これが最後のひと雫。 頭のてっぺんから足の先までありったけの剄を振り絞った3秒後、ゆかりは慎重に目を開けた。 張りつめた指の力を抜き、ふたつの顔面を軽く押す。それだけで男たちはドミノが倒れるように尻餅をついた。もはや意味もないだろうに目のあたりを覆うようにしたのは本能か。うめく彼らを見下ろし、この体勢では急所を蹴り上げるのは無理だな、と思う。ちいさく舌打ちし、運転席に座っていたほう(男性にしては髪が長い。色は金だ)をもう一人のほう(おそらくは地毛の黒髪だが頭頂部付近の一房だけが白い。そして眼鏡をかけている)に向けて蹴り転がした。眼鏡に重なるように倒れた金髪の後ろに跪き、背骨より拳ひとつ分だけ左側にピタリと掌を当てる。 それだけで意図は十分に伝わったらしい。金髪はもがくのをやめた。 「私、まだ修業中で発剄(はっけい)しかできないのよねえ」 できるだけ声を低めて語りかける。 「大きいのはさっきみたいに目くらましくらいにしかならないけど」 そこで言葉を切った。 沈黙。 無言の圧力に耐え切れなくなったか、金髪の背がひくりと痙攣する。 間髪入れず、触れる手にぐっと力を込めた。 「小さいのは結構飛ぶのよ。人の体みたいな柔らかいものなら、まあ穴くらい開けられるんじゃないかな」 大嘘だ。 しかし金髪が、そしてその下の眼鏡までもがはっきりと体をこわばらせたのを感じ、ゆかりは内心冷や汗をぬぐった。 ここまでだ。今の自分にできることは。 実際、穴云々どころか一発だって余分に撃つ気力も体力もなかった。 許されるものなら今すぐにでもこの汚れた石畳に倒れ込みたいが、そうもいかない。 ともすれば飛びそうになる意識を繋ぎとめるため、そして男たちに不審がられないためにとにかく何か喋らねば、と思考を巡らせる。が、何しろ限界が近かった。 焦れば焦るほど考えはまとまらず、気づけば明らかに先ほどとは種類の違う沈黙がひたひたと場を侵食しはじめているのにゆかりは気づく。 まずい。 とにもかくにも一旦深呼吸、そう心に決めたまさにその時、 ブゥン、と、 思いのほか耳の近くで空気が震えた。 きっとそれは全くの偶然で、おそらく害意を持たないアブか何かが通りすがっただけだったのだろう。 竦んだのはほんの一瞬。 しかし、その隙を見逃す彼らではなかった。 自分たちを捕らえた女の様子がおかしいことにうすうす気づいていたのだろう。突きつけられた手が緩んだと見るやいなや、一切の躊躇なく金髪はグワリと体を起こし、素早く半身を回転させるとその勢いのままゆかりに当て身を食らわせた。 背に激しい摩擦感、次いで後頭部に鈍い衝撃。 舌を噛むことこそまぬがれたものの、はずみでどこかを切ったのだろう、じわじわと口中に血の味が広がる。その気持ちの悪い感覚だけを頼りにゆかりは必死で起き上がろうとしたが、もがく両手が掴まる場所を見つける前に、冷たい重みがのしかかった。 赤い瞳は怒りに燃えて、ギリギリと獲物の手首を締め上げる。 痛みに思わず声が漏れた。 それですこしは腹がおさまったらしい。男の口元がわずかに緩む。 いやなにおい。 顔を背けるゆかりの頬に、艶のない金髪が触れた。 「ずいぶんフザけた真似してくれたじゃねえか」 息のかかる距離で襲撃者はニンマリと笑う。 「殺さずに連れてこいとのご命令だ。つまり、命さえありゃあいいってことだ」 おい。振り向かずに相棒を呼ぶ男の顔から甚振るような笑みが消えることはなく、ゆかりは剥がれ落ちる虚勢を必死にかき集めようとしたが、 もう一対の手が彼女の脚を地に縫い止め、ここに至って一切の戦意はうばわれる。 七分丈のズボンの裾からわずかに覗く素肌に触れたのは、汗で湿ったおとこの掌。 ぞわり、と総毛立つ感覚。 本当に恐ろしい思いをした時は声が出ない、ということをゆかりは初めて体で知った。 意味をなさない文字の羅列がめまぐるしく脳裏を舞う。 誰か、だれか、 ――――、 無理やり文字にするならガゴォォン、だろうか。 高層マンションの解体現場でクレーン車が誤って鉄骨を落としてしまったような音が響いた。同時に手首への重力はゼロになる。 突然開けた視界を埋め尽くすのは、相変わらず時が止まったかのような曇り空。 それを確認したかしないかのところで、脚への重みも横殴りの風と共に消えた。 悲鳴。破壊音。バタバタと逃げ惑う足音。また破壊音。 痛む頭を支えながらゆかりが体を起こしきったとき、無彩色の世界に新たな色が加わった。 あざやかな赤の出どころは、先ほどまでゆかりの上にいた二人の男たち。 バトル漫画に出てきそうな巨大な木槌が宙を舞う。風が鳴る。 地に伏し、胎児のように体を丸めた金髪の首のあたりをその先端が正確に捉えた。 突如現れた狼藉者の背後では、額からだらだらと血を流した眼鏡が必死に反撃を試みているが、かの人には触れることすらかなわない。 当たり前だ。彼は霊だ。 待ち焦がれた援軍をみとめたゆかりの胸に湧き上がったのは、 安堵ではなく、 恐怖。 「……や、」 金髪の、固く抱え込んでいた手足がだらりと広がった。どうやら気絶したらしい。気絶? 対象が無抵抗になったのを確認し、ガクはゆらりと後ろを向いた。眼鏡がへなへなと腰から崩れる。 季節外れの分厚いコートを纏った青年は一片の躊躇いもなく得物を振りかぶり、 「や、め」 感情のない瞳で振り下ろした。 ゆかりの喉からヒューヒューと息が漏れる。 かろうじて音を獲得した分は文字通り蚊の泣くようなものでしかなく、自分の耳にすら届かない。 何かが折れるくぐもった音。 耳を塞ぎたくなるようなそれに頓着する様子もなく、青年はふたたび木槌を高く掲げ―― 「っ、オイ」 魔法かと思った。 一瞬前まで何もなかったはずの彼の背後に、輝くような白。 「やりすぎだ」 巨大な木槌を片手でやすやすと止める彼は、うたかた荘管理人にして歴代最強の誉れも高い空の案内屋、明神。 「……なんだ?テメー邪魔すんのか」 「目の穴かっぽっじってよーく見ろ、生者だろ。死んじまう」 「ならテメーも敵だ」 「人の話は聞け」 「死ね」 虫でも払うように、ガクは手にした得物を振った。 対する明神はわずかによろけ、しかし転ぶことなくそのまま間合いを取ってニヤリと笑う。 「聞けねーんならいいや、かかってこいよ」 男性にしては細めの指をちょいちょい、と曲げた。 相変わらずどこを見ているのかわからない目をしたまま、黒髪の青年は木槌を振り上げる。 「……ガ……ン、」 やや背中を反らすような姿勢。そのまま力を溜めるようにぐっと肘を曲げ、 「ガクリンッ!!!」 ようやく声が出た。 何よりもまずその音量に驚いた。 思わず手で口を覆って目をやれば、呼ばれたほうは呼んだほうよりもはるかに衝撃を受けた顔でこちらを向いていた。 目が合う。 狼狽の色をあらわにしたその瞳は、しかし先ほどまでと違って普段通りしっかりと焦点の合ったもの。ゆかりがほっとする間もなく、 「隙ありィ!!!」 土気色の頬に明神の右ストレートが決まった。 折れそうな体躯は思い切り吹っ飛び、あたりにもうもうと土煙が立つ。 「俺は俺のアパートから犯罪者なんて出したくないっつの」 霊を殴った拳を軽く振りながら、案内屋はひょうひょうと呟く。 「俺は死んでるから刑法の適用外だ」 仰向けに倒れたガクがぽつりと応えた。 「そういうのホントやめて。おまえが言うと洒落にならない」 ゆっくりと体を起こすガクに、もう戦意は感じられない。ゆかりは詰めていた息を吐く。 と、肩にあたたかな温度が触れた。見上げれば心配そうな顔の管理人。 「立てる?」 伸べられた手を掴む前に、その姿はぐにゃりと歪む。 「うん、うん、怖かったよな」 あやすように優しく背を撫でられながら、ゆかりは心の隅で姫乃に詫びた。 ごめんね、今だけ。ちょっとだけ。 後で明神にも口止めしなければ、と固く決意しながらも、しばらくはこの心地よさに浸っていたいゆかりだった。 痛いくらいの視線に、たぶんこの鈍感な案内屋は気づいていない。 *** 「一橋会って知ってるか」 ちょっと考えて首を横に振った。澪は表情を変えないまま頷く。 「この辺一帯を仕切るヤクザだ」 大学のOB会、もしくは政党関係の何かかと想像していたゆかりは目を見張った。つい身じろぎしてしまい、腹部に激痛がはしる。 「その若頭――雨生ってんだが、そいつが《見える》奴でな」 悶絶するゆかりのことは一向に気にせず、澪は平坦な調子で言葉を紡ぐ。 「土地柄、このあたりは《そういう》トラブルが多くてね。本来ならアイツが出向くべきでもない小さな揉め事にも駆り出される。ま、喜んで飛んでいくアイツもアイツだが」 眠たげな扇風機の風に、白と黒の混じった髪がそよいだ。 「組に《そういう》奴が入ってきた時も、アイツの下に付けられる。お前たちを襲った男どももそんな奴らの一人だったそうだ」 「……《見える》」 「ああ。そして《憑かれる》……いや、《憑かれやすい》」 「なるほど」 なんとなく事の次第が飲み込めた。 「雨生の奴、明神に会うなり腹切ろうとしたってさ」 「え!!?指じゃなくて!?」 「『よもやうたかた荘のお嬢に手を出そうとするなんざ、詰め腹切ってお詫びするしかない』……だったか」 「ええええええ」 「もちろん止めたそうだが」 澪はどこか楽しそうに笑い、けれどすぐにそれを引っ込めてゆかりを見た。 「あいつら――眼鏡と金髪な、ちょうどあのススキ野原の近くで《女》に呼び止められたそうだ。詳しいことは何も覚えていないけれど、――どこか芝居がかった口調だったと」 「その後の記憶はない」 「目が覚めたら複雑骨折」 「……命に別状はないんですよね?」 「ああ」 頷き、澪は窓の外を見た。 「あの道祖神、《内から外へ》壊されてた」 「……えっと」 「侵入経路はあそこじゃない。今、白金たちが探しに行ってる」 澪の眼差しが険しくなる。 「あれはただの《宣戦布告》だ」 ごくり、と唾を飲み込む音が耳の内側に響いた。 「上等だ。叩き潰す」 目を細めたその横顔を、うつくしいと思った。 「ところで」 麗しの案内屋はグルリと首を回してゆかりを見る。 「あの陰気野郎、姫乃の部屋に入り浸りで全然こっちに来ないって?」 「いえいえいえ、あのですね」 澪は地声が大きい。ゆかりは慌てて手を振り、 「いった……」 「動くなって言ったろ馬鹿」 ふたたび体を縮めて悶えることになった。 愛用のせんべい布団に横たわる彼女の腹部には、現在ひと振りの日本刀が突き刺さっている。治癒を得意とする水の案内屋たる澪の技、《活剄 血刃鬼百合》(カッケイ・ケツジンオニユリ)。剄伝導を施された彼女の得物から、傷を癒すための剄が体内に流れ込むという仕組みだそうだが、 「何度見返してもグロい光景ですよね……」 「これが一番早いんだ」 平然とする師匠の横顔を眺めながら、ゆかりは言い訳をひねり出す。 「ほら、今、姫乃ちゃんを一人にするわけにはいかないし」 「パラノイドサーカスがついてる」 「うあ、えっと……」 窮してにこりと笑ってみたが、そんなことでごまかされる澪ではない。ゆかりは渋々言葉を繋ぐ。 「私も、その、ちょっと時間が欲しいところですし」 「何の」 「ええと、……心の準備の」 澪の眉間に皺が寄る。 「何かあったのか」 「いえ、あの」 曖昧に濁して目をそらした。 それでも突き刺さる視線がそれることはなく、ゆかりは仕方なしに本音の片鱗を吐露する。 「怖かったんです、ちょっとだけ」 ぬるい風が頬をかすめた。 「助けてくれたのは、ガクさんなのに」 その日、夜更け過ぎに帰宅した明神と入れ替わりに澪が辞するまで、とうとうガクがゆかりの前に姿を現すことはなかった(「こっちのほうが重傷なんだぞ!」と憤る澪を止めるのにゆかりは大層苦労した)。 明神は若干疲れた顔で、件の石像からわずかに東に離れた場所に小さな穴が開いていたと告げた。 それは爪の先ほどの本当にちいさなもので、いつ開けられたかまでは特定できなかったそうだ。 澪を送ってふたたび布団に潜り込んだとき、体が熱いような気はしていた。 が、術のおかげで傷は完全に癒えている。おそらく精神的なものからの発熱であろうとアタリをつけ、元来モノグサな作家はそのまま無理やり目を閉じた。 ああ、これは夢だ。 24歳になる自分よりも、よほど幼い母の顔を見上げながらゆかりは思う。 すこし視線を下げれば紅葉のような掌。懐かしいその光景。 全てが腑に落ち、夢の中の小さなゆかりは目を閉じる。 回数こそ多くはなかったが、かつて年に一度もしくは二度、儀式のようにゆかりは熱を出していた。 そのたび父は慌てふためき、大騒ぎしながら氷枕の準備をし、林檎や梨をすりおろしてはおろおろと自分の口元に運んでくれた。 とろとろと甘いそれらを飲み下し、眠りにつくたびに少女は同じ夢を見た。 枕元に跪くのは父ではなく母。写真でしか知らないその人。 白く優しい手がそっと額に触れる。 ……あれ? 常ならぬその感触にゆかりは違和感を覚えた。 女性らしからぬ骨ばった手。指は長く、ゆかりの瞼を覆うほど。 ……ああ、父か。 混濁した意識の中で静かに納得する。 自分は母を知らないから。いつも看病してくれたのは父だから。 だから、触れる手があるならばそれは父のもののはずだ。 目を瞑ったまま微笑んだ。 一瞬止まった手は、けれどふたたび肌を滑る。あくまで優しく、慈しむように。 人らしからぬ冷たさを持つその指に、 触れたい、と強く思った。 しかし夢の中の己の体はどういうわけか言うことを聞かず、 焦がれるような思いを抱きながらゆかりの意識は沈んでいく。 その冷たい感触はいつまでもいつまでも残るようだった。 (2012.09.24) モドル |