「…………え、と、これが、何ですって?」 ずいぶんな空耳もあったものだと――ゆかりは咄嗟に笑いだしそうにさえなったのだ。 しかし、 「母の写真だ。俺の」 一語一語区切るようにガクは同じ言葉を繰り返し、 「子供の頃に見た。そう、なぜ」 いかにももどかしげに手を伸ばしたが、死者の指はあっけなく印画紙をすり抜ける。 温度を持たないそれは血が通う掌に触れて止まった。 「これを、おまえが」 「これって、この写真?」 「ペンダント。も、たぶん」 はからずもゆかりの右手を捧げ持つように包んだ顔面蒼白の青年は、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。 「表を……蓋を」 目的語しかない発言の意図はすぐに伝わった。 特徴的な飾り文字。ガクは大きく頷いた。 「そう……グニャグニャした変な模様だったから、ずっと印象に残ってた。色も、形も間違いない」 爛々と光る瞳は何か別のものが乗り移ったかのよう。 「あれは母が熱を出した次の日で、俺は幼稚園から帰ってまっすぐ寝室に向かって……そうしたら母はいなくて、でもいつも何も置いていなかった鏡台の上に、何かキラキラしたものがあって」 「ちょい待ち」 ずい、と身を乗り出したのは明神。 自身が熱に浮かされたようだった青年は不興げに顔をしかめた。 鋭い一瞥をてんで気にせず、白髪の管理人はゆかりを見る。 「ゆかりんのお母さんは亡くなったんだよな?」 「は、はい」 「馬鹿言うな!!!」 窓ガラスがビリビリと震えた、気がした。 あまりの激しさに何か言いかけた明神の口は「お」の形で止まる。 ワナワナと震えるコートの裾はツキタケがぎゅっと掴んでいる。 色が変わるほどきつく拳を握り締めたガクは、地を這う低音で呟いた。 「生きてる」 今度こそゆかりは絶句した。 奇妙に強い光を湛えた目で青年は未だ混乱の渦中にある作家を見つめた。 「母は、生きている」 コール2回で、数十キロに及ぶ隔たりはゼロになる。 「ゆかり!!!」 ちぎれんばかりに尾を振る犬のように興奮を隠そうともしないのは、 「どうしたんだい?そっちからかけてくるなんて珍しいじゃないか!!」 「……お父さん」 「はい!!お父さんです!!」 化野達彦、48歳(ペンネームは読みが同じで字だけを変えた《龍彦》)。 普段ならバッサリと斬って捨てるその返答に突っ込みを入れる余裕は、残念ながら今のゆかりにはなく、 「…………」 「…………」 「…………」 「…………ゆかり?」 長い沈黙にようやく父も落ち着いたものと見えた。 「……何かあった?」 「……お父さん、」 「はい」 何を聞くのかさんざんシミュレーションしたはずなのに、ゆかりの頭の中は真っ白になってしまう。 「落ち着いて。ゆっくりでいいから」 なだめるような声音に涙がひとすじ頬を伝った。けれどそれがきっかけになる。 「お母さんは、本当は生きてるの?」 カチャリとドアノブを捻れば、薄板一枚隔てた向こうで何かがぶつかる鈍い音。 そろそろと扉を開けてまず目に入ったのは磨きこまれた廊下の端で絵に描いたような尻餅をついているガクだった。肩をこわばらせていたゆかりは思わず微笑む。 「立ち聞きは女の子に嫌われますよ」 「聞いていない」 それでも憮然とした表情で言い訳を繰り出す姿は幼い子供のようだ。 「あまり遅いからちょっと様子を見に来ただけ」 だ。 最後の一文字ぶんだけがくぐもったのはゆかりがその頭を上から押さえたから。 サラサラとした感触はこんな時でも心地いいな、とまるで場違いなことを思う。 「何をする」 「さあ、私にもよくわからないです」 顔を上げようとするのを、阻止した。 「おまえな」 「父が来ます」 ガクはピタリと口をつぐんだ。 「詳しいことは会ってから、って、何も教えてもらえませんでした。ただ」 ひとつ屋根の下で暮らす青年の名を告げた時、父は電話ごしにもはっきりとわかるほど息を飲んだ。 「ガクさんのこと、知ってました」 ポン、と、 綺麗なつむじを軽く叩くようにして手を離した。けれどガクは動かない。 「みんなに知らせてきますね」 振り向かずに階段を下りた。だから彼がどんな表情をしていたのかはわからなかった。 今日は忙しくなりそうだから、先に晩御飯の準備をしておこうと思うの。よかったら手伝ってくれないかしら。 雪乃の申し出にゆかりは一も二もなく飛びついた。 父が駅に着いたら連絡をもらうことになっている。ただ、どんなに急いだとしてもあと1時間以上はかかるだろう。その間をただ待つだなんてとてもできそうになかった。 勢いよく蛇口をひねり、丁寧に、且つすばやく手を洗う。毎日替えられている清潔なタオルで水気を拭うと、少しだけ気分もさっぱりしたような気がした。 雪乃は品良く膝を揃え、床下の食料庫から野菜を出している。ジャガイモ、玉ネギ、それにニンニク。 「今晩はカレーにします」 にっこり微笑みながら宣言し、うたかた荘のベテラン主婦は冷凍庫を確認した。 「カレーとかシチューは便利よね、作っておくのに」 喋りながら大きな肉の塊を取り出す。 「え、いいんですか、それ」 「いいのいいの、きっとお父様も召し上がっていかれるでしょう」 「ああー……すみません、気を遣わないでください、あんなワーカホリックに」 常に多忙な父ではあったが、愛娘との食事の機会を見逃すこともないだろう。 苦笑しつつ材料を洗うゆかりをちらりと見て、雪乃は一言、 「シワ」 と言って己の眉間を指差した。 「……寄ってます?」 「寄ってるよ。何が不安?」 こんな砕けた話し方は、たぶんゆかりが越してきて以来初めてのことだ。 「……なんでしょう……母が」 戸惑いながらも、手は止めずにゆかりは首を傾げた。 「もしも本当に生きているなら……会うのがちょっと怖いかもしれない、です」 「こわい」 「母が父以外の人と家庭を持っているというのは……何というか、予想外で」 ちくり、と胸が痛んだ。 「それだけ?」 「……と言うと?」 「ガク君と兄妹かもしれないっていうのは?」 「ああ、それは」 手が滑った。シンクに落ちたじゃがいもをゆっくりと拾い上げ、 「全然、むしろ」 ふたたび付いた汚れを水で流しながらゆかりは微笑む。 「兄が欲しいと思ったことはなかったですけど、今なら嬉しいですし。それがガクさんなら――」 なぜだろう。手が止まった。 指の先からじわじわと全身に広がらんとするのは、どこか懐かしい倦怠感。 肌の表面をザアザアと流れていく冷たい水に、何かを思い出しそうになる。 「ゆかりちゃん?」 心配そうに覗きこまれて我に返った。 「……いや、弟の可能性の方が高いですね」 おどけてみせれば雪乃はいつも通り柔らかな笑みを浮かべたが、気遣わしげな瞳の色は変わらない。 それに気づいていないふりをして、ゆかりは流しっぱなしだった水を止めた。 けだるい感じは今や足の先にまで広がっていたが、それらを無理やり意識の外に追いやり、手の中の塊に包丁を当てた。力をこめる。さくり、と刃が沈む感覚。 「あら、ピーラーは使わなくていいの?」 「一人で暮らすようになってから、ずっと使ってなかったんです。あんまり持ち物増やしたくなくて」 *** 火を止めて顔を上げれば、いつの間にか窓の外は昼間とは思えないほど暗くなっていた。 「電気、付けましょうか」 壁の隅に取り付けられた黒いつまみを雪乃が倒す。リフォームする前のゆかりの実家に付いていたのと同じタイプのスイッチだ。一瞬の間ののち、人工的な白い光が銀色に輝く大鍋を照らす。シンクはとうに片付けられていて水滴ひとつ落ちていない。 「お父様が着くまで降らないといいわねえ」 と、表で大きなブレーキ音が響き、雪乃は小さく眉をひそめた。 「何かしら、危ない」 「本当、ここいらは子供もよく通るんだから気をつけてほしいですね」 バタン、バタンと派手なドアの開閉音。ここまで聞こえるくらいだから相当急ぎの用なのだろう。一体何があったのやら。しだいに遠ざかるエンジン音を聞くともなしに聞いていたゆかりの耳に、 「ごめんください!!」 聞き覚えのある声が届いた。 「……え?」 ふ、と風が通った。 「ユキノ、お客様だよ。《見えない》人間だ」 のれんからにゅっと首を突き出したキヨイは固まっているゆかりを眺め、 「……ああ。あんまり似てないね」 くすりと笑って身を翻した。 「あ、ゆかり!!」 若干よれた前開きのカットソーにダボっとしたパンツというごくごくラフな恰好の男性は、ゆかりの姿をみとめていかにもほっとしたように肩の力を抜いた。 「誰も出てこないから心配しちゃったよ」 バフォメットのキヨイ、クロックラビットのグレイ、赤いマフラーの少年に、いつ帰ってきたのかバットを担いだ野球少年とワンピースの少女。 狭い玄関にひしめく5人の視線を意に介さず、男性は相好をくずして一言、 「来ちゃった」 と言った。 「ああもう、どうぞおかまいなく」 肩を縮めて丁重にグラスを受け取るのは、ゆかりの父・達彦。伸び気味の黒髪はところどころはねていて、彼がどれほど急いでうたかた荘に向かったのかを無言のうちに物語る。 そもそも電話での会話の時点では電車を使うという話だったのだが、「切ってからタクシーでいいじゃんって思って」身支度3秒戸締り2分、移動時間1時間弱で到着したという父である。 「一度ご挨拶に伺わなければと思ってはいたんですが」 「そんな、よしてください堅苦しいのは。何しろこんなボロ家ですし」 恐縮したふうに明神は大きく手を振り、 「ゆかりんが入ってくれて、うたかた荘としては万々歳です!」 居並ぶ店子たちを盛大にずっこけさせた。 「明神、お父さん、お父さんだから」 「いきなりそのアダ名はないっす」 ひそひそと囁きかわす声は当然、達彦の耳には入らず、 「ああ、そんなアダ名が付いてるんですね!」 常日頃、管理人よりもよほど常識を持ち合わせていると自負する死者たちはふたたび頭を抱えることになった。 「天然の親は天然か……」 「……ま、気にしないんならいいんだけどな」 「なんですかグレイさん、今、けっこう聞き捨てならないことをおっしゃいましたね」 「ん?ゆかり、グレイさんっていうのは」 「こちらにおわすウサギさんです」 「!ああ、フカフカのお耳をお持ちだという!!」 「……」 「あ、行かないでグレイさん。せっかくだからここにいて」 「だから気安く触るなと言っておろう!!」 見えないドタバタが収まるまで、達彦はにこにこと微笑みながら明神と世間話を交わしていた。 「……落ち着いた、かな?」 「……うん」 「じゃあ」 静かにグラスを置き、父はぐるりとリビングを見回す。 ?「そろそろ本題に入りましょうか」 ピシリと場の空気が張りつめた。しかし達彦の佇まいは変わらない。 「ゆかり、ガク君は」 「ここ、に」 椅子に座るゆかりの隣。父からは何もない空間にしか見えないであろう場所にそっと手を当てた。 すべらかなコートの手ざわり。ガクは身じろぎもしない。 「……」 「うん、お父さん、それはちょっと上すぎるかな」 「ああ、ごめんごめん」 ガクよりもわずかに背の低い達彦は一度真正面に顔を戻し、そこからほんの少しだけ首を上に向けて一層笑みを深くした。 「お久しぶりです」 「!!?」 「こんなに大きくなったんだね」 「……っ」 「お、お父さ」 落ち着かせるため、温度のない掌に触れた。それで震源地かと思われるほどのふるえは止まったが、見上げれば顔色は未だ蒼白のまま。 「お父さん、ガクリンが」 「結論から言いますと」 瞬間、感覚がなくなるほどにその手を強く握ったのはどちらのほうだったろう。 「君のお母様とゆかりの母親は別人です」 きつい縛めは解けかけ、 「でも、その写真の女性は間違いなくガク君のお母様だ」 三度ふたつのいのちを繋いだ。 「さて、どこから話そうか」 どこか寂しげに見える笑い顔で、実年齢より大分若く見える作家は小さく息を吸い込んだ。 「妻の旧姓は川崎と言います」 それは西咲良町からそう遠くないある町で代々続いた、いわゆる地元の名士の家だったのだと言う。 「元々は水運業に従事していたようですが、明治の頃に貿易に手を出してそれが成功したらしく」 瞬く間に財を成したその家は永い時間をかけて地元の政財界にもパイプを持ち、 「その土地で《川崎》の名を出せば、結構な無理も通るとか通らないとか。妻はそれを捨てた人間なので、僕には一切関係ないんですが」 「その、お子さんが生まれたことも」 雪乃が遠慮がちに口を挟んだ。達彦は朗らかに笑い、 「知らせてないです。妻が望まなかったので」 テーブルの上に置いた指を組みかえた。まるで祈るような形。 「もう、半世紀近く前のことになるんでしょうか。当時の川崎の当主には、盟友と呼べるほどの人物がいたそうです。町で一番大きな病院を経営する、これまた代々土地に住み続けてきたある一家の当主。その名字は――犬塚」 びくり、とガクの肩が跳ねた。 「ほぼ時を同じくして代替わりし、また家庭を持った彼らはある約束を交わしました。それはおそらく彼ら以外の思惑が複雑に絡み合った結果だとは思いますが――《互いの子を許嫁とし、将来は結婚させること》という」 「え、そんな時代錯誤な」 「50年前の話だからね。まだまだそういうことはあったんだよ」 憂いを帯びた瞳で父は娘を慰めるように言う。 「何しろ地元の有力者同士だ」 「でも、そうしたらどちらかの家は続かなくなっちゃう、」 「何も長子同士を縁づかせる必要はない」 「え、じゃあ、お母さんは」 「長女だったよ」 「なら」 「蘭が――妻がこの世に生を受ける二年ほど前に、犬塚家では長男が誕生していました。だから彼女の誕生日、川崎の家はお祭り騒ぎもいいところだったそうです。これで約束が果たせる、と」 「でもお母さんは」 「生まれたのは双子の姉妹だった」 言葉を失った、かつての盟友同士の末裔たちを穏やかに見つめ、 「当主候補と約束を果たすための器をいちどきに得られたんだ。喜びもひとしおだったろう」 言葉尻にかすかに皮肉をにじませながらも、 「旧姓・川崎百合。僕の妻が誰よりも、自分よりも大切に慈しんだ妹――それがガク君のお母さんで、このひと」 達彦はそっとロケットを手に取り、 「蘭が亡くなった時、さんざん探したのに見つからなかった。まさかゆかりが持っていたとはね」 愛おしげに撫でた。 (2012.10.06) モドル |