心臓が早鐘を打つ。浅い呼吸に喉が痛んだ。
と、からかうように視界を横切る白い影。
逃がすものか。
その三歩先めがけて思い切り腕を振るった。
めちゃくちゃな投球フォームで放たれた光の球は、しかし目標を大きくそれて木立の向こうに消える。
影は高らかに哄笑した。
「ダーメダメ、ゆかりちゃん。もっと冷静にならないと。でも、」
移動ルートの先に投げたのは、イイね。
あくまで楽しげに言い、影――神吹白金(カンブキ・しろがね)は、踊るようなステップで再び木陰に身を隠した。青い表紙の大学ノートをそれほど大切そうでもなく抱えたまま。
一人残されたゆかりは文字通り地団駄を踏む。歯噛みし、思考を巡らせる。
あれは《何号》の彼だろう。
違った、《色》だ。白金レッドに白金ブルー……あと何人いたっけ?
崩れそうになる体を、手近にあった看板に寄りかからせて支えた。金属のつめたい感触。
さて。
心地よさに手放しそうになる意識を無理やりつなぎとめる。
腐っても彼はプロだ。どうあっても、今の自分が正面突破できる相手ではない。
しかして当然、あきらめるわけにもいかない。
どうすれば倒せる?
どうすれば取り戻せる?

考えろ。冷静に、考えろ。

***
昨夜および本日の未明までおよそ4時間近くを費やしてなお、どうやっても剄を放てなかった自分に、澪はどんな《修行》をつけるつもりだろう。足取り重く、いつもの場所――公園とは名ばかりの、雑木林に囲まれた何もない広場――に向かったゆかりは、入口に差し掛かったところで、おや、と目を細めた。夜目にも白い細身のスーツ。それに、
「やあ、ゆかりちゃん。お久しぶり」
朗らかな声に思考が寸断される。
「お久しぶりです。白金さん」
初めて会ったときと寸分たがわぬ出で立ちで、風(カ)の案内屋は爽やかに微笑んだ。
「そうそう、ありがとうね。化野先生にご紹介いただいて」
「ああ、いえいえ。何だか父がお世話になっているそうで、こちらこそありがとうございます」
「いやあ気が合っちゃって。もう三回は飲みに行ったよ」
「えっ……週一?」
怪奇小説作家である父は、その分野ではそこそこ名が知れているらしく、一人娘のゆかりはサインを頼まれることもあれば、請われて面会の場を調えることもあった。ただし、父は重度のワーカホリックであり、空いている時間は多くない。だから後者のパターンは珍しかったのだけれども、なんでも白金は《処女作から全部チェック済みの大ファン》だそうで、《いつになっても良いので是非お会いしたい》と先日、車の中で熱心に頼まれたのだ。結果、思いのほか早く実現した邂逅は、両者にとって大変有意義なものであったらしい。
父は全く《見えない》人間である。ゆえにその取材ぶりは綿密の一言に尽きる。なにせ三度の飯より怪談が好きという性分で、自宅には古今東西あらゆる種類のオカルト本が取り揃えられ、それを目当てに通う同業者・好事家も少なくない。また人当たりが良いこともあり、いつもどこからか思わぬ奇談や都市伝説を拾ってくるのも得意だった。
だからこそ彼は、《見える》人間との出会いを常に求めていた。
存在自体がフィクションのような白金はまさにうってつけ。
現代の陰陽師みたいな人だよ、と電話口で伝えたときの高揚ぶりと言ったら。
一度目の会食はゆかりも同席した。普段あまり酒を嗜まない父が、興奮のためか次々と杯を空けるのをゆかりはあっけにとられて眺め、見合いの仲人のような居心地の悪さに早々に辞したのだが、どうやら以降も確実に友情は育っているようだ。
「最近はゆかりちゃんの話もよく聞くよ。初めてのお使いで転んで卵のパック割っちゃって泣きながら帰ってきたこととか、小学生の頃から台所に立ってたけど作るものがまるっきり男の料理だったとか」
「何を話しているんですかあの人は……」
「で、ね。そんな化野先生から今日はこんなものを預かってきましたー」
じゃん。
子供じみた効果音と共に突き出されたのは、一見、何の変哲もない大学ノート。青い表紙には小さく日付が入っている。

2001.08.13-12.08

2001年、夏。
「なんで、白金さんが、それを持ってるんですか……!!」
絶叫が木々の隙間に響き、消えた。
サングラスで瞳を隠した案内屋は、やや黒い笑みを浮かべた。
「資料を整理していたら見覚えのないノートがある。どうも娘の日記らしい。なぜ紛れ込んだのかはさっぱりわからないが、とにかく返さなければいけないと思う、でもいろいろ疑われそうで言い出しづらい……」
「だからって知り合ったばかりの赤の他人に預けるバカがどこにいますか!!」
あンの世間知らず……ゆかりの悪口を白金はさらりと聞き流した。
「もちろん、オレは紳士だから中は見てないよ」
そこでほっとしたのは大いなる間違いであった、と、後に彼女は野球少年に語ることになる。
「でも、これをオレから取り返せなければその後は保証のかぎりではない」
「……すみません、よく意味が」
「ルールは簡単。昨夜出したような剄のカタマリを、オレに当てれば君の勝ち。かするくらいでもこの際よしとしよう。さらにハンデとして、オレは今から増えまーす」
キュウウウウン、と、何やらアニメの変身シーンに流れ出しそうな機械音が白金のベルトから流れ出す。同時に彼の身体からもくもくと湧き出すのは、白い霧のようなもや。
「120%、身剄融合(しんけいゆうごう)」
警報装置のアラームに似た響きの後にゆっくりと煙幕は晴れ。
そこにいたのは五人の白金だった。
「増えた……」
「向かって左から、白金グリーン、白金イエロー、真ん中のオレが白金レッドで、こっちの二人が白金ブルーに白金ゴールドね」
「どこから突っ込んだらいいのかわかりません」
「一応オレも男の子だからね、ピンクはないかなって」
「そこじゃない……」
肩を落とすゆかりに、白金レッドはわざとらしく大きな動作でスーツの左袖をまくった。いかにも高級そうな腕時計が街灯の光を跳ね返す。
「制限時間は夜が明けるまで。じゃ、スタート☆」

そして、冒頭に戻る。

***
背後の闇がざわりと動き、ゆかりは看板から体を離した。搏動はほぼ普段通りにまで回復している。軽く、首と肩をまわした。しっかりと大地を踏みしめて立ち、澪に習ったとおりに意識を集中させる。
ほわり、と淡い光の塊が掌に乗った。それを、削る、イメージ。
数秒ののち、光はピンポン玉くらいの大きさにまで引き絞られた。その分、色も濃くなっている。
そこでようやく掌を正面に向けた。
息を吐き出すタイミングで、放つ。
数メートルほど先にあった街灯の先端が小さく揺れた。衝撃で光の球はあとかたもなく散ってしまったが、我ながら上出来だ。
「さすがに走りながら当てるのは無理だけど、体勢整えればざっとこんなもんよ。野生児なめんな」
準備体操のように、手首をぶらぶらと振る。
「射程距離は5mってとこかしら。私、目はいいけどアレは小さいじゃない」
足の先を地面に付け、やはりジョギングの前のようにぐるぐると回した。
「白金さんが約束を守ってくれるかなんて、悪いけど五分五分だと思ってる。だから、アレをこの手に取り戻すまでがミッションです」
足全体を屈伸。
「背後を取れればいいと思うの。でも、気配を消してあの人の後ろに回り込むなんてとても無理。だからそうね、たとえば、正面に対峙していた彼が急に後ろを向いてくれたりしたら最高なんだけど」
やることがなくなってしまったので、大きく伸びをした。脱力。
「と、いうわけで、よろしく」
闇が口を開くまで、そう時間はかからなかった。
「俺が白金だったらどうする気だったんだ」
こぼすような溜息をゆかりは笑う。
「なーに言ってんの、気配が全然違うじゃない」
「いつから気づいてた」
「その話はあと。そろそろ動かないと、さすがに白金さんもおかしく思うでしょ」
「……貸し1」
その言葉を最後に、男はふつりと気配を消した。
「合点承知」
聞こえないとわかってはいたが、ゆかりはあえて口に出し、微笑んだ。
さあ、反撃開始だ。

***
《白金イエローへの攻撃に失敗したゆかりが、勢いで木の根につまづいて転び、そのまま十分以上も動かない》――白金ブルーの報告を受けた白金レッドは、ふむ、と顎に手を当てた。腕時計の短針は12にほど近い。《ゲーム》の開始から既に二時間ほどが経過していた。
うたかた荘の文学少女は、メロスよろしく心が折れちゃったかな?
呟き、ともかくも現場に向かうことにする。
都内の公共施設としてはいささか広すぎるその公園の、西の端にゆかりは倒れていた。肩はゆったりと上下しており、何より報告と一言一句違わぬ態勢だったため、具合が悪いということではなさそうだ、と白金は判断した。ちなみにそのような場合にはすぐ伝えるようにとも最初に言い渡してある。
「ゆかりちゃーん?」
一瞬、肩の動きが止まった。しかし彼女は顔を上げない。
「ゆかーりちゃーん」
罠の可能性も十分あったから、そろそろと近づく。夜明けまでかからずとも彼女はミッションを達成するであろう、と、白金は踏んでいた。ただし、長引けば若干の手加減が必要になるやも――
背後からの衝撃波に、青年は思い切りたたらを踏む。
大地がぐらぐらと揺れ、一斉に鳥が飛び立った。慌てて振り返る。
サングラスに遮られたやや暗い視界のちょうど中央に立っていたのは――うたかた荘きっての情緒不安定、犬塚ガク。
「え、なに、な、」
その時、銃声にも似た軽い音が腿の脇で弾け、
視線の先、彼とガクとの間の空に一冊のノートが舞った。
とっさに己の右手を見やる。そこにあるのは何も掴んでいない掌。
と、もう一度、今度は正面から二度目の突風が彼を襲う。
みじかい髪が大きく煽られ、宙に浮いた《人質》は今度は彼の後ろへと勢いよく飛ばされ、
パシリ。
小気味よい音が耳に届いた。
ここに至って、案内屋はようやく何が起きたかをおぼろげに理解する。
ゆるゆると振り向いたその先には、さっきまで絶望に打ち震えていたはずの女メロスが、右腕を高々と突き上げ、満面の笑みを浮かべて立っていた。その手に握っているのが何かは言うまでもない。
「ちょっと変則だけど……私の勝ちってことでいいですか?」
白金はゆっくり両手を挙げた。ホールドアップというやつだ。
「恐れ入りました」
今度はゆかりが声を立てて笑う番だった。

「で、いつ打ち合わせしたの」
「……さっき?」
首をかしげるゆかりに、白金は苦笑した。
「まさかガク君を巻き込むとはね」
「だって暇そうでしたし」
「ちょっと待て、だからいつから気づいてた」
ゆかりと白金は顔を見合わせる。
「最初ですよね」
「最初だね」
さっとガクの頬が紅潮した。慰めるようにゆかりが言う。
「私、今日一日あまりにも気が重くて、姫乃ちゃんにさんざん心配かけちゃったから。だから来てくれたんでしょう?」
それは事実だ。行きたくない、と直前までリビングで愚痴をこぼしていたゆかりを、心優しい少女は心底困ったような顔で見つめ、あれこれと励ましてくれていたのだ。その傍らには常のとおりガクがいて、愛しい彼女のためだろう、いつも以上に陰気な空気を振りまいていたのだった。
「……そのとおりだ。俺のフィアンセに悲しい顔をさせないでもらいたい、居候」
「居候じゃないよ店子だよ。でもそうだね、ごめんね」
素直に謝るゆかりに、ガクが目を見開く。
「ガクさんって本当、ぶれないよね。そういう人好きよ」
髪の毛一本ぶんほどの静寂ののち、ゆかりの目から火花が飛んだ。
「なんで!?なんで褒めたのにぶつの!!?」
「うるさいこのセクハラ作家が!!!」
「わからない、何一つわからないよガクさん!?」
いつのまにか木槌をピコピコハンマーに変化させたガクと、脳天を押さえたゆかりがぎゃいぎゃいと言い合う横で、白金はそっと右手を開く。
鋭い刃物で切り裂かれたような赤い筋が横に一つ。もう血は止まっている、というか、最初からほとんど出なかった。
憤懣やるかたないといった様子でぴょこぴょこと揺れる小さな黒い頭を見下ろし、さりげなく両手をポケットに突っ込む。
「そもそも人の日記をハンマーで打ち返すとかひどすぎる。オニ!」
「《この手に取り戻すまで》と言ったのはお前だろう」
威勢の良い声をあげるこの年若い女性の苗字は、《化野》。
その事実をどう捉えるべきか、風の案内屋は未だ判断をつけかねているのだった。

(2012.08.27)

モドル