見上げればどんより曇り空。
「っていう歌があったなあ」
「ん、何か言ったかいゆかりちゃん」
実にみごとな禿頭を持つ、白装束姿の老人が顔を上げた。
「いえいえ独り言です」
「おっきい独り言じゃのー」
額に三角の紙を貼り付けた、これまた老年の男性がのんびりと笑った。
「なんじゃモイチ、小姑みたいなこと言いよってからに」
「なんじゃ、サクのとこの小姑はそんな人だったんかい」
「違うわ!わしはただ、」
「あーもうやめんかい」
黒々とゆたかな髪を持つ、先の二人よりは少し若そうな男性が呆れたように割って入る。彼もまた、纏っているのは同じような白い着物で合わせはもちろん左前。古式ゆかしい死装束だ。
「いいよねえ、この三人」
隣に立つ少女にゆかりはそっと囁いた。
せいぜいうたかた荘の敷地くらいのこぢんまりした墓地の真ん中。ここはいつ来てもひっそりと静かだ。それでもさすがに今日は普段よりも供えられている花が多く、ゆかりの胸にあたたかな火が灯る。
「モイチさんがボケでサクさんがツッコミ、ゴンジさんがまとめ」
水を向けられた姫乃も声をひそめて囁き返す。
「もともとお知り合いなんでしたっけ」
梅雨明け間近な季節独特のなまぬるい空気が、べったりと肌にまとわりつく。
「ううん、お墓がお隣だったんだって」
ほほう、と、およそ十代の若者に似つかわしくない声をあげて姫乃が唸った。やはり死後も近所づきあいは大切だということか。腕を組んで霊のコミュニケーション事情について考察する真面目な少女に、サクがふと視線を向けた。
「今日はなんだ、明神はおらんのか」
「あ、はい、昨夜だいぶ遅かったみたいでまだ寝てます」
「もうすぐ夕方になっちまうぞ」
「サクは明神が大好きだからのー」
「なに言っとんじゃ気持ち悪い!!」
「あーもう……」
頭のてっぺんから湯気を出す勢いのサクをゴンジが無理やり羽交い絞めにする。からかった張本人――モイチは、隣の墓石の後ろにひょいと隠れて顔だけ出し(意外と身軽である)、
「わしは女の子のほうが嬉しいんじゃがなー♪」
細い目をますます細くした。
「やだモイチさん、お上手」
「な、お前、抜けがけか!!」
「サクはホントにうるさいのー」
「そうだそうだ、血管切れるぞ。お陀仏だ」
「もうしとるわ!!」
恒例のやり取りが一周したらそろそろ帰りどきだ。ゆかりは姫乃に目配せし、足元に置いていた買い物袋に手をかけた。
「おや、もう帰っちまうんかー」
名残惜しげな六つの瞳にゆかりは祖父母を思い出す。少しだけ胸のあたりがきゅうっとした。
「また来ますんで」
軽く頭を下げるようにすれば老人たちは鷹揚に手を振った。
「いいんじゃよー若い人は忙しいもんじゃ」
「いつもすまんね。明神によろしくな」
「しかしゆかりちゃん、今ぁお盆だろ?こんなじじいなんかほっといていいから、お家のお墓に行ってやんな」
こんなとはなんだ、じゃあどんなだって言うんだ。小突き合う三人にゆかりは目を和ませた。
「大丈夫、ウチ、田舎なのでお盆は旧なんです。お気遣いありがとうございます」
にこりと笑えば、話好きの死者たちはそれぞれ照れくさそうに頭をかいたり、あさっての方向を向いたりするのだった。

左手首に目をやれば時刻は帰宅予定を大幅にオーバーしていた。買い物帰りに少しばかり寄るだけのつもりでも、あの三人の前ではいつもまたたくまに時間が過ぎてしまう。家路を急ぐゆかりの耳に、
「田舎ってどちらなんですか?」
すこしだけ遠慮がちな声が届いた。
うたかた荘の中心でありアイドル、そして大事な大事なみんなの姫君――桶川姫乃は未だゆかりへの距離をはかりかねているようだった。その理由がなんとなくわかるだけに、ゆかりは今のところそれに気づかないふりをしている。
実際、それは全くの誤解なのだけれども。だってどこからどう見たって彼女と彼女の想い人は――ゆかりはそっとため息をつく。知らぬは本人ばかりなり。
「?」
「ううん、そう、田舎ね。埼玉のT市ってとこなんだけど、知ってる?」
「ううーん……」
首をひねる姫乃にゆかりは笑った。
「地元じゃ雨乞いのお祭りが有名なんだけどね。東京の人は知らないだろうな」
「雨乞い……お祈りするんですか?」
「うーんと、まあお祈りもするんだけど。こーんなおっきい龍のハリボテ……じゃないか、なんて言うのかな。こう、藁と笹で作るのよ龍を。でかいのを。で、それ担いで町内練り歩いて、池に沈めて」
「池に……ふうん」
姫乃は何とも言えない表情をしている。実際、50mにも及ぶそれを数十人で担ぐさまはなかなか壮観なのだが、見たことがなければうまくイメージできないだろう。
「最後に参加者みんなで壊すのね。その、龍を」
「えー、もったいない」
目を丸くする姫乃に、ゆかりはちょっと眉をしかめてみせる。
「ていうか、あれはちょっと引くよね……アリがチョウチョを解してるみたいで……」
それほど虫が得意でないらしい姫乃は、しかしその言葉に光景を想像してしまったのだろう。いかにも嫌そうに顔をゆがめたので、ゆかりは喩えの選択を誤ったことを丁寧に詫びた。
4年に一度行われるそれは地元の貴重な観光資源だった。ゆかりも子供の頃は祖母に手を引かれ、担ぎ手に参加する祖父を見に行ったりもしたのだけれど、どういうわけか祭り自体はなんとなく好きになれなかった。子供心にそのことを打ち明けられぬまま二人とも他界してしまい、だから今では足を運ぶこともない。
「父も地元の人間なんだけどね、ペンネームはここから取ったらしい」
「あ、えっと、化野、龍彦さん」
「そうそう……」
先日の騒動(とはいえもうひと月ほど前の出来事になるのだが)を思い出し、ギリリ、とゆかりの左手に力が入る。
「あンのワーカホリックめが……」
よりによって《あの》白金などに大切な私物を渡した罪は重い。あの日、帰ってすぐさまさんざん説教をしたのだが(電話で)、化野家一の極楽とんぼはどこまでわかっているか疑わしかった。一応、反省をしめす声色をしてはいたけれども、だ。
まずいことを思い出させたのに気づいたらしく、
「あ、えーと、それにしても大収穫でしたね!」
姫乃は早口で言い、右手に持ったエコバッグをぶんぶんと振った。
ずっしりとしたそれはいかにも重そうに揺れる。中身は薄力粉が2袋にシソやオクラなど夏野菜のたぐいが少々。対するゆかりが提げているビニール袋も内容はほぼ同じだ。ちなみに内容量500gのこの薄力粉、一つあたりの値段は驚きの39円。
今日は町はずれにできた大型スーパーのオープニングセール2日目だった。自分のためにも他人のためにも菓子作りをよくする姫乃のために、うたかた荘には常時粉類のストックがあるのだが、ここのところ何やかやと人の集まる機会が重なり、在庫が少なくなっていたのだ。
半日で授業を終え、昼食もそこそこに家を飛び出そうとする姫乃をとどめて(気持ちはわかる。なにしろチラシの目玉商品だ)ゆかりが同行を申し出たのは、ひとつはもちろんお目当ての商品が《お一人様2つまで》の制約があったためだが、もう一つには念のための用心ということもあった。
件のスーパーは隣町との境に位置する場所に立っている。
それはそのまま、明神たちが姫乃と雪乃のために張った結界の境界を意味した。
《無縁断世》。
かつてその存在は発覚と同時に《隔離》され、一生を幽閉されて過ごしたのだという。そんなやり方に異を唱え、18年前に雪乃を保護したのが先代の明神と湟神――それぞれ冬悟と澪の師匠にあたる――である。彼らは雪乃の住まいを転々とさせ、さらに行く先々に結界を張って、彼女を狙う陰魄の目をくらます作戦を取った。しかしそれでも結果として、ちょうど11年前、彼女は当時台頭してきた陰魄のグループ・《パラノイドサーカス》に拐われてしまったのだった。
「逆転の発想をしようじゃないか」
昨年春、二人の無縁断世を巡る激闘の後。今後の対応を決めようという場で、白銀の髪をなびかせた風の案内屋は普段と全く変わらぬ口調で言ったそうだ。
「結界は内と外とを分かつ。その性質を利用しない手はない。でも外から二人を護るには限界があるし、彼女たちの自由にも制約がかかることになる」
前例が一つもないのに、
「ならば内側をオレたちのホームグラウンドにしてしまえばいい」
口元に自信たっぷりな笑みを浮かべて。
「コンセプトは《攻撃は最大の防御》なんてどうかな?」
彼らの師匠世代の頃とは違い、町ひとつをゆうゆうと囲ってしまうその結界に外敵の目をごまかす効果はない。
ただし一歩その内側に足を踏み入れれば、悪しき大望を抱く者であればあるほど《それ》に気づかないことなどまずないだろう。
あちこちにえげつなく仕掛けられたトラップ。
その野望を途中で放棄してしまいたくなるほど膨大なフェイク。
場に満ちる剄のエネルギーは、彼女たちに一番近い場所に在り、また歴代最強の誉れも高い4人の案内屋たちの意志を十分に伝える気迫を以て侵入者に告げるのだ。
《無縁断世が欲しくば、まず俺たちを倒すことだ》と。
居並ぶ面々が一様に口をあんぐり開けたというその提案から一年と三ヶ月、今のところうたかた荘の平和が破られる様子はない。小競り合い程度のものは何度かあったそうだが、いずれにしても、
「まァ明神の敵じゃあなかったよな」
と、したり顔の野球少年が呟くような顛末だったらしい。
「……あれ、ねえ、ゆかりさん」
と、渦中の人たる愛らしい少女の一声でゆかりは回想を中断した。
「ここ、どこだろう」
目の前に広がっていたのはなじみのない一面のススキ野原だった。

「……ああ、さっき、曲がるところを間違えちゃったかな」
しかしまだ白くなっていない花穂の海に、ゆかりはかすかに見覚えがあった。
たしか町の一番北の端、結界の要の一つとなる道祖神がある場所だ。うたかた荘に越した翌日、《修行》の前に白金と澪に連れられて《ホームグラウンド》の概要を確認した、その時最後に訪れたと記憶している。
「姫乃ちゃんもたぶん一年前に来たところだと思うよ、ほら、その」
結界を張るには天然の地形を利用するのが良いのだと白金は言った。土地には大小の差はあれ元々呪力があるものだ、と、それに逆らわないのがプロのやり方なのだ、と。
「道祖神がこのあたりのアレの中心になって」
さすがに指でさすのはどうかと思い、さながらバスガイドのように腕を伸ばしたゆかりの、それは中途半端な形で止まる。
声にならない悲鳴を上げたのはどちらだったか。

一組の男女が仲睦まじく寄り添う形を彫ったふるい石像は、無残にも打ち砕かれてその場にちいさな塚を作っていた。

咄嗟に握った小さな手は、瞬間びくりと竦んだが、すぐに力強くゆかりの掌を握り返した。
踵を返して元来た道をたどっていく。路地はすぐに終わり、車がやっとすれ違えるくらいの幅の道路に出た。首を上げる。二時の方向、はるか彼方にそびえる山々。
右だ。
少女にも異論はないらしい。寄り添うように、けれど早足でうたかた荘の貴重な生ける店子たちは脇目もふらずに家(ホーム)を目指す。
だんだんと近づいてくる十字路をどちらに曲がるべきかゆかりが思案しだしたとき、視界の端に黒い陰が差した。
「あの、スミマセン、」
放っておくにはあまりに弱々しい声にゆかりはつい振り向いてしまう。
「道に迷っちゃったみたいで……」
前髪がやたらと長い男性が、運転席からやや身を乗り出すようにして伺うようにこちらを見上げていた。闇夜のカラス色をしたバンの後部座席は、窓ガラスに貼られたスモークフィルムのせいで中の様子がわからない。
「どこに行きたいんですか?」
行きがかり上、ため息を飲みこんで尋ね返したゆかりに、男性はいかにも申し訳なさそうに一度目を伏せ、思い切ったように顔を上げた。
蛇のように鋭い瞳孔は、黒。
虹彩は、赤。
「うたかた荘に」
景色が反転した。
ゆかりの爪先は地面を離れ、上半身が大きく傾いでバンに突っ込む。
蛇の目男はその細い体躯のどこにそんな力がと思うような凄まじさでゆかりの腕を引き、
「ゆかりさん伏せて!!」
反射的に頭を下げたゆかりの瞼の上が白く染まった。同時に左腕にかかる圧力が消え、車外に放り出された彼女の右手がぐん、と引かれる。見れば唇を固く引き結んだ姫乃のもう片方の手はカラで、非常時にふさわしい回転の速さでゆかりは事の次第を理解した。
漆黒のバンは今や雪化粧をほどこされた山々のよう。
運転席、さらに後部座席から激しい咳き込みが聞こえてくる。
「逃げるよ!!」
先ほど言いそびれた言葉をあえて口に出せば、自らピンチを切り抜けた姫君は望むところだとばかりに、あらためて繋いだ手に力を込めた。

(2012.09.10)

モドル