<小火(ボヤ)に注意! 7月15日(土)午後3時半頃、△△スーパーの近くで放火事件が発生しました。 犯人はまだつかまっていません。 町内会ではパトロールを強化しています。 燃えやすいものは外に置きっぱなしにしないようにしましょう!! また、事件に関する情報提供はこちらまで→ 03-42××-9×××(神田通り交番)> 回覧板を隣家のポストに押し込みながら、ゆかりは数日前の記憶をたぐる。 姫乃と二人、必死に駆け抜けたのは元来人通りのすくない小道であったことには違いないが、それにしても人っ子一人出くわさなかったことに、もっと疑問を持つべきだったのかもしれない。 その理由が《これ》らしい。 あの日。ちょうど自分たちがススキ野原に着いた頃、例のスーパーにほど近い木造アパートで小火騒ぎがあったそうだ。幸い死傷者はなかったが、もともと買い物帰りの主婦でごった返していたところに野次馬が加わり、一時、現場はちょっとしたパニック状態だったという。 火元は玄関。最初に燃えたのは古紙回収に出すところだった新聞の束。ただしガソリンの類は一切発見されず、何を以てしてあれほど早く火が回ったのかは現在も調査中。 以上は自称《オカルト事件専門のトラブルバスター》・雨生虎次郎が明神に知らせてくれたことだった。それは近隣住民に不安を与えるということで、一般には公開されていない情報だそうだ(ちなみに雨生の正式な役職は《一橋会の若頭》であり、組の運営に関する諸々から巧みに逃げる彼に幹部連中は手を焼いているらしい、とは明神の弁)。 偶然か。必然か。 前者にしてはタイミングがよすぎた。が、とにかく、 「死者が出なくてよかった」 ゆかりの呟きは風にさらわれて消える。 「ありがとうね、ゆかりちゃん」 「いーえ、なんのこれしき」 物思いに耽りながらうたかた荘に帰ったゆかりを迎えたのは、《周囲と縁を絶たれる》運命にありながら子を生み、その後実に10年もの歳月を囚われの身で過ごすことになった女性――桶川雪乃。 壮絶な過去を微塵も感じさせない穏やかな笑顔はいつの日も変わらない。 濡れた手をエプロンで拭うその仕草は、亡くなった祖母によく似ていた。 「まあ麦茶でも飲みなさいな」 「わあ、ありがとうございます」 「ごめんね、病み上がりの人にお使いなんかさせちゃって」 「そんな、すぐそこですから」 年季の入ったダイニングテーブルにコトンと小さなグラスが置かれる。 よく冷えたそれを手に取ったとき、 「Wow,ユカリじゃないか。もう起きて平気なのかい?」 涼やかな声が頭上から降ってきた。 「あー、ご心配おかけしまして。もうすっかり」 この通り、と右袖をまくりあげて力こぶを作ってみせると、両側頭部からヤギの角を生やした美青年――パラノイドサーカスの長たる《悪魔の山羊(バフォメット)》・キヨイはおかしそうに笑った。 華やかなその微笑にしばしみとれる。 「おい」 「……」 「人間」 「あ、グレイさん。いたんですか」 「この、」 「やだなあ冗談ですって」 キヨイの後ろで額に青筋を浮かせながらフルフルと長い耳を震わせているのは、これまたパラノイドサーカスが一員、時を操る能力を持つ《クロックラビット》ことグレイ。キヨイと同じくほとんど人と変わらぬ姿の彼だが、死して陰魄となる前はウサギとして生を謳歌していたというその特徴は、もちろんちゃんと残っている。具体的に言うと頭のてっぺんよりちょっと後ろ側に。 満面の笑みを浮かべながら、ゆかりは素早く手を伸ばした。 「!」 「今日もいいお耳ですねえ」 「っ、気安く触るなと何度言ったらわかる!!!」 「こんなフカフカ、触るなってほうが無理ですよう」 上等のビロードのような手ざわりのそれは大きく長く、そしてペッタリと垂れている。こういう種類のウサギはペットショップで見たことがあった。たしか、なんとかイヤーという品種なのだ。 思い出に浸りながらも一向に手を離そうとしないゆかりに業を煮やしたか、グレイは器用にかつ容赦なく、バサリバサリと両耳を振った。 「ああ、ご無体な」 「What?ゴムタイって何だい?」 キヨイは好奇心が旺盛な陰魄である。 「ええと……無理とか無法とかいうのが本来の意味で、『ひどい!』とか、相手を非難したいときに使う言葉ですかね。でももう時代劇くらいでしか見ないかも」 「ジダイゲキ……ああ、ミトコウモンのことだね」 「そうそう、よく知ってますねキヨイさん」 ゆかりの言葉に、異形の美青年は誇らしげにツンと顎を上げた。年齢を感じさせない外見の彼には子供のようなところがある。 「ところで」 ゆかりはあらためて辺りを見回した。いつもならば自分とキヨイが話すのを、グレイ以上の激しさで嫌がるコウモリの少女がいない。それに「ケンカしようぜ!」が口癖の、腹筋が六つに割れている大男も。 「コクテンちゃんとゴウメイさんは?」 「姫乃の護衛当番だよ」 キヨイは事もなげに答えたが、 「当番ですか……」 この家はどこまでものどかであるなあ、とゆかりは思った。 「言いたいことがあるなら遠慮なく言ったらどうだ、人間」 「いえいえ、よくコクテンちゃんがキヨイさんと離れることを承知したなって」 「フン」 「やっぱりあれですか、肉弾戦系と空間支配系が組むのがいいっていう」 「いやジャンケンだ」 「……そりゃ公平ですな」 かくのごとくパラノイドサーカスの面々はいつでもどこかとぼけていて、一時は彼らが敵であり、かつて(特に一世代前の)案内屋たちに甚大な被害をもたらしたこともあるのだと聞いたところでゆかりには到底信じられないのだった。 ああ、でも、そうか。 唐突にポンと手を叩いた病み上がりの作家を、クロックラビットが銀縁眼鏡の奥から不審そうに見やる。 黒幕がいたのだ。 群れることを知らない彼らに集団での戦い方を教え、十一年前、とうとう雪乃を強奪するところまで事態を動かした影の立役者――壊神幽響(エガミ・ゆうこう)という名の《元》案内屋。 もうこの世の人ではない彼について、ゆかりはあまり情報を持たない。必要がないし、何よりアパートの面々が話したがらないからだ。 印象に残っているのは澪の横顔。 吐き捨てるような口調で彼女はただ一言、《最悪の裏切り者》だ――と言った。 そんな男の衣鉢を嗣ぐ人間はいなかったそうだ。そもそも十年以上前に人であることをやめていた彼にとって壊神の名を残す意味など存在しなかったのだろう。 結果として現在、五番目の案内屋のポジションは空白のままなのだという。 空(キャ)の明神、火(カ)の火神楽、風(ラ)の神吹、水(バ)の湟神、そして土(ア)の壊神。 完全無欠の五角形。その一角が崩れている現状について、 「ま、時代が変われば在り方が変わることもあるさ」 などと白金はうそぶいていたが、彼らが操る術の性質からしてこれはかなりゆゆしき問題なのではないかとゆかりはひそかに思っている。 もちろん自分は部外者なので余計な口出しをしたりしないけれども。 と、リビングに集う4人から少し離れたところで何かが軋む音がした。この方向は玄関だ。しかし今の季節、入口は常に開け放してある。ということは、 「何なに、朝から賑やかじゃん」 ふわあ、と盛大なあくびを漏らしながら姿を現したのはここのところ夜ふかしの多い管理人。 大切な店子のために東奔西走している彼をねぎらう気持ちこそあれ、虐めるつもりなどかけらもないけれども、 「明神さん」 「明神」 「案内屋」 続く言葉は綺麗に重なった。 「もう昼だ「ですよ」 相変わらずにこにこしながら、雪乃は食事の支度に立つ。 「しっかし、剄蘭を目潰しに使うとはねえ……今度俺もやってみよ」 「やめてくださいその言い方!何か悪意を感じます!」 二杯目の麦茶が注がれたグラスを片手に、ゆかりは厳重抗議する。 「え、だってそういう技でしょ?」 並べられた皿を勢いよく空にしながら、それでも明神は器用に喋る。 「潰すなんて怖いじゃないですか!目くらましとか言ってくださいよ!!」 「や、ホントよかったよねえ。マコト君もアカツキ君も失明しなくて」 「だからやめてくださいってば!!!」 自分で自分の肩を抱き、ゆかりはフルリと身を震わせた。危うく加害者になるところだったのだ。普段から《戦い慣れ》している明神にはけっしてわからない恐怖だろう。 ゆかりは裏の世界に身を置くと決めた者ではない。あくまでもどこまでも一般人だ。 それにしても、 「ケイランってなんですか?」 頭の上に疑問符を浮かべながら問いかければ、案内屋はぱちくりと目を瞬かせた。 「なに、湟神のヤツ教えてないの!?」 「ええと、発剄(はっけい)……ですよね?」 体内に張り巡らされた《剄絡(けいらく)》と、体の表面に存在する《剄穴(けいけつ)》。発剄とは、その2つの器官による体内の剄の循環・集中・放出のメカニズムで、専門とするのは《空》。 《水》の案内屋たる澪に教えを請うているゆかりは、だからいっとう最初に剄の把握を覚えた後は(思い出したくもないあの鬼ごっこ!)、主に結界の張り方や何かの方に《修行》の時間を割いていたのだ。 「えっとね、発剄にもいろいろ種類があって」 『専門家》であるところの明神は、古びたテーブルの上に指で三つの円を描いた。 「剄を直接霊体に注ぎ込む《剄櫻(ケイオウ)》、ゆかりんが目潰しに使ったみたく霊体に向けてただ放出する《剄蘭(ケイラン)》、剄を腕とかに纏わせてそれでもって霊体を切断する《剄楓(ケイフウ)》……俺がよく使うのはこのへんかな」 「目潰しじゃありません、目くらましです。で、じゃあケイランっていうのは発剄の初歩中の初歩みたいな感じですか」 「そうそう」 「ケイは、剄ですよね。ランは?」 「花の《蘭》。なんかみんな花の名前がついて……どした、ゆかりん」 明神の訝しげな視線を受け、 「あ、いえ、そっか、蘭」 ゆかりは小さく笑った。 「母の名前だったので、ちょっとびっくりしました」 「へえ、お母さんか!」 思わず、といったふうに明神は答え、それから思案げな表情になった。 だからゆかりは先回りして、なるべく軽く言葉をころがす。 「私を生んで亡くなったので、顔も覚えてないんですけどね」 何か言おうとした管理人を手で制し、 「それが、娘が言うのもナンですけど結構な美人でして。写真、見ます?」 店子はごそごそと胸元を探り、慣れた手つきで留め具を外す。 「数少ない形見の一つなもんで、何となく持ってるんですけど」 いつも首から下げている小さなロケットは錆びたような金色で、表面には筆記体のRが刻まれている。実家の押入れからそれを発見した当時、ゆかりはまだ小学生だったから、まさかそれが文字だとは思わず、ただの綺麗な装飾なのだと認識していた。 パチリ、と軽い音を立てて開いたそれを覗き込み、 「…………」 明神はさらに何とも言えない表情になった。 「ん?どうかしました?」 「……大丈夫!!俺、金八先生、最初から見てるから、そういうの偏見とかないから!あ、もちろん再放送だけどね!!」 「はい?」 「大変だったんだな、ゆかりんのご両親も!!」 「……いやいやいやいや、たしかにこの写真は明らかに中学生ですけど、大丈夫です!母が私を生んだのは25歳の冬です!!」 明神の勘違いに思い至り、ゆかりは慌てて手を振った。 小さなフレームの中、花の咲くような笑顔を見せているのはセピア色の少女。 その顔立ちにはなるほどゆかりの面影があったが、身につけている濃色のセーラー服といい幼さといい、おそらく中学卒業時の記念写真というところだろう。 「お母様、写真がお嫌いな方だったの?」 興味深げに輪に加わった雪乃がおっとりと口を挟む。 「いえ、アルバムにはそれなりに大人になってからの写真もあるんですが……少ないですけど」 どこから話そうか、とゆかりはちょっと首を傾げた。 その態勢のままちらりと見やれば8つの瞳は真っ直ぐ自分に向かっており、これなら多少長くなっても大丈夫そうだな、と年若い作家は判断する。 「母は、……わざわざ言うのは恥ずかしいですけどね、いわゆる地方の名家の出だそうです。でもそういう気風というか、いろんなことにどうしても馴染めないタチで、高校を卒業したその夜に出奔――家出をしたと」 「まあ、女の子一人で?」 「そうです。特にアテもないままに」 それはずいぶん勇気のいる行動だっただろう。向こう見ずと言ってもいい。 幼い母の心中にはよほど強い想いがあったのだろうか。 「流れ流れて結局東京の……どこだったかな?わりあい中心のほうの繁華街のとあるバーで働くことになって、父と出会うんですが」 ゆかりはくすりと笑みを漏らした。 「ガクさんほどじゃあなかったみたいですが、父はそれはそれは熱烈なアタックをかけたらしく」 「この子だもんなあ。美人さんになっただろうねえ」 「『僕は外見じゃない、中身に惹かれたんだ!』なんて言ってはいますがね。でも母は最初、かたくなに拒否したそうです」 「胡散臭いからだろう」 グレイがしれっと口を挟む。 「うーん、ま、それも大いにあるとは思いますけど。……『自分は家族という共同体に馴染めなかった出来損ないだ。あんなことを繰り返す気はない』というのが母の言い分だったそうです」 「ちょっと待った」 明神が左手を突き出した。 「アタックって『結婚してください』だったの?」 「そうみたいです」 「『付き合ってください』はどこ行っちゃったの?」 「すっとばしたらしいです」 「ふふふ」 雪乃が口元をほころばせた。 「それじゃあガク君と一緒じゃない」 明神がガリガリと頭を掻いた。 「ゆかりんがどうしてアイツにすんなり馴染めたのかわかった気がする」 「ひどいな、ウチの父はまだ普通なほうですよ」 「Wait,待って、ユカリ。結構ひどいこと言ってるよ」 どこか雪乃と似た笑みを浮かべたキヨイは、 「でも二人はGoal inしたんだね」 いつもの通り英語の部分だけやたら流暢な発音で言った。 「そう……押し切られたってだけかもしれないですけど」 ゆかりはあらためて手の中の写真をまじまじと見つめた。 「本当に可愛らしい人ね。でも」 雪乃がゆるやかに眉を寄せる。不快さの表現ではなく、ただの疑問として。 「どうしてご自分の写真を入れたのかしら」 「私もそれは不思議で……でも、ほら、笑ってるでしょう」 印画紙に焼きついている満開の笑顔に、ゆかりは知らず目を細めた。 少女の肩には大きな手がかけられている。そして、人物の周りにわずかに見える背景は人工的な濃淡のほかには何もない無機質なもの。 「たぶん、写真館かどこかで撮ったものなんだと思います」 一昔前の、ことに《裕福な》家庭においてはごく当たり前だったであろうその習慣。 何かの折に一家揃って記念写真を撮るということ。 それだけの愛情を注がれていたとうこと。 その中で自分はたしかに笑っていたということ。 「子供の頃の母に何があったのか私にはわかりませんが、悪いことばかりではなかったんでしょう。だからこそ、父と家庭を作ることができたんじゃないかと思うんです。そう、思いたいんです」 しんみりとした沈黙が落ちた。 と、 「ただいまー。あれ、何してるんすか集まって」 ひょっこりとリビングの壁から顔を出したのは、うたかた荘の住人たる赤いマフラーの少年――ツキタケ。 その後ろからうっそりと彼の《保護者》も姿を見せた。 「あ、おかえりなさーい」 ゆかりはことさらに明るい声を二人にかける。 ガクと顔を合わせるのはあの日以来だ。 「……ただいま」 ほんの少し目をそらしながらもコートの青年はぼそりと答えた。 「ただいまっす。え、なんすかなんすか」 「ゆかりちゃんのお母さんの写真、見てたのよ」 「へえ、ゆかり姉(ねえ)の!」 ぴょこぴょこと跳ねるように少年は近づき、 「うわ、若っ!!」 明神と同じ反応を見せるので、 「違うの、これは――」 同じ説明を繰り返そうとしたとき、ゆかりの右手がグイと引かれた。 「っ、ガクさん、何ですか」 青年の手はいつも氷のように冷たい。しかしその時、その温度がひときわ下がったように感じられた。もちろんそんなのは錯覚だろう。 けれど、元々大きな瞳をさらにこじ開けた彼の顔色は紙よりも白い。 「……?ねえ、ガクさ」 「なぜ、」 喉の奥から絞り出すようにして、青年はようやく言葉を発する。 「なぜ、俺の母の写真をおまえが持っている」 (2012.10.01) モドル |