猫のような男だと思った。
単なるイメージだ。
実際のところ、首藤晃一は数十年に渡る生涯の中でその生き物を目にしたことはほとんどなかった。この家に(そしてこの村に)小動物の類はめったに寄り付かない。だから脳裏をよぎるのはあくまでも書物から得た知識――気まぐれで、しなやかで、したたかな。
「いつ見てもすごいお屋敷ですね。門から玄関までの間だけで、もう汗だくですよ」
軽やかに世辞を並べる男の職業は《案内屋》。初対面の時でさえ外さなかったサングラスの奥は今日も見えない。何とも胡散臭いこの男にコンタクトを取ったのは昨年の終わり。この家を覆う暗雲がいっそう重く垂れ込め、もう他に手はないと思いつめていた頃のことだ。
「失礼、いたします」
と、か細い声が障子の向こうに響き、姿を現したのは分家の長男、馨だった。声と同じようにヒョロヒョロとした体躯が晃一の神経を逆撫でする。青白い顔に不似合いな短髪。先だって無理やり刈られた髪の軽さには未だ慣れないようで、その目が上げられることはない。
首藤家一門きっての落ちこぼれ、いわゆる登校拒否児童の彼をこの度の《儀式》に駆り出さねばならないことは、晃一にとってまことに業腹であった(中学校に上がった年はまだ保健室登校が幾日かあった。学年の変わった今年の一学期はとうとう一度も登校しなかった)。が、血筋とその能力から言って覆すことが難しかったのも事実で、せめてもの腹いせに鋭く睨む。また、それは必要なことでもあった。
馨(やはり女のような名前を付けたのがいけなかったのだと晃一はつねづね考えている)は、下を向いているくせに本家当主の苛立ちには気づいたらしい。グラスを持つ手がカタカタと震えている。
ここでそれをひっくり返しなどしたらそれこそ折檻だ。厳しい視線をそらさぬ晃一と心配そうに見守る客の前で、少年はどうにか3つのグラスを並べ終えた。
ふう、とため息をついたのは案内屋。彼の前に置かれたのは大ぶりな切子で色は青、それは隣に控える女性に出されたのと対になっているものだった。一方、晃一の前にあるのはやはり切子の、しかし明らかに他の二つとは違うデザインのもの。とは言え、数少ない来客に使われるだけのそれには汚れも傷もほとんどなく、案内屋たちの前に並べられたものと負けず劣らずの輝きを放っている。
「表は暑かったでしょう。粗茶ですが」
晃一の言葉が終わる前に馨は姿を消した。それでいい。これ以上おかしな振る舞いをされてはたまらない。
「やあどうも、これはまた良いグラスだ。僕の月給分くらいしそうですね」
対する案内屋は切子を目の高さに掲げたかと思うと、
「お言葉に甘えて遠慮なく」
一息に中身を干した。
――飲んだ。
知らずじっとりと汗ばんでいた掌を着物の裾にこすりつけ、晃一も自分のグラスに口をつけた。
爽やかな苦味が口の中に広がる。薄緑色の冷えた液体は乾いた喉にしみとおるようだった。
「ほら、ゆかりちゃんも頂きなさい」
案内屋の言葉に、隣の女性がコクリと頷く。華奢な手がグラスを包むように持ち、こちらも酒でも飲むように一気に仰いだ。向き直った顔は満面の笑みに彩られている。しかし、
――この娘は。
座敷に通された初めから今に至るまで、彼女は一言も言葉を発していない。疑念を込めて案内屋を見れば、彼はす、と立ち上がって晃一の傍らまで来たかと思うと、彼女のことなど目に入っていないような様子で自分の耳に口を寄せた。
「お気を悪くさせてしまったらごめんなさい。発語機能に問題はないようなんですが、ちょっとココが」
男性にしては細い人差し指を己のこめかみに当てる。それをクルクルと回さなかったのはせめてもの配慮だろうか。
「差し障りはないんでしょうな」
こちらも小声で答える。案内屋は大仰に首を振った。
「こちらの言うことはきちんと理解していますし、身体能力も人並みです。アレの遂行くらいは難なくこなせるかと」
「可能性だけでは困るのですが」 かつて息子に《お父様の怒った顔よりおそろしいものはない》と言わしめた記憶を十二分に意識しながら、晃一は眉間に力を込めた。
「すみません、訂正します。彼女はきちんと《役割》をこなせます。そう確信して連れてきました」
一瞬、うなだれるようにした男は、一転、詐欺師のように非の打ち所のない笑みを浮かべる。
「そして何より《化野》です。《湟神》よりもはるかに相応しい。こちらの、」
そこで男は口を閉じる。ここでその先を言ってはいけないことくらい理解しているということだろう。
《こちらの、神様を、騙すには》
共犯者めいた表情を浮かべる男に応えるように口の端を少し上げた。裏腹に腹の底はどんどんと冷えていく。
――騙されるのは、
決して、我らの神ではない。

化野、という名前を耳にしたのはいつのことだったろうか。また、その言葉を教えたのが祖父であったか、父であったか晃一はもう覚えていない。あるいは終生父に仕えたあの老人であったのかもしれぬ。忌まわしい血だ、と、まるでその単語自体が己を汚すかのように頬を歪めたその顔を明瞭(はっきり)と思い出すのはもう不可能になってしまったけれど、それを聞いた自分の裡(うち)に湧き上がった想いは忘れようもない。
――どの口が言うか。
かろうじて嘲笑を浮かべなかったのは僥倖と言えた。だからこそ殴られることも蹴られることもなく、晃一は話の続きを聞けたのだ。すなわち《贄》の候補として、その血筋がどのくらい相応しいものなのかを。その家系がどれほどの業を抱えているのかを。
次代の当主となる己に、それは必要な《教育》だった。
「御前(ごぜん)様」
低い声に我に返る。
室内の明かりと廊下の闇のちょうど狭間に頭(こうべ)を垂れているのは、晃一が生まれた時から影のように付き従っている女――豊(とよ)。乳母の娘であった彼女は幼い頃から自分の一番傍にいた存在だった。けれど、未だに晃一は彼女が何を考え行動しているのか、何を愛し何を忌むのか皆目わからない。興味もなかった。
思えば極端に口数の少ない女だった。
今も、必要以上の空気は消費しまいとでも言うように固く口を閉じている。大きな瞳が晃一を伺い、主君の興味が向けられていることを確認するとやっと小さく息を吸った。
「禊が済みました」
「問題はなかったか」
直截に聞かなかったのは単なる気まぐれだ。豊は小さく頷き、
「ただ……」
珍しく言いよどんで視線をさまよわせた。
「何だ。言え」
「……右脚の腿から膝にかけて、大きな裂傷がありました。事故か、人為的なものかはわかりかねます。歩く際にも不自由はないようでしたが」
あくまでも晃一と目線を合わせないまま淡々とした声で、髪に白いものが混じりはじめた女は言う。
「かの《儀式》におかれましては、せめてものお慈悲を」
「わかった」
豊はハッと息を呑んだ。主君への意見がかようにすんなりと通る場合はほとんど無い。晃一は薄く笑い、
「化野、だからな」
口に出せば不意に謂れのない倦怠感に襲われる。
目を瞑った。
まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。
瞼の裏の闇の中、いつかも聴いたような虫の音が思考を満たし、今がいつなのか、ここがどこなのかわからなくなりそうだけれども。
今宵、《儀式》を終えるまで自分に休息は赦されないのだ。

赤々と燃えさかる松明に照らされた姿を目にして、晃一はしばし絶句した。
白無垢に《よく似た》花嫁衣裳。現在、一般に流布するものとは違う独自のルーツを持つそれに角隠しは含まれてはおらず、だから光沢のある布地よりもなお白い細面と、可憐な唇に注された紅が余計に目を引いた。
化野の娘は伏せていた目を上げ、やはり変わらぬ笑顔を晃一に向ける。
これから何が始まるのか本当にわかっているのだろうか。表情に緊張は欠片もない。
「……では、お願いします。手筈通りに」
押し殺すような声で言い、案内屋は彼女の手をそっと離すとヒラリと身を翻した。
《その時》が来るまで彼は《神域》に入れない。数十年に一度、《儀式》の時だけ使われる建物を中心に四方を鳥居で囲まれたその空間。今、それぞれの鳥居の前には本家の血を最も濃く受け継ぐ4人の少年が立っていたけれど、それはあくまでも形式上のものだ。過疎化の煽りを受け、普段からひっそりと人の気配の少ない村内はいよいよもって静まり返っている。もちろん、《儀式》の夜に外に出る馬鹿はこの村で生きてなどゆけない。
案内屋が向かったのは北の鳥居、そのすぐ近くに建てられた掘立小屋だ。かつて馨の祖父にあたる人物が管理していた薬草庫。端近まで背後の森が迫るそこは気配を隠すのに最適だと、数ヶ月前、下見に訪れた彼は自信たっぷりに言ったのだ。
――そういえば、あの馬鹿は北の護りに付いているのだったか。
あの馬鹿、すなわち首藤馨のことを考えると頭が痛い晃一である。まあ、今回首尾よく事をやってのければ少しは変わりもするだろう。
本当に鈍く痛み出した側頭部を軽く押さえ、晃一は首に提げた呼子笛を握り締めた。いよいよとなればそれで案内屋を呼ぶことになっている。
と、くい、と紋付の袖が引かれた。
視線を向ければ、己を不思議そうに見上げているふたつの瞳。
「……あなたは」
望む答えなど得られないと知っていてなお、問わずにはおれない。そんな眼をしていた。
「《化野》に生まれた身を呪ったことはありませんか」
偽りの花嫁はゆるりと首を傾げる。
「…………すみません、行きましょう」
暗がりにほの白く浮かび上がる小さな顔から無理やり視線を引き剥がし、
晃一は、豊をはじめとする女衆の手で入念に清められた《舞台》へと一歩を踏み出した。
さあ、猿芝居の開演だ。

ギイイ、と、耳障りな音を立てて開いた扉の内側はやはり外よりも一段昏かった。両壁際に沿って立てられた燭台の明かりはいかにも心もとなく、晃一は慎重に足を運ぶ。とは言え、神殿というよりは道場と呼ぶのが相応しい作りのここに歩行の障害となるものは何もない。真夏らしからぬ冷え冷えとした空気が、寄り添う《夫婦》の身を包む。カビ臭い匂いがつんと鼻を刺激する。
《儀式》に先立ち徹底した清掃が行われたはずのこの場所だが、やはり残るものは残るのだろう。それが物理的なものか、そうでないものかは判然としなかった。
――俺の母の恨みも。
積もっているかと思いかけ、晃一は軽く頭を振った。何を言っているのだろう。母は逃れたのではないか。千年に渡る長いながいこの家の歴史の中で、母だけは。
俺を捨てて。
足が止まったのは怒りのためではなかった。
真四角な部屋のちょうど中央。たった一度のあの日のことを体が覚えているとは思いたくなどなかったけれど、まるで透明な壁が己の歩みを止めているようで、晃一は小さく息をついた。
そして、傍らの花嫁を思い切り引き倒した。
頭だけはかばってやった。
「……っ」
何だ、やはり声は出るのではないか。晃一の胸にふつふつと憤りに似たものが湧き上がる。
どうして喋ってくれないのだ。
俺が呪われているからか。
俺が汚れているからか。
写真すら残っていない母と目の前の女が二重写しになる。
「許せよ」
隠し持っていた短刀で、白い衣裳の胸元から裾までを引き裂いた。
まるで茶番だ。
目に映る出来事の一つひとつが夢のように曖昧になっていく。汗が滴る。視界が霞む。
朦朧としはじめた意識の中、それでも刃先が肌に――ことに右脚に触れることのないよう気を配った晃一を、恐怖に見開かれた瞳が無言で責めた。
「大丈夫だ。すぐに済む」
細い手首を床に押し付ける。
「しかしお主も化野。どんな障りかわからぬが、その血で白痴では仕方あるまい、せめて」
ここで命絶えるが幸せというもの――
晃一の言葉が闇に消えたその刹那、
女の眼に光が宿った。
一瞬にして表情が変わる。
瞳が焦点を結ぶだけでかように知性のある顔つきになるものか。呆然と見つめる晃一に未だ組み敷かれた女の、真っ赤な口が耳元まで避けたようだった。
続いて響いたのは耳を聾する哄笑。
今や当主の威厳などすっかり失った晃一は動くことすらできない。
体中の息を使い切る勢いでわらった彼女は、やがてペロリと唇を舐めるとゆっくり口を開いた。
「で?言いたいことはそれだけか、首藤の小倅よ」
妙に古風な言い回しさえも気にならなかった。それほどに晃一の混乱は深かった。
「化野に生まれたことを呪わなかったか、だと?」
ぬらぬらと光る唇の朱が、きわめて光量の少ないこんな場所ではっきり見えるとはどういうことだ。
「貴様化野の何を知っている」
威圧的な眼光。
「……は、」
「何を、知っているかと、聞いている」
「……壊神の傍系だと」
「それだけではあるまい」
「…………その誕生において《ある出来事》があり、呪われる家系となったと」
「持って回った言い方をするな」
「もはや特定はできないと。しかし神殺しか、近親相姦か、人肉食か」
その来歴は秘されている。口にするのは禁忌だと、記憶の中の顔のない男が晃一に説く。
――しかしともかくそれ故に、《化野》の二文字は世間に忌まれるところとなり、
――社会の外れ、境界の向こう側へと追いやられることになったのだ。
――ひとたび彼らと関われば禍が降りかかる。
――穢れが感染(うつ)る。
父とも祖父とも知れぬ男はそこでゴクリと唾を飲み、
――その上、壊神の血筋だ。
そう言った。
壊神――案内屋。生者を護るという大義名分で無数の想いをねじ伏せてきた業の深い者共。
彼らの存在が表舞台に立つことは決してない。正義の味方を気取ってはいても所詮は殺戮者。ことに《壊神》は人の精神(こころ)を操るという言語道断な外法を使うという。
――土地と一族を護るためにやむを得ず贄を捧げる我らなど問題にもならぬ。
歪んだ笑みが幼い晃一の網膜に焼き付き――
ふたたびの高笑いに晃一は現実に引き戻される。金属が擦れるのに似たその音は先程までよりもさらに狂的な響きを帯びていた。
「まあ500年経てば尾ひれもつくか」
囚われの身であるはずの女は笑いすぎて目尻に涙を浮かべている。
「教えてやるよ。――壊神の始祖は男だった。化野の始祖はその妹だ」

まだ壊神と名乗る前の男は隠密、妹は墓守だった。両親については伝わっていない。ともかくいつの頃からか二人は二人になり、生活も、仕事も共にこなしていたのだという。助け合うように、慈しみ合うように。
「墓守と言えば何の害もないようだが、場合によっては《止めを刺す》のが妹の役割だったらしい。実際的な意味でも霊的な意味でも。そう、彼らの標的は生者だけではなかった。それが彼らに重い負担を強いた」
兄が斃し、妹が葬る。生きるためだ。時は戦国、そんな話はざらにあった。
ただし彼らは、少しだけ相手にしたものが悪かった。
ひそかに殺すことを望まれるような人物。闇に隠れるようにして始末しなければならない陰魄。強い怨念が渦巻く場所に身を晒し続ければつづけるほど、二人は二人になっていった。
「さすがに口伝もそこまでは伝えていない。だから想像するしかできない、が」
血に濡れた兄の手を妹がそっとさすったのが始まりだったのか。
後始末の名目で見たくもないものを見ることになった妹の目を、兄が静かに覆ったのがそうだったのか。
いつしか二人は兄妹以上の関係へと堕ちていった。
「やがて隠密という生業から足を洗い、けれど内実はそう変わらない《案内屋》となった壊神は、弟子に術を託した後、若くして死んだ。妹は」
兄の死後、ひっそりと男児を産み育て、ずいぶん長く生きたそうだ。
生涯結婚はせず、また、子の父親についてはけっして語ろうとしなかったと言う。
つまり、
「正解は近親相姦。実によくある話だ」
さばさばと言う女の顔を、晃一は言葉もなく見つめた。
「どうした」
「…………たったそれだけの、」
「ああ。ついでに言えば《壊神》は血縁で繋がるものではないから、もはや傍系とも言えないな」
「化野の術、は」
「とっくに途絶えてる」
「……呪われている、とは」
「残念ながら聞いたことがないな」
「じゃあ、」
「そうでもしなければいられなかったか」
女の瞳がすっと細められた。
「どんな理由があれど、代替わり毎に罪もない人間の血を流す。そんな自分たちよりもさらにひどい者共がいるとでも思わなければ」
三日月のようなその眼に浮かんだのが蔑みでも哀れみでも、晃一は激高していただろう。
「業が深ければ深いほど血筋ほど贄として相応しい。そう教えられたんだろう?それは実際的な理由と言うよりも、自分たちの心を守るためだったのかもしれないな」
けれど、彼女が向けているのは、
「辛かったな」
心からの慈しみとしか思えない柔らかな表情で。
首藤晃一という男の機能は瞬間、全て停止した。
その時、バタンと大きな音を立てて血塗られた神殿の扉が内向きに開き、
入り込んだ強い風によって全ての燭台の灯が、消えた。


(2012.11.26)

モドル