元に引き寄せた。

***
「なんで、白金さんが、それを持ってるんですか……!!」
人気のない夜の公園にゆかりの絶叫が響き渡るのは、それから4時間30分後のこと。

(2012.08.20)

モドル