「アニキ!!ダンナ!!」 行き交う人波を文字通りすり抜けながら、ツキタケは声を限りに叫んだ。 「ねーちゃん!!ゆかり姉(ねえ)!!」 物理的にはなんら障害にならない人混みだが、とにかく視界が遮られる。道の両側に並ぶ屋台のせいでそれは途切れることを知らず、結局ツキタケはめまぐるしく視線をあちこちに飛ばしながら、早足で駆け抜けるしか術がない。 掌ににじむはずのない汗を感じる。心臓があるはずのあたりがきゅっと縮む。 感覚のおかしさを嗤う余裕はなかった。けれど、立ち止まって落ち着いて考えればさほど慌てる状況でもないことに気づけたはずだ。 敵の襲撃に遭ったわけではない。もちろんツキタケ自身にも異変はない。 暮れなずむ空の果てには、のんびりと光る一番星。 さんざめく人の声は波音に似ていた。はしゃぐような嬌声が時折それに混じる。 道々を照らす提灯のあかりは淡い黄色で、幸福そうな横顔がいくつもその下を過ぎていく。 もうもうと煙る先に見えるのれんには《タコ焼き》、《イカ焼き》、《お好み焼き》―― 犬塚ガクの弟分にして赤いマフラーがトレードマークの少年こと雉子ノ葉ツキタケは、現在、うたかた荘の面々と訪れた花火大会にて絶賛迷子中であった。 西咲良町最大の夏のイベント、うたかた荘からほど近い市民球場を会場に行われる花火大会に、皆で行こうと提案したのは管理人だった。思えば去年もその前の年も変わることなく行われていたそれに、店子たちが足を運んだ記憶はない。まず去年はそれどころではなかったし、その前は――たぶん、今ほどメンバーの仲が良くなかったのだろう。 嬉々として少ない荷物の奥から浴衣を引っ張り出してきた雪乃は、なんと管理人室の押入れからも古めかしい男物の浴衣を発掘し、あざやかな手さばきでそれらを着付けた。驚いたことには、桶川親子に輪をかけて持ち物の少ないゆかりも気づけば和装ですましていたのである。 「母のです」 それは濃い紫の地に白で桔梗の柄が染め抜かれたもので、ゆかりの白い肌によく映えた。見慣れない姿にツキタケはなんだかどぎまぎしてしまったのだけれども、傍らのガクが姫乃の装いに大騒ぎしていたため、戸惑いが気づかれることはなかったようだ。 ゾロゾロと連れ立った一行がアパートを出たのは、まだ日も落ちる前。まずは縁日を堪能しようという魂胆だった。町の人口よりも多いのではないかと思われる混雑ぶりに、小さなアズミはいち早く明神と手を繋いだのだけど、もちろんツキタケやエージはそんなことをするはずもなく、結果から言えばその油断が仇となった。 射的の虜になった(正確にはガクの嘲りによってムキになった)明神と、やいのやいのと口を出すエージからふと目をそらした先にそれはあった。 《ガラス細工》。 《りんご飴》や《チョコバナナ》と同じように垢じみた幕で囲われたそこは、しかし他の一画とはずいぶん雰囲気を異にしていた。 鳥に魚に、犬に猫。かと思えば童話に出てくるような透き通った靴や、ずいぶん細かな細工を施された宝石箱のようなものまである。 キラキラと光る色ガラス。安っぽい電灯に照らされたそれらはどこか魔術じみた輝きで少年を誘った。 ――ゾウとか、キリンとかはあるかな。 無意識に思い浮かべたのは、管理人と手を繋いでいるワンピースの少女。 縁日に一歩足を踏み入れた時から、彼女は異様なまでに興奮していた。ツキタケよりも幼いその子には、おそらくこのようなイベントを訪れた経験がないのだろう。怒涛の勢いで明神の手を引っ張りまわす姿に、チクリと胸が痛んだのだ。 見せてあげたい。この子供が喜びそうなものを、できるだけたくさん。 未だ言い合いを続ける男どもから離れ、ツキタケはおそるおそる光の下に近づいた。ひしめく人の隙間からちょこんと頭を出して探したが、この屋台には目当てのものはないようだ。 「坊や、こういうの好きなの?」 背後から放たれた声に、こくんと頷いた。 「あっちにもあったよ。同じような、でももっと種類がたくさんあるの」 左脇から伸びた白い手は、くいと曲がって道の反対側を指した。 何かに吸い寄せられるようにツキタケはふらふらとその場を離れ、やがて《声》の言ったとおりに似た店構えの屋台を見つける。簡素な台の中央近く、燦然と輝いているのは、 「……アズミ!ゾウさんだぞ!!」 喜色満面、振り向いたツキタケの顔は一瞬にして青ざめた。 どこにいても目立つ白い頭も、この季節には格好の目印になる冬物のコートも視界のどこにもない。 それどころか、それほどの距離を移動した覚えもないのに目に映るのは全く知らない風景だ。あの射的屋など影も形もなかった。 慌てて身を翻し、闇雲に走り出すツキタケが立っていた場所では、突然巻き起こったつむじ風に何人かがちょっと目を瞬いた。しかし、そんな小さなアクシデントもまた喧騒に飲み込まれていく。 歩き疲れて立ち止まった。 相変わらずの人波を睨むように見据え、ツキタケはゴクリと喉を鳴らす。 ツンと鼻の奥が痛む。キリキリと、音が出るほど歯を食いしばり、 「ツキタケ君!!!」 その時、耳に飛び込んできたのは馴染みのある、けれど常よりはやや高い女性の声。 「よかっ、た……」 気づいた時にはその姿は目の前にあった。激しく肩が上下している。肩口よりやや伸びた髪は乱れに乱れ、浴衣の合わせも大分大きく―― 「ゆ、ゆかり姉」 「あーもう本当よかった、心配したよお」 なおも言い募る彼女の口を塞ぐ形に手を伸ばした。 きょとんとこちらを見る瞳はあくまでも澄んでいる。 「変に、思われる」 実際、行き交う人の群れは綺麗にゆかりの周囲だけなくなっていた。《何もない空間》に向かって百面相を繰り出す若い女性を、老若男女、一様に気味悪そうに見つめている。 右、左と順番に首を巡らして状況を把握したゆかりは、今一度正面に顔を向け、膝を曲げてツキタケと目線を合わせると、どこかの管理人のようにニカッと笑った。 「だーいじょうぶ。今ぁ夏だし、今日はお祭りだから、結構こういう人多いのよ」 「こういうひと?」 「《霊》が見えてる人」 物騒な発言にますます彼女を取り巻く輪は大きくなる。一層慌てるツキタケの頭をちょっと撫で、ゆかりは堂々と左手を差し出した。 「嫌かもしれないけどちょっとだけ、繋いでちょうだい。もうはぐれたくないから」 「いいから、早く」 「わかったわかった、だからほら」 口笛でも吹きそうなその様子に、ツキタケはため息をついてしぶしぶ右手を差し出した。 「本当は私、ガクさん捕獲部隊だったのよ」 相変わらず《大きな一人言》を気にするそぶりもなく、ゆかりは片手で携帯電話をいじっている。 「ほかく?」 「ツキタケ君がいないってわかった瞬間、あの人、走り出しちゃって」 咄嗟にその後を追おうとした明神を押しとどめたのは他ならぬゆかりだった。 「とりあえず明神さんが姫乃ちゃんたちと離れるのはマズイでしょう」 可能性は低いが先日の《敵》の罠の可能性もある。とにかく明神は姫乃たちと離れないこと、エージはアズミを守るためにやはりそばにいること。 「そう考えたら、追えるの私しかいないじゃない」 人間の文化に興味津々のパラノイドサーカスは、とっくの昔に別行動を開始していた。以上のことを早口で説明し、明神が頷くやいなやゆかりは全速力でコートの青年の後を追ったそうだが。 「下駄って走りにくいね」 浴衣の裾を少しからげて笑う。暗がりに浮かび上がる左足の、鼻緒に接するあたりが赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。 「あの、ケガ、とか」 「全然。私、頑丈なの」 朗らかに言いながら裾を直すと、携帯電話を耳に当てる。そして、 「……ん?」 訝しげな顔ですぐに離した。ふたたび素早くいくつかのボタンを押し、 「――ダメだ、かからない」 俳優のように大げさに肩をすくめて、手の中の機械を手提げにしまう。 「このへん、人が密集してるからだろうね。仕方ない」 唇を尖らせたのち、ツキタケを見た。 「花火、見るはずだった場所に行ってみよう。時間までに会えなかったらそこに来るでしょう」 「……ごめ、なさ」 「なーに言ってるの!!」 強く背中を叩かれ、ツキタケはつんのめる体をどうにか支えた。 「楽しかったよ。ドラマの撮影みたいで」 その笑顔がじわりとにじむ前に上を向いた。ようやく暗くなり始めた空。 この女性(ひと)が、アニキの従兄妹。 先日発覚した新たな事実を胸の内で繰り返す。 不思議そうにこちらを見るその顔は、ツキタケの慕う兄貴分とは似ても似つかない。 いや、顔だけではない。普段の暮らし方も感情の表し方も、直情型・激情型の彼とは全く違うものだ。 なのに、ふとした時に見せる優しさや思い切りのよさがどこかあの人を思わせて、 ――だから。 「ゆかり姉は、アニキのこと、好き?」 唐突な質問だったろうと思う。けれど、何事もニュートラルに受け止めるのが長所であるところの彼女はさして動じた様子もなく、 「うん」 ごくごく普通に頷き、 「急にどうしたの」 《大人》の顔で笑った。 その姿に甘えてしまおうと思う自分は狡いだろうか。 「ずっと考えてたんだ。どうして今、アニキにさわれる生者が現れたのかって」 俯いて、たどたどしく言葉を紡ぐ。 「ねーちゃんに出会うまでの話だけど……アニキは、自分のことが《見え》たり話しかけたりしてくれるおんなのひとを、片っ端からナンパしてた。って、ダンナは言うけど、本当はそうじゃないんだ」 ゆかりは黙って聞いている。 「アニキが声をかけるのはいつだって生者だった」 「……《霊》の人のほうがコミュニケートできる確率は高いでしょう」 「でも、そうだったんだ。どうしてか、アニキは一度も説明してくれなかったけど」 くっと唾を飲み込んだ。 「止めてほしかったんじゃないかって、俺は、思って」 「……どういうこと?」 「オイラたちが死んだ理由を、アニキは話したでしょ?」 繋ぐ手がひくりと震えたのをツキタケは知る。 「アニキは、……《復讐》するつもりでいる。最近は、オイラと離れてどこかに行くことも増えた。でも、」 見上げた顔はただ戸惑いを露にしている。 申し訳なく思いながらも、ツキタケは勇気を振り絞って言う。 「生者の持つエネルギーは、オイラたちの持ってるものよりもずっとずっと強い」 華奢な手をしっかりと握り締めながら。 「《復讐》が叶ったら……アニキはきっと《陰魄》になってしまう。それは、本当は、嫌なんだって……誰にも言えないけど、イヤなんじゃないかって、思う」 姫乃に出会った時、彼の《想い》を知った時、 「だから、アニキの探す《たった一人》にそれを止めて欲しいんじゃないかって」 そして姫乃(かのじょ)がその想いに応えられないのであろうと悟った時、 「思って、だから」 「ツキタケ君は?」 ようやく、と言った様子で言葉を吐きだした年上の女性に微笑んでみせる。 「オイラはダメだよ」 「どうして」 「…………オイラがホントに望んでることを言えたのは、霊になってからだった」 死んでいるのに《瀕死》の状態でエージ(アイツ)の元に向かった、下水道での記憶。 「《生きてる》頃はいっつも一人ぼっちで、……家に帰れば話を聞いてくれる人はいたけど、その人はずっとずっと年上で、もちろんアニキもいたんだけど、やっぱり俺よりはずっと大人だったから」 だから、 「《あの時》はスゴク嬉しかった。自分が死んでることを忘れるくらいに。でも」 それでも、 「やっぱり」 つくづく今日は目の奥が痛くなる日だと思う。 「オイラは」 「ごめん」 今度は自分の口の前にかざされた手に、かまわずに言葉を継いだ。 「生きていたかった。から」 「ごめん」 本格的に口が塞がれる。 うごうごと唇を動かすツキタケの顔を見ないまま、ゆかりは口を閉ざした。 その意を汲んで、ツキタケも黙った。 ずいぶん長い時間が経ったような気がした。 遠目にもうっすらとその場所――《すぐ後ろが墓地だから、きっと人が少なくて絶好の観覧スポットになる》と明神が言っていた――が見えてくる頃、ようやく彼の手を引く女性は口を開く。 「わたしは、だめだよ」 「どうして」 勢い込むように尋ねてしまったのも仕方ないだろう。 いつも飄々と笑っている女性――化野ゆかりは、見たことのない表情をしていた。 「わたしは」 唇を噛み締め、息をするのも苦しそうに、 「半分死んでるようなものだから」 「そ――」 「ツキタケ!!!」 劈くような声と同時にガシリと《誰か》に抱きすくめられた。 頬に当たるのは滑らかな、動物の毛皮のような感触。 それが誰かなんて考えるまでもない。 「……アニキ」 「どこに行っていたんだ!!!」 ぶるぶると震える細い体躯にそっと腕を伸ばした。 「ごめんなさい」 心からの謝罪を述べながら、しかしツキタケの心は別のところにあった。 どういうことだ。 目だけ動かしてその人を見る。 ほっとしたように肩を下げ、けれどツキタケの顔からは微妙に外れたところを凝視していた彼女は、同じくクラシカルな浴衣を纏った女性に声をかけられてこちらに背を向けた。その後ろ姿は普段と何ら変わりないものだったが。 半分、死んでいる、だって? 考えのまとまらない小さな子供に、救いの手は差し伸べられない。 夜空に眩い火の花が咲いた。連続して弾けるそれらを追うように立ち上る歓声。数秒、辺りは昼間のように明るくなり、そしてまた暗闇が戻ってくる。 のっぺりしたアナウンス(今上がったのは《スターマイン》で、協賛は西咲良町の外れに工場を構えるナントカ工業だそうだ)を聞きながら、ゆかりは眉を下げた。 少し離れたところに立つ《彼ら》。同じくらい長身の二人の男性と、その間に納まる小柄な後ろ姿。 絵みたいだな、と、気に入りの風景を見つけたときにはいつも胸に浮かべる感慨に浸りながら、シャッターを切るようにことさらゆっくり瞬きをした。 隣に立つ人がこちらを振り向く気配がした。だから、穏やかな気持ちのまま口を開いた。 「若いっていいですねえ」 「怒るわよ、ゆかりちゃん」 からかうような口調の彼女のことは見ずに言う。 「いつまでも見ていたくなります」 「行っておいでなさいよ」 「お呼びじゃありませんよ」 「……あなただって十分若いのよ?」 語尾に疑問符を付けたその言葉は幾分真剣味を帯びていたので、黙った。少し喋りすぎてしまったようだ。 沈黙が二人の女性の間を埋める。と、新たな色彩が濃紺のキャンバスを彩った。 「ねえ」 「私の青春は、とっくの昔に終わっちゃったんです」 「……おばさん、本当に怒っちゃうわよ」 光に照らされた女性を見やった。美しく眉をひそめたその顔はどこか童女じみていて、急にいくつも年をとったような気分になりながらゆかりは言う。 「雪乃さんはまだまだお若いですよ。だって、……何一つ捨ててないから」 「……あなたは、」 「今さら取り戻そうと思ったりしていいんですかねえ。私は、」 もう十分に幸せなのに。 幸せに、なってしまったのに。 《彼》を失うことと引き換えに。 「……わるいことだって、誰か言ったの?」 その言葉はナイフのように鋭くゆかりの胸を――心臓よりも深いところをえぐる。 「わからないんです」 もしもたとえばそうすることで、あの青年を救えるのならば、 いや、 「……ツキタケ君は私のことを買いかぶりすぎです」 独白を雪乃は静かに聞いている。 「そうじゃなくて、あくまで私の問題で」 ああ。 短く嘆息し、ゆかりは小さな声で呟いた。 「ほんとうに、潮時なのかもしれません」 応えるようにまた大輪の花が咲いた。 金色の粒子がパラパラと落ちるのを追うように、尾を引いた白い塊が夜空を駆け上る。 その形は戯画化された魂にひどく似ていて、どうしようもなく胸を締め付けられた。 それでも、まだその人の名前を呼ぶことはできない。 (2012.10.29) モドル |