「それで、そのノート――日記は」
「燃した」
ぽかん、と口を開けた姫乃ににっこりと微笑む。
「二度とこんなことが繰り返されないようにね……」
「え、ええと、何かかっこいい台詞だけど、いいんですか!?だって」
我がことのようにおろおろする彼女はいつも通りとても可愛くて、ゆかりはここにガクがいないのを心から残念に思った。あとで自慢してやろう。彼のスウィートの困り顔をひとりじめしたことを。
「いいのよ、もともと捨てたつもりでいたし。それにね」
きっと今、自分はとても《優しい》表情をしているのだろう。天井の隅に丁寧にはたきをかけながら、ゆかりは心の内でだけ己をわらう。
「私は姫乃ちゃんみたいないい子じゃなかったから、過去なんて軒並み黒歴史」
「くろれきし?」
「暗黒の歴史、闇に葬り去りたい記憶ってこと」
姫乃が小さく眉を寄せた。
「ゆかりさんは私のこと、」
「うひゃあっ!!?」
「え、何なに」
「顔に!なんか顔に!!」
じたばたと暴れるゆかりを、
「落ち着いて!とりあえず落ち着こうゆかりさん!」
姫乃は全身の力でもって押さえ、しかるのちにそっとその顔に指を伸ばした。
「……あ、蜘蛛の巣」
複雑に絡まった白い糸の先端が、ゆかりの吐息で揺れている。
「あらま、悪いことしちゃったね」
「ええ、蜘蛛は益虫って言いますから……あ」
姫乃の視線を追えば、果たしてそこには二匹の小蜘蛛。小指の爪ほどのそれは、逃げようともせずじっとしている。漆黒の体躯にはあざやかな紅が点々と散っていた。
「ジョロウグモ……じゃないね、なんだろう、珍しい。そして結構大きい」
「私も初めて見ました」
すこし眉をひそめながらも、姫乃はなかなか興味ぶかげな様子。
「君はどこのクモ君?」
別段、虫を苦手としないゆかりは冗談半分に手を差し伸べ。
刹那、鋭い痛みがはしった。
「いった!!噛んだ!こいつ噛んだよ!!」
「え……っと、とりあえず落ち着こうゆかりさん!」
再びの喧騒が去ったのち、残ったのはゴミのような蜘蛛の巣の残骸だけ。ゆかりと姫乃は顔を見合わせて掃除に戻る。
「あの蜘蛛、今度会ったらただじゃ置かん」
鼻息荒くはたきを使うゆかりに、姫乃は苦笑した。
「また同じ場所にかけますかね、巣」
「どうだろうね。庭なら勘弁してやらんこともないんだけどね」
廊下はなあ、今日みたいにお客様が来るときにみっともないからなあ。
呟くゆかりの鼻先を、バターのいい香りがくすぐった。
「あ、そういえば、マドレーヌ」
「うわ、もう焼けてるっぽい!」
パタパタと駆ける姫乃の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるのと、玄関の引き戸が払われるのは同時だった。
「あ、エッちゃん!いらっしゃい!」
少女の朗らかな声が響く。

友人の住む、このボロアパートに足を運ぶのは三度目だ。一度目は冬、管理人の誕生日パーティーの日。二度目は春、一本きりの庭の桜の下で騒いだ花見の日。しかして、たびたび話には聞いていた新しい店子と相まみえるのは初めてで。
「って、麒麟堂小町!?」
挨拶もそこそこに、思わずそう叫んでしまったのは我ながら失態だった。
「あら、ウチをご存知?でもコマチって何かしら」
怪訝そうに小首をかしげた細身の女性を、悦子はよく知っていた。友人――桶川姫乃をひそかに慕うような《文系》(悦子に言わせれば意気地のない)の男ども、そして何より咲良山高校OBたる己の兄が熱を上げていた、学舎近くの古本屋の店員。
扱う品が品のため、店内に足を踏み入れる猛者はほとんどおらず、したがってその本名は知られることなく、ただ屋号と併せてそんな仇名がついていたのだった。もちろんのこと本人は知るまい。
言葉を選んで説明すれば、コマチは薄く頬を染めた。
「嬉しいけど……姫乃ちゃんの高校って、古風ね」
たしかに今時《小町》はない。聞けば、仇名をつけた張本人は兄の級友で、当時そのクラスではナントカ小町という漫画が爆発的に流行していたそうだ(受験を目前に控えた時期だったのに!)。
麒麟堂は、近世から近代までの古書全般を扱う店だ。黄表紙に洒落本、全集に絶版文庫と並べられるそれらは雑多で、高校のごく近くという立地条件にも関わらず、十代の若者が読めそうなものはほとんどない。あの《咲良山高校名物》と名高い校長が足しげく通っているという噂もあるが、真相は藪の中である。
そんなちょっと敷居の高い店だからこそ、麒麟堂小町の名はひそやかに語り継がれ、彼女は《文学》という響きに淡いあこがれを抱く少年たちの視線を一身に集めることとなった。抜けるように白い肌。薄暗い店内から物憂げに表を見つめる大きな瞳。そして何より、竹下夢二の美人画から抜け出たようなそのシルエット。
なのに、なのにだ。
「駆け出しの作家なの、貧乏だから家にこもって原稿書くか麒麟堂でバイトするしかないし、だからほら、全然日に焼けてなくって、顔色悪いってよく怒られるんです。だいたい夜中にならないと筆が乗らないからバイト中はいっつも眠くて、寝不足な分は食で補うようにしてるんだけど、食べても食べても太れないのよね、たぶん遺伝」
兄が聞いたら何と言うだろう。
「彼氏?いないいない、あ、あのメガネ?大学からの腐れ縁よ、K社の編集だから仕事はできるけど、アレはやめたほうがいいよ、ほーんと彼女と長続きしなくてねえ……」
井戸端会議をする主婦のように手ぶりを交えて喋りまくる彼女からそっと視線をそらし、友人とその右隣に座る男を見やる。若いのに真っ白な髪をした彼は、時に笑い、時に真剣な顔で相槌を打っている。
こりゃあ、姫乃の元気がなくなるわけだ。
小さく肩をすくめると、なぜか、姫乃の左隣――ちょうど人ひとり分空いている何もない空間――が揺らいだような気がした。

桶川姫乃という少女はちょっと変わっている、と悦子はつねづね思っている。おとなしそうな外見とは裏腹に案外ズバズバと物を言い、向日葵のような笑顔が自然と人を惹きつける彼女は、入学三日目にして不登校児と化した。
いや、最初はほんの一日学校に来なかっただけなのだ。しかしいかにも真面目そうな彼女が連絡の一本もよこさないことを担任は憂えていた。今思えば母が亡くなり、父は海外に赴任中というその境遇も心配に拍車をかけていたのだろう。
次の日、すこし眠そうながらも変わらぬ笑顔で教室のドアを開けた彼女を、悦子はポーカーフェイスで迎えた。ちょっと体調崩しちゃって、と少女ははにかみ、小さくあくびをした。
一週間後、彼女はまた連絡を入れずに休んだ。今度は長かった。しかも彼女の鞄がひょんなことから下水道で見つかったため、最終的に大規模な捜索が行われるところまで話は発展した。とうとう新聞の地方欄にちいさく記事が載った翌々日、担任は朝のホームルームで目を潤ませながら、彼女から連絡があったことを知らせた。まだ知り合って日の浅いクラスメートたちは、それでもどよめいて彼女の無事を喜びあった。そのまた翌日、やはり恥ずかしそうにしながら教室に入ってきた彼女は、突如沸き起こった拍手と歓声に棒立ちになっていた。
真相を、悦子は未だに知らない。
「わ、ガクリンひどい!」
ただ、彼女が特殊な環境に暮らしているらしいと知ったのは今年の一月のこと。
「え、やだ、そんなつもりじゃ……うん、うん、わかったよ、だから泣かないで」
初めてアパートを訪れた悦子を待っていたのは、宙に浮くトランプの群れと《亡くなった》はずの姫乃の母。
「あ、あのね、《リバース》だから順番が逆になるの」
《西咲良町のうたかた荘は、ホンモノの幽霊屋敷》――そんな噂を世迷言だと信じきっていた悦子の前にあらわれたのは、あまりに非現実的な出来事の数々で。
「明神さんを、その、やっつけるためには致し方ないってガクリンが」
ふわりと笑う友人の視線の先には、白髪の管理人。彼は、先だって町内のおもちゃ屋に頼まれた《依頼》の《報酬》に、このカードゲームを譲り受けたのだという。詳しいことはさっぱりわからないが、姫乃が語らないことは聞かないのが悦子のルールだった。
それでも彼女はいつも楽しそうだったから、悦子はそれなりに安心していたのだけれども。
《エッちゃんに相談したいことがあるの》
学校からの帰り道、思いつめた瞳を自分に向けた友人の顔を思い出す。
お医者様でも草津の湯でも、か。
呟きに反応したのは予想通りコマチだけで、そのことが悦子の胸をより重くさせる。
目の前では、自分の左隣の《空間》が、ゲームの一抜けをしたところだった。先ほど姫乃がウノ、と代理宣言をしたのは彼(彼女かもしれない)の分だったらしい。

楽しい時間は瞬く間に過ぎ、後に残るは大量の洗い物。
「ったく、そのうち食器も剄伝導してもらおうかな……」
ボヤきながら皿を重ねていた明神は、澄んだ声に呼ばれて振り向いた。
「あれ、エッちゃん。忘れ物?」
先ほど、姫乃と連れ立って玄関を出たはずの客人――葛城悦子が、自分をまっすぐ見つめて立っている。
「はい、明神さんに言い忘れてたことがあって」
「俺に?はいはい、なんでしょう」
見下ろす彼女は、姫乃よりもわずかに背が高い。
「単刀直入に。……姫乃は私の大事な友達だから、泣かせたら承知しませんよ」
くい、と唇の右端だけを不敵に上げて、
「それじゃあ失礼します!」
折り目正しく勢いよく、明神が問う暇も与えずに頭を下げると少女は踵を返してリビングを出ていく。開けっ放しの玄関扉にちょっと迷うようなそぶりを見せたが、結局、その姿が見えなくなるまで一度もこちらを向くことはなかった。
「近頃のガキは生意気ねー」
不意に耳元で声がして、明神はひくりと肩をこわばらせた。見れば、両側頭部にピンク色の羽根を持つ《皇帝コウモリ》・コクテンが、袴の裾をはためかせながらふわふわと浮いている。手を組み、顎をその上に乗せて、口元に浮かぶのは悦子が最後に見せた笑顔によく似ていた。
「ちょーっとだけ、この先が楽しみになってきたわ」
「なんのことだよ」
「アンタ、そんなだから駄目なのよ」
なんだとぅ!?拳を振り上げたところで雪乃が台所から顔を出し、明神はその場を繕うのに苦労した。

「ゆかりさん、有名な人だったんだね」
「姫乃は知らなかったか。家と逆方向だもんね、あの店」
肩を落とす友人にも、悦子は全く動じない(でないと彼女はますます落ち込んでしまう)。
「ユカリサンが麒麟堂小町だったってんなら逆に全然問題ないかと思ったけど、中身があんなだと、ちょっとな」
途端にバッと顔を上げ、食い入るように自分を見る姫乃に軽く笑いかける。
「美人で天然でオッサン。なんかちょっと明神さんに似てるよね」
「明神さんはオッサンじゃないよ……」
小声で抗弁をこころみる彼女も、彼らの共通点については承知しているらしい。小さくため息をついて、
「やっぱりあの二人、気が合ってるよね」
泣きそうな顔になる。
「だー、もう、姫乃!」
バン!と小さな背中を叩いた。友人のハの字になりかけていた眉は瞬時に戻る。
「恋愛ってのはね、自分にないものに惹かれるのが基本なの。Undeustand?」
「え、えっと」
「あんたにはコマチにないいいところがたっくさんある。ちょっと年上だからって気にすんな。それに」
わざとしかつめらしい顔を作って覗きこむ。
「あんたと明神さんが一緒に過ごしてきた時間の重さを忘れる気?」
姫乃の目のふちにみるみるうちに透明な雫が溜まる。
「エッちゃーん!!」
「うわ、こら離れろ、恥ずかしい」
道端でじゃれ合う少女たちを微笑ましそうに眺めながら、買い物帰りの主婦がゆっくり通り過ぎた。梅雨の晴れ間に顔を出した太陽は、そろそろ地平線の向こうに姿を隠す頃合。のんびりとカラスが鳴いている。
今日はご馳走を作ろう、と、悦子の肩に顔をうずめながら姫乃は決意した。この涙がおさまったら公園で顔を洗って、とりあえず買い物はせずに急いで帰ろう。
そして、とびきりの笑顔でただいまを言うのだ。恋しい人と大切な家族、大事なだいじな仲間たちが住む、世界で一番のアパートで。

(2012.09.03)

モドル