うたかた荘にクーラーなどという洒落たものはない。午後を少し過ぎたこの時間帯は、一日のうちで最も辛く厳しい試練の時であった。頼りになるのは20年物の扇風機一台、熱気をかき混ぜるだけのそれに残念ながら体感温度を下げる効果はほとんどない。
ないないづくしのリビングで、今、ゆかりは勝ち目のない戦いに挑んでいる。
テーブルの向こうに座るのは澪。灼熱地獄もどこ吹く風、鋭い瞳でこちらを睨む姿には大変な威圧感があり、ゆかりの背を別の汗がつたう。
グラスの氷がカランと音を立てた。
「……二人ともいい加減に」
「ガキは黙ってろ」
一言の元に切り捨てた澪は、ゆかりから目をそらさずに、
「おまえが飛(フェイ)なんて使えるようになったところで意味がない」
強い口調で言った。
「ありますよ」
「ない」
「たとえばこないだだって、姫乃ちゃんを抱っこして逃げられたかもしれないし」
「無理だ。おまえ、梵術を魔法か何かと勘違いしてないか。人一人抱えて敵から逃げるだけの剄を出力するのなんて私でも無理だ。そもそも《もうあんなこと二度と出来る気がしない》と言ったのはどこのどいつだ」
流れるような反論にゆかりは対抗する術をもたない。だが、
「今、おまえに必要なのは攻撃手段、」
「それは早計だと思います!!」
ここで折れれば自分は、
「善良な一般市民に銃刀法違反を求めないでください!!!」
作家として名を馳せる前に別のことで有名になってしまう。
必死の形相で抵抗を試みる弟子を見て、澪はくしゃくしゃと長い髪をかき回した。
彼女は今日、ゆかりが昼食の支度を始めようとした時分にふらりと姿を現し(自分一人だけならば食べないという選択肢もあったが、その時リビングにはエージがいた)、まずいともまた美味いとも言わずに大量の素麺をたいらげ、食後の麦茶を飲みながら世間話のようにこう切り出したのだ。
《おまえ、縁のある刃物はあるか》。
何の謎かけだと首をひねるゆかりの顔が青ざめるまでに、さほど時間はかからなかった。
あろうことか澪は、ゆかりに《刃物を使って戦うための水の梵術》を教えようとしているらしい(ちなみに澪の得物はいわゆる長ドス――日本刀だ)。
なんでも《おまえのような素人が敵より優位に立つためには、まず得物から吟味しなければならない》――日頃使い慣れたものならば《既に絆がある》から、様々な場面でより力を貸してくれるそうだ。ただしそれは《わかりやすく言えば》というだけの話で、いつかどこかで読んだ漫画のように得物(それ)自体に意思があるわけでも、危機的状況で人や獣の姿で具現してくれるわけでもないらしい。
普段、あまり言葉を費やさない澪が、彼女にしては懇切丁寧とも言えるほど噛み砕いてくれた以上のような説明は、残念ながらゆかりの関心の埒外にあった。
そんな物騒なものを振り回すなんて、ありえない。
言外にそう言い切ったゆかりに、澪は大きく両目を見開いた。チャップリンのようなその仕草は、彼女の拒絶が予想の範囲内であったことを如実に示していた。
そして、今。
「正当な理由があれば大丈夫だよ」
「ほら、だから……えっ?」
「おまえイメージだけで言ってるだろ」
呆れ顔で、彼女は傍らに立てかけたみずからの得物を引き寄せる。
「だいいち私はどうなる」
「それは……」
知ってて知らぬふりをしているものとばかり思っていた、とはとても言えない。
「あれはちょっとややこしいから、もちろん場合によっては摘発の対象になるかもしらん。だが、最悪の場合は十味のジイさんに泣きつけば大丈夫だ。便利だぞ、警察OB」
「……だとしても!!」
さらりと聞いてはいけないことを言われたような気がするが、この際それは置いておく。
「なんかもっとこう、あるでしょう。安全な武器が」
「武器が安全でどうする」
澪の眉間のしわはふたたび深くなる。
「それでも」
さすがに、
「刃物は護身術の域を超えてます」
震えそうになる拳を握り締め、ゆかりもぐっと澪を見据える。
《師匠》に楯突くなど、未だかつてなかったことだ。
澪の片眉が上がった。がくりとうなだれると、大きくため息をつく。ようやく話が通じたかと胸を撫で下ろすゆかりの期待は、見事に裏切られた。
「……アンタさ、出てけば?」
「はい?」
「意地悪で言ってるんじゃない」
ゆっくり顔を上げた女性(ひと)の瞳は、たしかにこれ以上ないくらい真摯な光を宿している。
「この前、言おうか迷ったんだけど」
それが例の襲撃事件を指しているということはすぐにわかった。
彼女がゆかりにこんな無茶な提案をするのもそれが理由のはずだ。
「あんな目にあったのに、アンタ全然平気な顔してるから、必要ないかと思って。……善良な一般市民はそうそう陰魄に憑かれた奴に襲われない」
真剣な眼差し。
「そもそも無縁断世のことなんて知らない。ここにいる限り、そういう世界に関わらざるを得なくなる。今ならまだ引き返せる」
うるさいくらいに鳴いていた蝉の声が、ふと止んだ。
「……じゃあ、なんで募集なんて」
「ぼしゅう?……ああ、あれは」
あの今にも潰れそうな不動産屋に思いを馳せたか、澪の視線が一瞬外れた。
「……明神の遺志だったからな。《悩みを聞いてくれる誰かがいるアパート》、《霊も人間もみんな家族》――そんな場所にしたがっていたから、アイツは。それでもまだ時期尚早だって私は最後まで反対したんだよ。なんたって姫乃が無縁断世の能力を発現させてからやっと一年経ったばかりだ。でも冬悟が頑固でな」
「……?ええと」
明神の呼称が妙に揺れているのが気になったが、ゆかりはとりあえず話を進めることにする。
「私が来るまで入居者はなかったんですよね。それは」
「まず話をできるところまでに至る奴がいなかったよ」
その目がどこか寂しそうなのは、明神の意志とやらをよほど大切にしたかったからだろうか。
「張り紙を見つけた人間からして一人か、二人か。別に変な術をかけているわけでもなかったんだが……結局どいつもこいつも西川のオヤジに話を聞いた途端に逃げ出した。こういうのは縁だから、やっぱり今はまだそういう時期じゃないんだってどこかで安心していたんだ。でも、そこにアンタだ。それがまた」
澪はいかにも仕方がなさそうに、口の端だけちょっと上げて笑った。
「あんなムチャクチャな条件出しても引き下がらないし、泣きそうな顔でげえげえ吐いてたくせに一週間過ぎたらケロッとしてるし、もしかしたら本当にモノになるのかと思ったけど――」
微妙に論点がずれている気がするが、澪は気づかぬように言葉を続ける。
「あの陰気野郎にさわれる理由もわかったんだろう?だったらここらが潮時じゃないか」
そこで彼女は言葉を切った。沈黙。
ゆかりは大きく息を吐いた。時間にすれば2、3秒。
体中の酸素を出し切って、息を吸うついでに唇の両端を上げる。
訝しげに覗き込む師匠の目をしっかりと見返した。
「女子供には優しくしろっていうのが、死んだ祖父の遺言なんです」
「…………はあ?」
「今出て行ったりしたら、姫乃ちゃんが気にするでしょう。雪乃さんにだってお世話になりっぱなしなのに、そんな恩をあだで返すようなことできません」
それに、
「師匠がそこまで買ってくれてるとわかれば逃げ出すわけにはいきませんよ」
「……っ、馬鹿、」
「乗りかかった船です。……でも、一般人ではいられなくても、私は案内屋になるつもりはないし暴れることでストレス発散するタイプでもないですから――それは最後の最後の手段に取っておきますよ。まずは迷わず逃げます」
「……当然だ。何も私だって素人に危ない真似させたいわけじゃない」
ゆかりの背後、少し離れたところから大きなため息が聞こえた。成り行きを見守っていてくれたエージだろう。張りつめた空気はゆっくりと溶け、また周囲に音が戻ってくる。
「前から思ってたが、おまえ、ずいぶん姫乃に優しいよな」
言われてゆかりは首をかしげた。
「だって、あの子、めちゃくちゃいい子じゃないですか」
今日は、盆に帰省するための土産を買うのだと勇んでデパートに出かけていった、うたかた荘のお姫様。二人の騎士(ナイト)に守られて、寄り添う母に向日葵のような笑顔を見せて。
「あんな運命背負っていながら、あんなに《普通の女の子》でいられる。尊いことですよ」
その先の言葉は胸の内だけにしまっておく。
「さて、縁のある刃物?でしたっけ」
問われて澪は軽く頷いた。
「残念ながらありますよ、とっときのが」

「だからってこれはないと思います!!!」
「気をそらすな。食われるぞ」
喉が潰れるほど叫ぶゆかりに対し、澪はいかにも冷静だ。
「おまえも地元の人間なら知ってるだろ。ココはここいらじゃちょっと有名な縁結びの神社だ。利益のほどはさだかじゃないが、ともかくそれなりの数の人間が《信じ》て、《願いをか》けているのは間違いない。だからこんなのが産まれる」
鞘に収めたままの刀を、教師の指示棒のようにまっすぐ伸ばして《それ》を指す。
ゆかりの眼前、ほんの数メートルほどのところに立ちはだかるのは、周囲の闇と同化してしまいそうに真っ黒い塊(現在の時刻はおそらく午前0時を少し過ぎたところ)。小山のようにまるく盛り上がった体躯に天狗のような長い鼻、目のあるべき位置は癖の強い毛束(髪?)に覆われておりよく見えない。また、全身から瘴気のごとき黒い気体を絶え間なく立ち上らせているため全身の輪郭ははっきりせず、対象を見定められない焦りにゆかりの全身から汗が噴き出す。肌にまとわりつく夏の夜の湿った空気が彼女の不快感をさらに高める。
行動の頼りになるのは賽銭箱のちょうど真上に取り付けられた小さな電球と、頭上に輝く上弦の月のみ。
「いた!昔読んだムーミンにこういうの出てきた!」
「ふうん。じゃ、大丈夫だな」
「いやいやいやいや何がですか!!」
目はそらさない、そらせない。《食われる》は誇張した物言いだと信じたいけれど、かの化物から発せられる敵意は相当のものだ。
肌を刺すような憎しみ。人語を解しそうな風貌ではとうていないが、ゆかりと澪が己を退治しに来たことくらいは感じ取っているのだろう。
「これが願いの果てってことは、私は乙女の祈りを踏みにじるわけですね、」
「心配するな、祈りの煮凝りだ。ひと思いにやってやれ」
「例えがひどい!」
「だってそうだろう。捧げられるのが清らかな想いだけならこんなものは産まれん」
何がおかしいのか、澪は喉を鳴らして笑った。ゆかりにそんな余裕はない。
「ヒント!!攻略ヒント!!!」
もはや文章を形作るのをあきらめた弟子に、師匠は一層不敵な笑みを向ける。
「もう言った」
同時に《煮凝り》の両脇から風にしなる二本の長い鞭のようなものが放たれた。腕だろうか?
ギリギリのところで辛くも避ける。耳元で空気が裂かれる音がした。勢いを殺さぬまま自身の胴体に戻ったそれは、間髪入れずに転げたゆかりの足元を狙う。今度は駄目だった。右足を取られる。
「……っ」
凄まじい力で引きずられた瞬間、ゆかりは手の中の小刀を思い切りそれに刺した。ぶにゅり、と黒い肉塊に刃が沈む、切り裂くことはできない。だが、《腕》はびくりと跳ね、足首が砕けるかと思われるほどキツい縛めを即座に解いた。
息を大きく弾ませながら、得物を強く握り直す。小学校に上がった年に祖父に譲られたそれは、正真正銘、兵庫の某で生産された《肥後守》。今ではコレクターや登山を趣味とする大人たちの手にしか渡ることのない簡易式折りたたみナイフだ。ゆかりが幼い頃はすでに鉛筆削りが普及していたし、子供に刃物を持たせないようにという風潮が多勢を占めていたはずだが、昔気質の祖父は《自分のことは自分でやる》をモットーに、孫の入学祝いに愛用していた自身のナイフを贈ったのだった。巡り巡ってそれがゆかりの身を護るために使われていると知ったら、天国で泣いて喜ぶことだろう。
さておき、
「煮凝り、か……」
ジリジリと間を詰めようとする化物から慎重に距離を取りながら、ゆかりは頭をフル回転させる。
今の反応を見る限り、どうやら痛覚らしきものはある。しかし弾力のある表皮を貫くことは難しそうだ。それは、ナイフに注ぎ込んだゆかりの剄が足りないということではないだろう。この世ならぬ敵を倒す力になるように、《剄伝導》を施したそれは澪の厳しいチェックを通っている。境内に足を踏み入れる前、彼女はたしかに言ったのだ。《これならイケるだろう》と。
ふたたび我が身を襲う腕をはじく。大きく体全体をのけぞらせるようにした敵の胸元にふと目がいった。全身を覆う瘴気、それが一際濃い部分がある。それは左腕の付け根、やや中心に近い部分。
祈り、か。
ひらめくものがあった。
「澪さん!」
それでも一か八かの勝負に出るにはやや心もとない。振り向かずに腹の底から声を出す。
「恋をしたとき、一番ドキドキするのはどーこだ!!」
「……正解だ」
苦笑混じりの声に、刹那、笑いがこみあげる。どうやら自分は相当ハイになっているらしい。
気を取り直して敵を睨む。三度(みたび)放たれる長い鞭。
今度は動かなかった。
ゆかりの胴は、ぬめるそれに捕らえられる。おそらく今、己はカメレオンの舌に巻き取られたコバエのようなのだろうなと呑気な感慨を抱いた時、彼女の視界は暗転した。

一瞬の出来事だった。
素朴な社と鬱蒼と茂る木々をを背にして思うさま敵意を発散していた化物(あれが恋情の成れの果てだとしたら、澪はもう二度と恋などしたくないと思う)の長い腕がゆかりを捕らえ、急激に縮み、
ぱくり、と。
胴体の半分ほどにまで開いた大きな口が、その先端にかぶりついた。
血よりもあざやかな赤が垣間見えたのは一秒にも満たない。
呆気にとられる澪のことなどてんで気にせず、口を閉じた化物は体全体をふるわせる。
飲み込んだ、らしい。
「ゆかりっ――」
気がついたら駆け出していた。走りながら得物を鞘から引き抜く。大きく振りかぶり、強く踏み込んだその時、化物の動きがピタリと止まった。
次の瞬間、それは先ほどとは比べ物にならない激しさでふるえた、いや、のたうちまわった。
すんでのところで打突を避けた澪の足元に、ボトリと黒い塊が落ちる。
ビクビクと痙攣する化物の、体の一部。
崩壊している。内部から。
顔を上げた澪が見たのは、苦痛に顔を歪めたそれの、胸元からわずかに飛び出している銀色の切っ先。
その鋭い刃先が閃く。化物の胴体は真っ直ぐ縦に切り裂かれて、
光が、弾けた。
それは視界を潰すほど強いものではなかったので、澪はグロテスクな一部始終をすっかり見届けることになった。すなわち、黒いドロドロしたものが飛散し、そこかしこにベチャリと貼り付き、すぐに蒸発するように消えていく様を。
その中心に佇む、やはり同様の汚濁にまみれた女の姿を。
「…………」
「いやあ、ピノキオみたいですね」
「おまえは、」
「また一つ貴重な体験を」
「阿呆か!!!」
怒鳴りつけられたゆかりはきょとんと澪を見る。
その顔は本当に何も分かっていないような表情だったので、
「飲み込まれろと誰が言った!!!」
「え、だって」
手の甲で顔をぬぐいながら、弟子は普段通りに淡々と答えた。その手もまた汚れていることは全く考えていないらしい。
「心臓(ハート)の部分が弱点だったんでしょう?でも皮膚を貫くのが無理、となれば内側から崩すしかないじゃないですか」
「弱点は合ってる、しかし見ただろう?あそこだけは覆われてないんだよ、ガスみたいなのが噴き出す部分だから。だからそこめがけてあいつを突き刺せばそれで終わった」
「……なーんだ、そっかあ」
わずかな間、記憶をたぐるように視線をさまよわせていた彼女は、結局笑う。
「じゃあ汚れ損ですな」
「あのな、おまえな、わかってるのか事の重大さを」
もしもアレが鋭い牙を有していたら、たとえば胃酸のような強力な液体を体内に秘めるものであったら。
「死んでたかもしれないんだぞ」
「うーん、それは困りますね。私、まだ死ぬわけにはいきませんし」
澪の剣幕に、ゆかりは少しだけ真面目な表情になった。
「でもほら、終わりよければ全てよし」
正体不明の体液にまみれた右手をヒラヒラと振る。
濁りきったそれを滴らせながら、不思議と輝く銀の刃(やいば)。
――こいつは。
よほど強いモノに護られているらしい。
「……おまえはもう少し、自分の身を守りながら戦うことを考えろ」
「はあい」
「返事が軽い!!」
「え!?ええと…………頑張ります」
「努力目標かよ……」
額に手を当てうつむいた澪の傍らでくぐもった空気音が響き、すぐにそれは不自然な咳払いになった。
咎める気力はもはやない。無言で歩き出す自分の横に、すぐに追いつく気配がした。
「――水の梵術の基本は治癒・再生」
「へ?」
「ことにおまえの剄はどういうわけか《炎症を抑える》性質が強く出る。それを逆に、つまり攻撃に使うならば現れる結果は《壊死》。土壇場では役に立つ。磨けよ」
「……はい!!!」
もしもこいつが犬だったならば、パタパタと尻尾を振っている場面だろう。ついさっき死にかけたくせに。
口元が歪みそうになるのを澪は懸命に堪えた。そんな彼女を追い越して、弟子は足取りも軽く家路を急ぐ。
その後ろ姿が不意に見えなくなった、気がしたのはほんの一瞬。
見上げれば月が雲間に隠れていた。
いつの間にか空はじっとりと重い灰色の塊に覆われつつある。ふと水の匂いが鼻をかすめた。明日は雨か、と澪は思い、先を行く弟子に追いつくべくスピードを上げた。


(2012.11.05)

モドル