小さな額縁の中には、嬉しくてたまらないというように微笑むモノクロームの少女がいた。
「これが妹さん?」
「そう。可愛いでしょう」
「そっくりだね」
「どこが!?」
優しげにそれを見つめていた蘭は、しかし一気に不機嫌な顔つきになる。
「え……だって双子でしょう」
「君、やっぱり見る目ないね」
理不尽としか思えない非難に達彦は途方に暮れた。だってどう見たってこれは今より少し幼い彼女だ。
そんな自分の情けない顔には一瞥もくれず、
「家(うち)じゃあ誰も私たちのことを間違えなかった」
シャラシャラと金色の鎖をもてあそびながら、さして懐かしむふうにでもなく蘭は言う。
「私は絶対にこんなふうに笑えなかった。子供らしく泣いたり怒ったりもできなかった。何日も帰らない父親に、私たちのことを見もしない母親に、絶望したりなんかしなかった」
その唇の端にかすかに笑みが浮かんだ。
「でも妹は違った」
目を細めてそっとロケットを撫でる彼女は、達彦が見たことのない顔をしている。
「両親が喧嘩するたびに私のベッドに潜り込んできては震えていた。誕生日やクリスマスの時だけいい顔をする父親に心からの笑顔を向けていた。周りの変化の一つひとつに素直に反応して、そのたび少しずつ成長して、そうしてもともとの美しい性質を損なうことなくどんどん綺麗になっていった私の妹」
息を継ぐ。
「尊いと思った。でも私の周りの大人たちは誰も彼もどうしようもなくて、だから私が守ろうと決めた」
その決意をした時、彼女はこんなふうな眼差しをしていたのだろうか。
「私は私が嫌いだったから、彼女のためなら何でもするつもりでいた。実際そうした。でも」
「……でも?」
「……その役目は本当は私のものじゃなかったの」
一転して痛みをこらえるような表情になった彼女の手を、励ますようにぎゅっと握った。
やはり泣きそうな顔で笑う彼女を、もう一度抱きしめたくなる衝動を達彦は必死にこらえる。
しばしの沈黙。どこか遠くで鳥が啼いた。
こんな真冬に。
空耳だろう。
かすかに達彦が身じろいだ時、
「ヒトシ」
ため息をこぼすように、とうとう想い人はその名前を口にする。
「妹はひー君って呼んでた」
先ほどまでとは全く違う柔らかな口調になった彼女を、達彦は呆然と見つめた。
「実際、私より二つ年上だったけど、背は低いしガキっぽいし、まるで弟みたいだった。血が苦手で、オバケが怖くて、だけど妹の前でだけはちゃんと男の子の顔をしていた、あの子」
穏やかな顔がふと天を仰ぐ。
「《犬塚の坊ちゃん》。地元一、大きな病院の跡取り息子。妹の――百合の、許嫁」
燃えるような瞳。

***

「待って、待ってってば」
肩口に届く声は綺麗に無視した。
足元の石や小枝を蹴散らしながら、鬱蒼と茂る木々の間をずんずん進む。
が、やがてごく近い背後でドサリと重い音が響き、蘭は不承不承立ち止まった。
「アンタ、頼むから何もないところで転ばないでよ」
「何もなくないよ!ほら!!」
小さな手が奮然と指差す地面にはわずかに盛り上がった木の根っこ。
こんなの《ある》内に入らないわよという言葉を飲み込み、蘭は幼馴染に手を貸してやった。
今、これ以上いじめたらたぶんコイツは泣く。
「もう……蘭さん、危ないよ。一人であんまり奥に行っちゃ」
「林間学校の肝試しで腰ぬかした人がいても意味ないと思うけど」
前言撤回。
みるみるうちにその目のふちに透明な液体が溜まるのを、蘭は冷めた気持ちで眺める。
「な、どうしてそれ」
「おばさまが嘆いてらしたわよー」
「ゆ、百合には」
「だからなんなのよその呼び方は!!!」
堪忍袋の緒が切れた。
幼馴染――犬塚仁志はぱちくりと目をみはった。突然の怒声に涙は引っ込んでしまったようだ。
「ついこないだまで蘭ちゃん、百合ちゃんだったじゃない!!なによ百合って、気取ってんじゃないわよ!!ていうかどうして私だけさん付けなのよ!!!」
「なあんだ、そんなこと」
状況を忘れたようにへにゃり、と笑う少年に蘭はますます苛立つ。
「お父様に言われたんだ。百合は将来僕のお嫁さんになるんだし、そうしたら蘭さんはお義姉さんになる。その自覚を持てって」
「ケツの青いガキが何言ってんのよ!!」
「お、女の子がそんなこと言っちゃだめだよ!!」
「もういい!!!」
くるりと後ろを向き、ふたたび歩きだそうとした蘭は、しかし一歩も進むことができない。
いつの間にか、なじみのある小さな手が彼女の腕を掴んでいたからだ。
「……なによ」
いや、少なくともそれは蘭の掌よりは大きい。いつのまにかそうなっていた。
自分より二年も先に生まれたこのガキは、きっともう少ししたらぐんぐん背も伸びて、どこもかしこも大きくなって、強くたくましい《男》になるのだろう。
そしていずれは妹を守る立派な《お婿さん》に。
それはもう決められたことだった。
ならば自分はどうすればいい?
不意に目元が熱くなり、蘭は必死で歯を食いしばった。
「……蘭ちゃん」
と、声変わりもしていない高い声に似つかわしくない大人びた調子で幼馴染が自分を呼んだ。
蘭は内心で歯噛みする。
だからコイツは嫌いなのだ。妙なところで頭が回る。
振り払おうとした腕はやんわりと押さえ込まれた。
乾いた掌。
「大丈夫だよ。……かわらないよ」
「何がよ。アンタに何がわかるって言うのよ」
「それどころか良くなるよ」
「だから、何が」
「僕と百合ちゃんが結婚したら、蘭ちゃんも家族だ」
「私は私で結婚するわよ。あのクソッタレな家を継がなきゃいけないんだから」
「蘭ちゃ、……まあいいや。それでも僕たちだって家族だ」
幼馴染の体温は蘭よりも少しだけ高いようだ。
「ダンナさんと喧嘩したら、家に来ればいい。ダンナさんでなくても、……ううん、何もなくても、用がなくても来ればいい。こんな森の奥じゃなくて」
でなければこんなに温かく感じるわけがない。
こんな子供だましの約束など。
「……アンタ、馬鹿よ」
「馬鹿じゃないよ!!」
こういうところにすぐ反応するところはまるっきりガキのくせをして。
蘭は小さく笑うと気づかれないように急いで両の目元をこすり、ぱっと振り向いた。
「帰るわよ」
もうすぐ百合が昼寝から目覚めてしまうだろう。
その時、側に自分たちがいなかったらあの泣き虫がどうなるか、蘭は容易に想像できた。それは幼馴染も同じらしい。
目と目で思惑を交わし合い、妹が大好きなヘンゼルと兄が大嫌いなグレーテルは森の出口を目指す。
そう。
わたしは、あんたのことなんて、きらいなんだから。
呟きを、案外したたかな幼馴染はしっかり聞こえていないふりをした。

***

「私が家を出ようと決めたのはそれから8年後だった。やっぱり夏で、だからいつもの通り私たちは夏の間じゅう、別荘にいた。もちろんヒトシも一緒だった。……あの森にはもう行かなかった」

***

安らかな寝息を立てる妹を眺めていた。息をひそめて。
ベッドの上にペタリと座り込んでいる蘭の姿は、きっと闇そのものだ。
ぽつりぽつりと離れて立つ街灯の明かりはいかにも遠く、家人も寝静まったこの屋敷に灯る光源はもはやない。山の夜は圧倒的な質量を以て部屋のすみずみまで侵す。
唯一、弱い月明かりが眠る少女の顎のあたりを区切って照らしていた。それはまるで天然のスポットライト。
この唇が。
誘われるようにそっと人差し指を伸ばした。それが震えていることに蘭は気づけない。

仁志に伴われ、百合が散歩から帰ってきたのは9時少し前だった。夕食を終えたのが8時頃だったから、遅めとは言え許される範囲内だ。父は二、三のつまらない冗談を言い、それを母にたしなめられて仁志も百合も大きく笑った。その様子は普段と全く変わらないものであったのに。
部屋の扉を閉めた途端、顔を覆って座り込む妹に驚いた蘭は、医者を呼ぶかというような意味のことを言って駆け寄った、のだと思う。途端に強い力で肩を掴まれ、真っ赤な顔の彼女と目が合った瞬間、
残酷なまでにはっきりと何があったのかを悟ってしまった。
「ひー君がね」
わかってる。
「あの、ラベンダー畑のところで」
言わないで。
その後の会話は夢のようにおぼろだ。
ただ、自分が笑っていたらしいことだけはなんとなくわかった。妹の頬の赤は最初から最後まで消えることはなかったが、それでもたとえば不安そうにこちらを見たり、怯えたような表情になることもまた決してなかったからだ。
いつからだろう、と蘭は思う。
いつからこんなに嘘をつくのが上手くなったのだろう。
子供の頃は駄目だった。どんなに取り繕おうと努力しても彼女の怒りや悲しみは小さな心の器から溢れ、そのたびに嵐が家の中に吹き荒れた。
次の日には忘れてしまうようなものもあった。
家族の間に決定的な亀裂をもたらしたものもあった。
ただ一つだけ胸を張って言えるのは、
何があろうと妹だけはその恐ろしい竜巻の標的にしなかったということ。
だってずいぶん昔に決めたのだ。
他の誰にも頼らずに、ほかならぬ自分がこの愛らしい子供を守りぬくのだと――
かすかなうめき声に、蘭は現実に引き戻される。
目の前にあるのは薄暗い白。
絡みついているのは真っ黒な影。
息をのむ。
はじかれるように両手を引いた。
途端に毒のような黒は狭い視界から消え去り、残った白は細かい上下運動を繰り返す。
ということは、これは、己の、
「らんちゃん……?」
百合が薄く目を開いた。
対する蘭は凍りついたように動けない。
とろりとした眼差しのまま、首を絞められかけた少女は不思議そうに喉のあたりを幾度か撫で、やがてその手を姉の頬に伸ばした。
状況を理解していない、何一つわかっていない、
天使のような微笑み。
その指先が粟立つ肌に触れるか触れないかのところで、細い腕はパタリとシーツの海に落ち、
永遠のような一瞬の後、少しだけ開いた唇からまた規則正しい寝息が流れ始めた。
蘭は詰めていた息を吐く。
そして、

***

「私はここにいちゃいけないって思った」
老人が過ぎ去った青春を語るような、絶望的に穏やかな声。
蘭の顔にはどんな感情も浮かんでいない。それでいてそこには全てがあった。
この彼女を。
達彦は傍らでひそかに思う。
今の彼女を美しいと思う自分は、相当イカれているのだろうか。
それとも。
「君に初めて会ったとき、腸が煮えくり返るような気持ちになった。あとで、どうしてそんな風に感じたのか考えた」
「……《結婚》?」
「そう」
能面のような、いっそ神々しい表情を崩さずに蘭はゆっくり言葉を紡ぐ。
「それで、私がコレを捨てられない理由もやっとわかった」
シャラリと鎖が鳴った。
「それまでは罪を忘れないためだと思ってた。二度と誰かに対してあんなことをしないように――でも本当は違ったの」
一瞬目を伏せ、顔を上げた時には彼女はもう人間の表情に戻っている。
気が強く、意地っ張りでそのくせ涙もろくて底なしに優しくて――
「これ撮った時ね、なぜかあの子も一緒にいたの。家族の記念写真だから、もちろん傍で待ってるだけだったけど」
得心した達彦の目を見て、蘭は小さく頷いた。
花のように笑う少女の視線の先には、きっと彼が。
「だからこの子はこんなに綺麗に笑ってるのね。……一番よ、私が知ってる中で」
そういうふうにしか思い出を持っていられない彼女を思い、キリキリと胸が痛んだ。
「きっと一生忘れない、忘れられない、私の初恋。ううん、」
その瞳にうっすらと膜がかかっているのを達彦は知る。
「好きよ。今でも」
それでも語調はあくまで強く、まるで何かを責めるように響く。
「だからこの先、どんな人が現れても決して一番にはなれない。一番に想う相手は変わらない。私が、変えたくない」
「かまいません」
「…………は?」
鳩が豆鉄砲を食らったような、とはこういう表情のことを言うのだろう。ぽかんと口を開けた蘭の掌に、達彦はそっと唇を当てた。
「二番目でいいです」
いとしいひとが、首のあたりからゆっくりと朱に染まっていくのをなぜか泣きそうな気持ちで見ていた。
「あなたにそこまで想われるその人に、嫉妬しないと言ったら嘘になります。だけどこの先一生、側にいるのは僕だ。なら僕の勝ちだ」
祈るような気持ちで笑って見せれば、陽炎のような薄い膜はとうとう破れた。
泣かせたかったわけじゃないのに、と呟けば、ドン、と衝撃。気づけばすっぽりと腕の中に収まっている小柄な体躯。
子供のように声を上げて泣く未来の妻の背中を、達彦はただ優しく撫で続けた。

***

リビングは水を打ったように静まり返っていた。時計の秒針が動く音だけがかすかに聞こえる。
室内の注目を一身に集めながら、達彦はグラスのお茶を一口飲んだ。
そうしてゆかりの隣の《空間》を見上げ、にこりと微笑む。
相変わらずその視線はガクの顔の位置からは少しずれていたけれども。
「君が見たっていうのはおそらく、お母様が持っていた蘭の写真だろう。……《グニャグニャした変な模様》はきっと筆記体のYだと思う。これはRだから」
「お互いの……写真を?」
か細い声は達彦の耳に届くはずのないもの。けれど、昔話を語り終えた作家はきっぱりと頷いた。
「お守り……のつもりだったみたいだ。その時読んでた小説の真似をしたんだって。タイトルも作者も忘れちゃったけど」
ひと呼吸置き、その目は遠くを見やる。
「百合さんも持っていてくれたんだね」
その後に続く言葉はよく聞き取れなかった。
「……?」
「そうだ、これ」
達彦はガサガサとポケットを探る。
「やっと返せる日が来た」
嬉しそうに広げて見せたのは、深い藍色をした光沢のある布切れ。
「ハンカチ?」
達彦が頷く。
「一度だけ、ガク君の家の近くまで行ったことがあるんだ。蘭の七回忌の後だった」
懐かしそうにまなじりを下げる。
「ちょっと見て、それだけで帰るつもりだったんだ。でも表札を見たら何だか泣けてきてしまって」
真昼間の往来で号泣していた男は、一人の少年に呼び止められたのだと言う。
シャツの裾をきちんとズボンの中に入れ、よく磨かれた靴が印象的な彼は、黙ってハンカチを差し出した。
礼を言うのもままならなかった達彦は、思うさま顔を拭ったあとに、洗って返したいという旨を伝えたのだが、
「彼はフルフルと首を横に振って、そのまま目の前の家に吸い込まれるように消えた」
だから、
「ああ、この子が、って思って余計泣いちゃったよ」
そう言って、あらためてずいと手を差し出した。
「遅くなっちゃってごめんね」
沈黙。
のち、ポン、と音を立てておもちゃのハンマーがガクの手の中に現れる。
ガクはその柄でもってハンカチをすくい上げた。
「……!」
達彦からは宙に浮いているようにしか見えなかったろう。
「義理堅いことだな」
「……お父さん、ガクさんが『ありがとう』って」
「おい」
「間違ってないでしょ?」
見上げればガクは不服そうに顔をしかめたが、その耳のあたりはほんのり染まっている。
「いえいえ、どういたしまして」
わかっているのやらいないのやら、作家は安心したように肩を下げた。

下弦の月に照らされた闇に一歩、足を踏み出した。
振り向かなくともわかる。そこには《彼》がいる。
はたして屋根の上にあったのはいつかと同じような光景。ただし、膝の上で狸寝入りをする少年は今日はいない。
ガクは無言で片手を上げた。そのままこちらに腕を伸ばす。
冷たい手に体を引っ張り上げられながら、今更ながらゆかりは小さく笑み崩れた。
「なんだ」
「ううん」
不審そうな視線をさりげなく避けながら、
「ツキタケ君は?」
聞けばガクは眉をしかめて見せたが、その瞳はいつになく和んでいる。
「アズミに絵本を読んでやっていたんだ。そうしたらアズミの奴、そのまま眠り込んでしまって」
「身動きが取れなくなったと」
光景を想像し、ゆかりもほのぼのとした気持ちになる。
「お兄さん似だね、ツキタケ君」
「本当の兄弟じゃない。……それはおまえだろう」
「従兄妹よ」
まじまじとガクを見つめた。
目線はすぐにそらされた。
「何照れてんの、面白いなあ」
「バカ、そんなわけあるか!!」
頭から湯気を出す勢いで憤る彼の、バタバタと動く手を掴む。
「お礼、ずっと言いそびれててごめん」
ガクは動きを止めた。
「あの時、助けてくれてありがとう」
その表情は自然と真面目なものになる。
「…………ひめのんのためだ」
予想通りの答えに、ゆかりはむしろほっとする。
「うん」
どうとも取れる肯定を返し、隣に座った。空を見る。
東京の夜はゆかりが育った土地のそれよりもはるかに薄い。
母が見たという闇はどのくらい濃かったのだろうか。
と、不意に差し出されたのは、目の前に広がる夜のような色合いをした四角い布切れ。
「……これ、さっきの」
「やる」
思わず見上げた。
ガクは真っ直ぐ前を向いたままだ。
「今の俺には必要のないものだ」
「でも、なら姫乃ちゃんに」
「ばかもの」
嫌にくっきりした発音で従兄妹は言った。
「ひめのんにこんな男みたいな色が似合うか」
「…………えっと、私、怒っていいかな?」
「本当のことだろう」
このノッポ、どうしてくれよう。ゆかりがひそかに拳を握り締めた時、
「おまえはよく泣くから」
やはり前を向いたままガクがそんなことを言うので、ゆかりは怒りのやり場をすっかり失ってしまう。
「そんなことないよ?」
「嘘つけ」
ガクは口元にかすかに笑みを浮かべる。それは反則だ、とゆかりは思った。
それきりガクが黙り込むので、ゆかりもただ黙ってそこにいた。
やがて闇が薄れ、徐々に世界が色を取り戻し、夏らしい強い光があたりをすっかり照らし出すまで。


(2012.10.20)

モドル