1979年、冬。

重たい木の扉を開けてまず目に入ったのは、薄明かりに照らされた少女の顔。けだるげな表情でこちらを見る彼女の隣では、やはり震えるような線で描かれた骸骨が小さく口を開けていた。
壁いっぱいのイラストは正面だけではない。入口のすぐ横手には頭に大きなりぼんを付けたこれも少女。狭い通路を曲がってみれば背中に大きな羽を生やした美しい女性と目が合った。
かすかに首を傾けた達彦に友人が囁く。
「どう、いいだろ」
「うーん……ゲージュツっぽいのはよくわかんないなあ……」
心もとない返答がお気に召さなかったようだ。彼は唇を尖らせた。
「何だよ、せっかく連れてきてやったのに」
「でも本命はこっちじゃないでしょ」
「そうは言ってもだな」
「いらっしゃいませ」
穏やかな声が青年二人の言い合いに割って入る。
「ああ、すみません、のっけから失礼なことばかり」
慌てる客に、ゆるく波打つ長い髪を一つに束ねた女性はくすりと笑った。
落とした照明のせいで年齢はよくわからない。ただ、何かしら凄みのようなものは感じられた。夜に生きる女だな、と達彦は思う。しかしどうやら本命――お目当ての人物とは違うようだ。
「お久しぶりです、霧島さん。そちらが以前仰っていた」
「そう、そうです、このまえ華麗に文壇デビューした」
「おい、やめろよ」
達彦は急いで手を振って友人の軽口を止めに入る。
文壇だなんてとんでもない。小さな出版社が主催する小さな賞をひとつ取っただけでいいきっかけができたと大学を辞め、実家に事後報告に行ったら予想通り勘当されて、今や都会の片隅で食うや食わずの《自称》作家。
「それが、僕です」
胸を張って言えば、女性は今度は目だけで微笑んだ。
「自称だなんて。ちゃんと書いていらっしゃるんでしょう?」
「それしかできないだけです」
今、この世界で一体何人の人間が達彦を《作家》と認識しているだろう。受賞作を出版するためのあれこれに追われ、二作目はまだ形にすらなっていない。
作家の存在証明、それはただひたすらに書くことでしか実現できない。と、常日頃達彦は考えている。
より正確に言うならば、もちろんそれだけでは駄目だ。著したものを誰かに読まれ、良かれ悪しかれ《評価》されてこその生業。だからこそ今の自分をそれと認めるのには抵抗があった。
「でも素晴らしいことだわ」
何が、とは言わなかったので、達彦はこの人を好きになれそうだなと思った。
「それであの、蘭さんは」
そんな自分の胸中をまるで慮らない友人の声。《作家》のくせに、こいつはどうも場の雰囲気を掴む繊細さに欠けている。しかし、待ちわびた名前に思わず背筋が伸びたのも事実だ。
「もう降りてくるはずです」
カウンターの奥を軽く振り返り、柔らかな声音で女性は言った。
《蘭さん》。
その人の名字を達彦は知らない。またその名が本名かどうかも定かではない。
友人――霧島の行きつけのバーに、《見える》女性がいると聞いたのは一週間前。連れていけ、今すぐにと夜中の3時に騒いだ達彦は彼のアパートの大家にしこたま説教を食らい、霧島本人にもしばしの出禁を言い渡されたのだが、外で会う分には問題あるまいとかえって開き直った自分に、友人は呆れた顔で結局笑った。そうして今夜ここにいる。
先だって取った賞は《怪談》を選考の対象とした珍しいもので、達彦自身、自分はそういったものしか書けないのだという自覚もあった。初めて物語を書いたのはもう10年近く前だったが、以来、死者が登場するものか話中で人が死ぬものしか書いたことがない(あとは妖怪、妖精譚)。それでいて全く《見えない》己はいつも微に入り細を穿つ取材を欠かすことができず、けれど霧島が語ったほどはっきりと《見える》人間に会ったことはついぞなかった。
否が応にも期待は高まる。
彼の話によればかなりの美人だそうだが、そんなことはどうでもいい――
「あら、霧島さん。こんばんは」
綺麗な声だな、と思った。
暗がりから音もなく現れたのは、白く小さな女の顔。
重たげな黒髪を店主と同じように一つにまとめ、シンプルなシャツの袖を幾分まくりあげたその姿には飾り気が全くないけれど、逆にそれが整った顔立ちを引き立てている。白い肌、大きな瞳、長い睫毛――
あの紅い唇はくちべにを引いているのだろうか。
「蘭、あなたにお客様」
「……初めまして、蘭と申します。でもあなた、《憑いて》ませんよ」
事もなげに言う彼女を真っ直ぐ見つめ、
「結婚してください」
一つの迷いもなく達彦は言った。
空気が凍った。
「た、達彦、おまえ、何言って」
視界の隅であたふたと手が揺れているのを無視して彼女を見つめる。一瞬、大きく目を開いたその人は特に動揺することも嬉しそうにすることもなく、すっとカウンターを見渡すとちょっと屈み、ふたたび達彦にまみえたときには左手に小さなグラスを携えていた。溢れんばかりに並々と注がれた透明な水。
これを飲んで落ち着けということかな、と思った達彦の耳にばしゃり、という音が響いた。一瞬遅れてやってくるのは肌を伝うあまりにも冷たい感覚。
水をかけられたのだ、と理解するまでにはさらに数秒を要した。
あらためて見れば彼女――蘭は、女神のように優しげな笑みを浮かべて一言、
「一昨日おいで、ボーヤ」
と言った。

***

「めちゃめちゃ外見じゃないですか」
「え?」
「見た目じゃなくて中身に惹かれたって」
「ああ、ゆかり、もうそんなことまで話したんですね。恥ずかしいなあ」
「あれは娘へのささやかな見栄だったんだね……」
「いや、きっかけがそうだったっていうだけで最終的には彼女の全てに恋したんだから嘘じゃないよ」
「……で、どうしたの、その後」
「季節柄、さすがにこのまま帰せないってことでさやかさん――ああ、店主さんね。の、恋人さんの服を借りて強制送還。後で聞いたら、あの頃は蘭に言い寄る不埒な男どもが結構多かったらしくて、またそいつらがしつこかったんだってね。いろいろあってのあの行動だったってことでそんなにお叱りは受けなかったみたい。もちろん僕は平謝りに謝られたけど、まあ驚かせたこっちも悪かったし」
「それで」
「通ったよう、毎晩。お金ないから店に入れないときは一目見るためだけに」
「ストーカー」
「純愛です」
「そんなストーカーがお母さんに話しかけてもらえたのはいつのことだったの」
「ひどいなあ。君のお父さんとお母さんの馴れ初めだよ」
「はいはい、で」
「……そう、あれも寒い日だったからやっぱりまだ冬だったんだな。最初の晩から1ヶ月か、2ヶ月経った頃だったか」

***

ようやく世に出た処女作をまっさきに蘭の元に届けた翌日、達彦は少しだけ緊張しながら《Bar TIME》の扉を押した。薄暗い店内だが、明かりの少ない夜道に慣れた目にはそれも眩しく感じられる。正面のカウンターには人影が一つ、スツールに座っている客はゼロ。だいたいこの店はあまり混むということがなく、それでも滞りなく日々を暮らし、あまつさえ1人の家出娘を養っている店主に達彦は尊敬の念を禁じえない。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。……あの」
いつの日も美しい佇まいを崩さない女主は、しかし常ならぬ動きをした。流れるような自然さでカウンターに取り付けられた扉(西部劇に出てくるタイプのあれ)を引き、達彦に向かってにっこりと笑う。もちろん笑みを向けられた当人は何のことやら見当がつかず、
「えっと」
戸惑いをふんだんに見せつければ、主は芝居がかった仕草で天井を指差し大きく肩をすくめた。
「責任取ってちょうだい」
「は、え、」
「いいから」
半ば無理やり腕を引かれ、上に続く階段の奥に押し込まれた達彦が振り返ると、逆光でよく見えなかったが主はやはり穏やかに微笑んでいるようだった。

濃い藍色ののれんの前で達彦は途方に暮れる。
短い階段を登りきった天辺である。
これを潜ればおそらく住居部分なのだろう。助けを求めるようにもう一度下を振り向いたが、どうやら客が来てしまったようで既に店主の姿はそこにない。遠く聞こえるのは打ち寄せる波のようなさざめきと華やかな夜の気配。
大きくため息をついた。
そもそも責任とは何だ。
蘭にアタックをかけ始めてから早数ヶ月が経つけれども、ろくに相手にされていない。言葉を返してもらうことすら稀、というかほぼ無いに等しい。いくつかの苦い場面を思い出し、別の意味で達彦はもう一度ため息をついた。
けれど、いつまでもこうしていたって仕方がないのもまた事実。
女性だけの住まいに踏み込むのには抵抗しかないけれど。
お邪魔します、と口の中で言った声よりもはるかに大きく響いたのは、
そっとそっと右足を置いた廊下の軋み。
ウグイス張りもかくやというその響きに全身がこわばったのと、廊下の奥から声がしたのは同時だった。
「さやかさん?どうしたの、忘れ物?」
右の壁に並んだ、手前から二つ目の扉が開く。
室内の明かりが広がり、まるでそこだけライトを当てたようになる。
こちらに顔を向けた想い人。その大きく見開かれた両目は、見るも無残に腫れきっていた。
まるで一晩中泣いた後のような。
「――!!」
ウグイス張りよりも激しい音を立てて扉が閉まる。
達彦は慌ててその前にすがったが、ノブを回す勇気まではなく、
「あ、えっと、すみません、化野です」
律儀に名乗れば、板一枚を隔てた向こうで何かが落ちる音がした。
「え、え、大丈夫ですか」
「平気よ!知ってるわよ!」
上がってきたのが達彦だというのはわかっている、と言いたいらしい。
「あ、怪我してないですか」
「してない!!ていうか何でいるの!!」
「あの、さやかさんがですね」
続ける言葉に迷っているとドンと扉が叩かれた。思わず、
「責任取れって」
言われたままを告げると、ズルズルと何かが板にこすれる気配がした。
それきり返事が来ないので、達彦は自分なりに考えた予想をおそるおそる口に出す。
「もしかして……僕の本、読んでくださったんですか」
長い沈黙の後、力なく扉が叩かれた。Yesの意味らしい。
「それで、その……そんなお顔に」
今度は先ほどよりも強い一撃。
「あの、嬉しいです。ありがとうございます」
沈黙。
「ああいうの初めて書いたのですごく不安だったんですが」
「……賞、取ったんでしょ」
「でも選考委員と読者の評価が一緒とはかぎらないですから」
ストーリーは以下のようなもの。
年が近く、仲睦まじい姉妹には兄弟のように育った幼馴染の少年がいた。長じるにつれ、姉妹はそれぞれ少年に恋心を抱くようになるが、成長した彼が想いを寄せるようになったのは妹のほうで、そのことがわかった矢先に姉は交通事故でこの世を去る。が、姉の気持ちを知っていた妹は少年の求めに応えられない。事情を知らない彼と徐々にすれ違っていく妹。見かねた姉(幽霊)が、二人の仲を取り持つために立ち上がる――
大枠だけ見れば実によくある恋愛小説だ。ただし、
《姉(幽霊)が起こす怪奇現象が恐ろしくリアル》
《恋愛モノと侮る読者の足元を掬う展開》
等、怪異に関する描写の部分が高く評価されて受賞に至ったというわけである。
「アンタの」
鼻をすする音に達彦は我に返った。
「アンタのことは嫌いだけど、あの話は好きよ」
瞬間、何かが沸騰した。
「今、今書いて、うぐっ」
盛大に舌を噛んだ。
「は?何、大丈夫?」
「だいじょうぶ、です。今、書いてる話、書き上がったら」
深く息を吸い込んだ。胸の高鳴りを抑えるように。
「蘭さん、一番に読んでください」
「え?」
「今の話だけじゃない、次も、その次も、ずっと」
「……私は専門家じゃないわよ。本だってそんなに読まない」
いかにも自分では役に立たないと言いたげな口調に、見えないとわかっていても大きく首を横に振った。
「あなたに読んでほしいんです」
続く沈黙はさながら永遠だった。
「……つまんなかったらつまんないって言うわよ」
「大歓迎です!!!」
喜びをどうにか表そうと苦心し、達彦はふたたび思い切り舌を噛んだのだった。

***

「その日を境に、蘭は少しずつ僕と話をしてくれるようになりました。僕は筆の早いほうではなかったけれど、声のかかった仕事は全て受けたから必然的に彼女に作品を読んでもらうことも多くなって……感想を聞くのはたいてい近くの喫茶店か公園でした。いえいえ、彼女の部屋に上がったことは一度もありませんよ。だってほら、付き合ってるわけでもないですし。……え?いや、元々恋愛モノが得意ってことでは全くなかったので、彼女のお気に召すようなのはなかなか書けなかったです。でも僕は才能がないから降りてくるものを待つしかなくて、けれど蘭はどんなに好みに合わないものでもきちんと最後まで読んで感想をくれました。……そう、僕たちの関係が決定的に変わったのは、最初の作品を読んでもらってから一年くらい経った頃だったでしょうか」

***

「君さあ」
ため息混じりに想い人は言う。
「私に媚びようって気はないわけ」
「そんなことしたらまずこうして会ってもらえないでしょう?」
「そうだけどさあ……」
手にした原稿用紙の束をぱらりとめくり、
「何でいきなり歴史モノよ」
恨めしそうに達彦を見た。
「私、鎌倉時代と室町時代のどっちが先かさえよくわかってないのよ」
「舞台は幕末なんだから問題ないじゃないですか」
「そうじゃなくて!!」
バン、と煤けたベンチの手すりを叩くその手は今日も白く美しい。
どこか懐かしい飴色の日差しが分厚いコートの衿元に陽だまりを作っている。
今日は真冬とも思えないほどあたたかく、小春日和ってこういう日のことを言うのかな、と達彦は作家らしからぬ感慨に耽った(それは晩秋から初冬にかけての気温の高い日を指す表現である)。
「……まあ、絵師がひたすら描きつづける場面は良かった。と、思う」
「ホントですか!!」
「私、専門家じゃないけど」
「それがいいんです」
満面の笑みを向ければ、彼女は一際深く嘆息する。
そのまま銅像のごとく動かないので、達彦は、
「ねえ蘭さん、そろそろ結婚しましょうよ」
もはや何度目になるかわからないプロポーズを敢行した。
「文脈がわからない」
「僕の中では常に繋がっています」
「……私は出来損ないだから。って何度言わせるの」
「だからそんなことないです。って何度言わせれば気が済むんですか」
深い黒色の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「あなたほど優しい人を僕は見たことがない」
「やめてよ」
「たった一度、《約束》したからって、苦手なグロもホラーも最後まで読んで」
「やめて」
「もしも《家族》ってものに馴染めなかったんだとしたら、それはあなたじゃなく」
「やめて!!!」
悲鳴のようなその声に達彦は口を噤んだ。
いつも毅然とした態度を崩さない年上の女性は、子供のように両手で耳を塞いで震えている。
手を伸ばすのはタブーだと、
わかっていても止められなかった。
長いながい静寂の後、想い人はひっそりと微笑んだようだった。
胸に当たる吐息の熱さにめまいを覚えかけ、達彦は回した腕に力をこめる。
やがてそれに応えるように彼女はゆっくりと顔を上げ、形のいい唇を静かに開いた。
名を呼ばれたのだ、と気づくまでには幾分の間が必要だった。
そんな自分はよほどおかしな表情をしていたのだろう。蘭はふたたび頬をゆるめた。
「いつも君の話ばかり聞いていたね」
「蘭さん、」
「そろそろ私のことを話そうか」
「蘭、」
「全部聞いた後、どうするかは君の自由」
おそらく出会ってから初めて――彼女は達彦の瞳を射抜くように見つめた。
その奥に燃えているのは、
「川崎蘭。それが私の名前」
火のように紅く、
「生まれながらに一人の妹と」
水のようにつめたい、
「彼女と結ぶことを運命づけられた幼馴染を持って」
昏い情熱。
「その全てを捨てた臆病者」
まるで泣いているような表情で、
いとしいひとは懸命に笑ってみせるのだった。


(2012.10.15)

モドル