大学入学と同時にこの町に越してきて6年になる。とは言え、以前のアパートは駅を挟んでうたかた荘とは反対側にあり、だからゆかりが《こちら側》に足を伸ばすことはほとんどなかった。 すこしだけその状況が変わったのは1年前のこと。西咲良山駅から隣の咲良山駅までのごく狭い範囲で配布されるフリーペーパー「にしさくらいふ」に、コラムの連載をすることになったのだ。 タイトルは「西咲良山百景」。神さびた神社や創立百周年を迎える小学校など、地元の人間がなにげなく見過ごしてしまう風景にあらためて光を当て、紹介していこうというコンセプトだった。 ゆかりの文章に担当編集者がモノクロ写真を添えるその記事は、特に強い支持を得るということもなかったが、今のところ打ち切りの宣告を受けることもなくのんびりと続いている。 その取材のためにあちらこちらと歩き回るようになってはじめて、ゆかりはこの町の面白さを知った。 とにかく路地が多い。坂も多い。また、行き止まりや目を凝らさなければわからないような抜け道も無数にあり、まるで天然の迷路のようだった。聞けば、かつてこの地を治めた城主が領地を護るために街全体を要塞化したなごりだとかなんとか。眉唾だけどな、と紫煙をくゆらせながら素っ気なく言った担当編集者の横顔の向こうに見えていたのは、そういえば今日のような曇天だった。 しかし、そのような土地であると知っていることと構造を把握していることとは別問題だ。 漆黒のバンに乗った二人組を振り切るため、一番近い小道に飛び込んだゆかりは早くもその判断を後悔しつつあった。 うたかた荘の近くに目立って大きな建物はない。方角を決めるかすかな頼りは、遥か彼方にそびえる山々。それらが己の進行方向右手側にあるように、とそれだけを頭に置いてとにかく走る。 一度だけ姫乃を振り返ったが、少女は若干青ざめた顔で素早く首を横に振った。頷いて、また走る。彼女がかなりの方向音痴だということは本人からも周りからも聞いていた。冷や汗が背を伝う。けれど怯えている暇はないのだ。 奴らは車を捨てたらしい。不揃いな足音はときどき遠くなるものの執拗に追いすがってくる。 馬鹿め。仮に首尾よく自分たちを捕まえられたとして、道中はどう言い訳するのだ。心の内で毒づきながら、いくつの角を曲がったか。 不意に目の前が開けた。 年季の入った木造建築に鬱蒼と茂る雑木林。既に日も傾きかけている今、木漏れ日を見ることは叶わない。 ――拝殿。 正確にはその裏手。 そこはかつてゆかりがコラムに取り上げた場所で、また、うたかた荘に割合近いことから姫乃にも覚えがあるはずだった。 「ゆか、りさ、ここ、」 忙しなく息をはずませながらも、姫乃の瞳に光が差す。 大きく一つ、頷いた。 ここを抜ければもう目と鼻の先に―― 「痛っ」 繋いだ右手がピンと張った。勢いよく地を蹴ったゆかりのつま先は着地点を失って宙を掻く。 ようよう体勢を戻して振り向けば、連れの長く美しい黒髪が名も知らぬ古木の細い枝に絡まっていた。 「や、これ、嫌、」 必死にほどこうとする姫乃の努力をあざ笑うかのように、節くれだった指のような形のそれはますます強固に彼女の髪にまとわりつき、 そして背後には不穏な気配が急速に近づきつつある。 ここに至ってゆかりは覚悟を決めた。 「姫乃ちゃん、ちょっと我慢して」 ギュッと目を瞑った少女の髪に手を伸ばし、 「南無三!」 バキリ、と邪魔な枝を折取った次の瞬間、渾身の力を込めてその小さな体躯を横抱きにかかえ、柵のないのを幸い拝殿の廊下に飛び乗ると、目にもとまらぬ速さで表側へと駆け、転がるように内部へ。 パタン、と扉を閉めてへなへなと腰から崩折れたゆかりを、姫乃が慌てて下から支えるようにした。直後、バタバタと乱暴な足音が社の周りを右往左往し、二人は束の間息すら止める。 やがて聞き取れない怒号と共に足音は彼方へ去り、ゆかりは今度こそ湿った床にうつ伏せに倒れた。ただしもちろん音は立てないようにゆっくりと。 「だ、大丈夫ですか?」 「はは……火事場の馬鹿力とはよく言ったもんだ……」 興奮のためかまだ実感はないけれども明日になれば相応の筋肉痛が待っていることだろう。せめて腰を痛めていませんように、と祈った。匿ってくださってありがとうございます、という礼と一緒に。 「ここ、開くんですね……」 「普通はどうか知らないけど。神主さん、けっこうアバウトな人みたいでね」 顔を上げ、うす暗い室内を見回す。奥にある黒っぽい塊は祭壇だろう、まるく平べったい何かが中央に鎮座している。ほのかなカビ臭さが鼻腔を刺激した。一度仰向けになり、倒れ込んだ時と同様に少しずつ上半身を起こす。心の中で不敬を詫びながら祭壇(おそらく)に背を向ければ、ぼんやりとした輪郭で浮かびあがるのは不格好な髪飾りをつけたままの少女。 「あー……取ってあげたいけどごめん、こう暗くちゃ無理だわ」 「そんなのはいいんです……でもどうして、」 困惑顔の姫乃に、 「何言ってんの、髪は女の命でしょう」 ゆかりはニッと笑ってみせ、さて、と腕を組んだ。 「もうちょっと休みたいところだけど。行ける?」 覗きこむように見れば、ぽかんと口を開けていた姫乃は慌てたようにこくこくと頷いた。 「髪、結ぶ?」 「ええと、あ、ごめんなさい、今、ゴム持ってないです」 「あ、いいのいいの。そっかごめんね、私はもともと持ってないし」 まあこの先は木々の生い茂る細道を駆け抜けることもないわけだから問題ないだろう。目と目で思惑を示し合わせ、ゆかりは静かに立ち上がった。慎重な手つきで扉に触れ、ちょうど目の玉ひとつ分。細いほそい隙間を覗く。 太陽は厚い雲に覆われているはずなのに、一瞬、その明るさに目が眩んだ。息を殺す。 静寂。 黄昏に近い時刻、参道には人っ子一人見当たらない。 耳を澄ませたが、鳥のさえずりはおろか葉ずれの音すら聞こえない。 そういえば今日は風がなかった。 なぜかとても嫌な気分になった。 が、そんなことに頓着している場合でもない。振り払うように大きく扉を開け放った瞬間、 意外なほど近いところから、サイレン。 踏切が閉まる時の音に似たそれは、 ――消防車? 刹那、気を取られたゆかりと姫乃が、警笛の後を追うように大きくなる足音に気づいた時には遅かった。 拝殿から十メートルほど先に立つ色褪せた鳥居、その下に滑り込んだのはふたつのシルエット。 四角く切り取られた額縁の中、《彼ら》は息をきらせながらも抑えきれないよろこびを口元に浮かべ、 逆光でもないのにその姿は真っ黒に見えた。 目の位置に開いたふたつの穴と、その下、逆さに置いた三日月のような裂け目だけが赤い。 「……ちくしょう」 最悪のタイミングだった。 耳の内側、唾を飲み込む音がやけに響く。 極限まで張りつめた二人をよそに、襲撃者たちは表情を変えぬまま、さながら獲物を追いつめた蛇のように一歩、こちら側へと踏み出した。そしてまた一歩。 意思と無関係にカタカタと足が震えだすのをゆかりは知る。 どうする。どうする。どうする。どうする―― と、喘ぐように伸ばした右手があたたかな体温に触れた。 姫乃。 白く霧散しかけていた意識が戻る。 無縁断世。うたかた荘の大事な姫君。明神の、ガクの大切な女性(ひと)。 深呼吸を一つ。 今度は意識的に右腕を伸ばし、手の甲を敵に向けた。 腕一本で襲撃者と標的(ターゲット)は分断される。 無駄なあがきをせせら笑うように一層目尻を下げた彼らから視線をそらすことなく、 ことさら大きな動きで左手をズボンのポケットに深く突っ込み、 ゆかりはわらった。 敵の足が止まった。 「姫乃ちゃん」 もちろんハッタリだ。いくらあの澪が師匠とは言え、一般人の自分が得物など持ち歩くはずもない。 こんな子供だましで稼げる時間などほんのわずか。 「ここからの道はわかるね」 「え、」 「合図したらなるべく下を向いてまっすぐ走り抜けて」 「そん……ダメ、」 「大丈夫、さっきの小麦粉爆弾でちょっと思いついたことがあるの」 「でも、」 なおも言い募る優しい少女を説得する理屈を、フル回転で考える。 「大丈夫」 一語一語区切るように、できるかぎり優しい声で語りかけた。 「これでも助けを呼んでもらえるくらいの時間は稼げるつもりよ」 たとえばあの外道ヒーローだったらこんなふうに言うのではないだろうか。 「お願い。私を助けて」 背後の空気の揺れが止まった。 「……っ、はい」 ほんの一瞬、信頼の笑みを口元に浮かべ、 ゆかりはもはや尽きかけた全身の力を振り絞って敵陣に突っ込んだ。 足は速いほうではない。しかし意図が全く読めないためか、赤い瞳の二人組はやや上半身を仰け反らせるようにするだけで動こうとしなかった。あるいは飛び込んだところで逆に押さえ込もうという腹なのかもしれない。何しろ二対一、おまけにこちらは性別のハンデもあった。そもそも無縁断世が狙いならば、案内屋について周到に調べることはしてもただの生者たる店子のことなど眼中にないだろう。 好都合だ。 鳥居のほぼ真下、彼らの眼前ほんの数十センチのところで急ブレーキ。 慣性の法則で投げ出される上半身を両腕で止める。 掌に広がる慣れない感触に背筋がぞわりと粟立つのを懸命に抑えた。 今や完全に面食らった敵の顔面はゆかりの手の中。忙しなく繰り返す睫毛の上下運動がその動揺を直接に伝える。不快さに耐え、頭の中でイメージを整える。 ゼロ距離での閃光弾。 数分前の姫乃のように目を固く瞑った。 「走れーっ!!!」 身体の脇を一陣の風がすり抜けるのを、ゆかりは意識の片隅でたしかに感じていた。 (2012.09.15) モドル |