*** 「《活剄・紫(カッケイ・ムラサキ)》なんてのはどうだ」 雨の気配を帯びた夜気の中、ゆかりに追いついた澪は言う。 「カッケイ?って、治癒の」 「そう、おまえのソレ」 振り向いた彼女は、いかにも嫌そうに顔をしかめてゆかりの肩を軽く払った。ぬるりと肌を滑る感触。乙女の祈りの成れの果てはまだ体のあちこちに張り付いている。 「性質を最大限に生かすならやはり攻撃よりは防御、もっと言うなら治療向きだ。ムラサキって花は知ってるか」 「ああ、紫根」 「そう。あれも炎症を抑える」 素っ気なく言い放つ澪の頤(おとがい)を見上げた。 「詳しいですね。澪さん、お花好きなんですか」 「べっ、別にそんなんじゃ、ただ水(バ)の梵術は植物の名を冠するものが多いというだけ――」 「あーはいはい、わかりました。女性らしくて素敵ですね」 「だから違うって言ってんだろ!!」 顔を真っ赤にした澪の隣で、ゆかりはくすくす笑いながら家路を急ぐ。 *** 暗闇の中、ふわりと現れた光の球はちょうど人魂くらいの大きさだった。赤、黄、緑、そして青。派手な色合いは精霊流しの灯篭を思わせる。 まだだ。まだ一人足りない。 固唾を呑んで目を凝らすゆかりを縛めていた重みが、消えた。同時に耳のすぐそばで響いたのは肉と肉のぶつかる嫌な音。 跳ね起き、反射的に胸元を掻き合せかけてはたと止まる。一瞬の逡巡ののち、上衣は潔く脱ぎ捨てた。襦袢の紐を締め直す前に右太ももに手をやった。大丈夫、守り刀は失くしていない。 脚に装着したホルスターを傷に見えるよう術を施したのは白金。 水の結界と地(ア)の精神操作の合わせ技だよと、事もなげに彼は笑ったのだった。 と、鼻をかすめる煙草の匂い。 摩擦音。衝撃音。 殴られ、倒れた当主は床を擦り、壁に当たって止まったらしい。足元が軽く揺れた、と思ったところでゆかりの肩と膝のうしろにあたたかな手が触れた。ほんの数秒の浮遊感。のち、そっと地上に降ろされた自分はどうやら横抱きで移動させられたようだ。 風(カ)の案内屋はこんな時まで気障ったらしい。 状況を忘れて笑み崩れかけたゆかりの掌に冷えた感触、チャプチャプと揺れる水の音に急いでそれを強く握った。 渡されたのはペットボトル、中身はゆかりの血入りの水。 血液を媒介にした剄伝導は、水だけのそれよりもはるかに強力だといつか澪が言っていた。 ゆるく閉められた蓋を手探りで開け、中身を思い切りぶちまける。呻き声を上げる当主、自分、そして青く発光する変身ベルトを装着した《彼》を囲むように、鉄くさい液体で円を描く。 ――守剄・竜宮(シュケイ・リュウグウ)。 言霊を発するのは控えた。 水の結界を張る梵術の中で唯一《目くらまし》の効果も持つこれは、この場に最適なものであると同時に、ゆかりがいっとう最初にマスターしたものでもあった。薄い水の壁はいかにも脆そうだが、この中にいるかぎり外敵に存在を気づかれることはない。おそらくは。 「神様相手じゃわからないけど」 昨晩、らしくもなく真剣な表情で言った白金の横顔を思い出す。 「念のために、ゆかりちゃんは絶対に声出さないで。ミシルシサマは目が見えない」 ソレが生贄を判別する手がかりは《音》か《匂い》。 「だから結界を張ったあとはひたすら静かに決着を待つんだ。大丈夫、俺もついてるから」 じゃあ誰がその神様とやらを倒すのだ、と尋ねたゆかりの真ん丸な瞳がおかしいと、彼はずいぶん長く笑った。 「そんなの俺に決まってる」 頭上に浮かんだ疑問符が感嘆符に変わるまで、さほどの時間は要さなかった。 そして、今。 部屋の中央に陣取っているのはゆかりにとって何より頼もしい味方、白金の分身たちだった。赤、黄、緑、そして金。淡く発光するベルトはヒーローの証だ。 「なっ、なんっ、おまえら、」 ようやく息を吹き返した当主がろれつの回らぬ舌を懸命に動かそうとするのを、ゆかりの傍に控えた白金ブルーがちらりと見、たかと思うと、どこに用意していたのか細い縄とガムテープを取り出してあっという間に拘束した。その手際は見事としか言い様がなく、先ほどまでの所業を差し引いても少しだけかわいそうだな、とゆかりは思う。 容赦ない片結びでその手首を締め上げた案内屋は、彼の太い首に下げられていた呼子笛に手をかけると、一瞬のためらいもなく革紐を引きちぎり、己が仲間の元に投げた。 パシ、と小気味よい音が響く。 都会ではお目にかかれないレベルの暗闇に彼らが臆する様子は全くない。ただし、さすがにサングラスは外していた。約束通り、ゆかりはなるべく顔を見ないように注意する(「目を見られるのは苦手なんだ」)。 一方、二人の足元に転がされた哀れな男は陸に上げられた魚のようにのたうち、結界の外に這い出そうとした。縛られた時は茫然自失としていたが、首元の笛が奪われたと見るやいなや人が変わったように暴れだした彼の腹部、羽織の紐よりやや下のあたりに白金の踵がめり込んだ。喉奥から悲鳴を漏らした男がそれでも抵抗をやめないのを見て、案内屋はわざとらしくため息をつく。 「諦めな。アンタじゃ無理だ」 くぐもった声はドウシテ、ドウシテと言っているように聞こえる。 「脇が甘いんだよ。一服盛られたのはアンタのほうだ」 男の動きがピタリと止まった。 「頭痛、視野狭窄、口唇舌先の麻痺……おかしいとは思わなかった?」 形のいい唇が歪む。嗜虐的な笑みの後ろに隠れているのは燃えるような怒り。 正義の味方はけっして悪を許さない。 「大丈夫、命に関わる毒じゃない。アンタに死なれちゃ困るから……とにかくもうちょっとおとなしくしててよ。今、喚ぶからさ」 言葉尻にかぶせるように、震えるような高音が響く。 寂しげな、それでいて腹の底から不安を呼び覚ますような何とも厭な感じのする音に、ゆかりは知らず肩を抱いた。 ――はじまる。 ほんの数秒で音は止み、 コトリ、と、 堂内の最奥、案内屋が放つ淡い光も届かぬ場所で何かが動いた。 みるみるうちに溢れ出したのはあまりに濃密な気配。周囲の闇よりもなお深い、目に見えそうなほど、手に取れそうなほどの恨みの感情が迸るようにこちらに向かってくる。 カタカタと、コトコトと、 最初は鼠の走り回るくらいだった音が次第次第に大きくなり、 ガタガタと、ゴトゴトと、 ガタンガタンと、ドタンバタンと、 鼠が鬼にまで成長したところでゴロリ、と、真っ黒な塊が床に落ち、 それは瞬時に部屋の中央に向かって、飛んだ。 *** ミシルシサマは盲目の神。その両目は《作成》の過程で潰される。 予習と称して白金が語った内容は典型的な呪法のやり方を忠実に辿るものだったので、ゆかりにとって特に目新しくはなかったが、それでも耳を塞ぎたくなるような内容だった。押し黙ったゆかりを覗き込み、白金は、 「吐かないんだね、ゆかりちゃんは強いね」 と、言った。 ミシルシサマは盲目の神。そして、人工の神。 長野県はI市、つい最近までS村という名で呼ばれていた当地は、かつて強大な神に支配され、人の踏み入れることができない場所だった。はるか昔、1000年以上以前のことだ。 しかし、その周囲の痩せた土地で食うや食わずの生活にあえいでいた人間たちは、当然のごとく常に開墾を望んでいた。神聖な空気もあいまって、豊かな緑の茂るそこがよほど魅力的に見えたのだろうか。 願望はいつか根拠のない確信に変わっていった。 あの森を切り開ければ、あの神さえいなければ、俺たちの暮らしはきっと良くなる―― 子を捨て、老人を見殺しにする必要もなくなるに違いない―― 俺たちは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しめられなければならないのか―― 誰でもいい、誰かあの邪神を退治する者はいないのか―― その男が現れたのは、夏も盛りの頃だったという。 折しも日照りが続き、作物の収穫が絶望的と見られた年だった。 見たことのない妙てけれんな衣裳を着込んだ男は、しかし穏やかな口調で村長に申し出た。 自分はあの神を殺せると。 代わりに、事の成った暁には自分とそれに連なる者たちをここに住まわせて欲しいと。 「彼は神の《作り方》を知っていた」 人間では対抗できない自然神を、塵も残さず喰らい尽くすほどに強力な。 「ざっくり言うと、蠱毒と犬神の掛け合わせ」 年端もいかぬ複数の子供を一室に閉じ込め、最後の一人になるまで殺し合わせる。 その一人を首だけ出して地中に埋め、息絶える直前に首を刎ねる。 残った首をミイラ化し、箱に入れて丁重に祀る。 「呪術には、彼の一族が独自に用意した子供を使ったと言われている。シロという、儀式のために産ませられた子供たち。父娘か、兄妹か……いずれ近親相姦による出産であった可能性が高い」 力には力を。 恨みには恨みを。 憎しみには憎しみを。 土地神は死んだ。そして男を筆頭とする《ある一族》が、村の支配者として君臨した。 なんとなれば、 「神様のいない場所に生き物が住まうのは不可能だ。目に見えないものの力を侮っちゃいけない。……神を失った村人は、新たな神を迎え入れるしかなかった」 男の一族は呪法の他にいくつもの技術を持っていた。結局その一つだった養蚕が土地に根付き、村はそれまでとは比べものにならないくらい豊かに栄えたのだという。 「けど、それも今じゃ廃れた。まあよかったのかもしれないね、またあそこは禁足地に戻るわけだから」 *** まるでフットボールの試合のようだ。ただし、球が独自の意志で動くというところが異なっている。 縦横無尽に飛び回る御首(みしるし)は贄が見つからないことに憤り、歯をむきだして邪魔者を狙う。鼓膜が破れそうな風切り音。ただただ濁るエネルギーの塊に、見ているだけで魂が汚染されそうだ。 それでも優勢なのは白金だった。 《今叩かなきゃどうしようもない》――それはすなわち《これ以上の犠牲を出すわけにはいかない》という意味だとゆかりは解釈していたが、もう一つ、実際的な理由もあったようだ。 贄を欲するのは弱まった力を回復させるため。 そんな状態を狙うのでもなければ叶わない、 これはれっきとした神殺しなのだろう。 と、一際鋭く風が鳴った。 部屋の隅に追い詰められたかに見えた白金は、すんでのところで攻撃を避け、 相対していた首だけの神が逆に追い込まれる形となった。 大きく息を弾ませながらも4人の案内屋が神を囲む。 ――終わりだ、 「御前様!!!」 転がるように堂内に走り込んだ人影は、ゆかりよりも小柄だった。 《彼女》以外の全員が凍りついたように動きを止める中、闖入者は忙しなく首を動かし、 その瞳は一点で止まる。 《女》の声を感知した神は、干からびた真っ黒な口を一杯に開け、 炭のような歯がいかにも嬉しげにガチガチと打ち鳴らされた。 ようやく自分の置かれた状況を把握したらしい女性は、こぼれんばかりに目を見開き、 「こっちだ!!!!」 悲鳴のような声が上がったほうをつと向いた。 みずから水の壁を破ったゆかりは、挑発的に襦袢の袖をはためかせ、 「貴重な生贄、間違えんじゃないよ……神様!!」 精一杯の声で吠えた。 ミシルシサマは盲目の神。呼び覚ますのは笛の音。贄が纏うのは継がれた衣裳。 ならばおそらく着物にも仕掛けはあるはずだ。血の匂いか白粉のそれか、もっと他のものかはわからないけれど。 はたして一直線にこちらに飛んだミイラを、その瞬間まで直視することはできない。 顔の前で交差した右手、そこに握った守り刀がかろうじて神を弾く。 逃れた、と思ったのは早計だった。 鮮血が散る。 鋭い犬歯が深々と食い込んでいるのはゆかりの右脚。 弾かれ、壁に激突した神はその勢いのまま二度目の攻撃を試み、それはたしかに成功したのだ。 痛みを通り越した、それは熱。 ――ガ、 霞む意識を覆うのは、 いつか別れた人でなく、 ほんの一日前、涙を溜めて走り去った長身の男(ひと)。 ――だめ、だ、 こんなところでくたばるわけには、 Mr.ガラスのハートをそのままに、何も言わずに残していくわけには、 ――いかない。 白く光るような感覚に気が遠くなりかけながらもゆかりは得物を握り直し、 「活剄――ムラサキ、」 銀の刃を楔のように、その額へと打ち込んだ。 治癒の術を選んだのは、一か八かの賭けだった。 息を忘れるほどの長い刹那。 「ゆかりちゃ、」 ホロリ、と、 悪心を集めて固めたような、黒い表皮が剥がれ落ちた。 小指の先ほどの大きさで、終わりかけの桜の花弁のように、あるいは溢れる涙のように、 あとからあとから散りゆくそれは、地に着く前に大気に溶けた。 「白金さん、」 もはや吐息のような囁き声で、ゆかりは必死に案内屋を呼ぶ。 「私が、」 おさえているから、はやく。 応える代わりに白金は跳んだ。 色白の手がきっかり5つ、崩れはじめた神に触れる。 「剄(ケイ)」 殊に梵術の修行において、アイツはオールマイティの優等生だったと――ゆかりの師匠が悔しげに呟いたのはいつのことだったか。 「櫻(オウ)」 霊との肉弾戦において最も有効に機能するのは、発剄。 それを扱うのは空(キャ)の領分であり、けっして彼の属する風ではない。 だが彼はいつでも平然と、その場に必要な技を使いこなす。 その陰にある努力を日の本にさらすことはこれまでもこれからもないのだろう。 目もくらむような光が白金の手元から放たれ、朽ちた皮のすみずみまでを蹂躙する。 ボコリ、と瘤のような膨らみが神の口元に現れ、それはたちまち増殖した。 加速度的に進む崩壊から、ゆかりは目をそらすことができない。 火脹れのようなそれは弾け、弾け、弾け、 ――白。 その下から玉のようにすべらかな肌が、 ――そんなはずは。 青みがかったまるい瞳が、 ――ああ、これは幻だ。 いくら治癒の術を使ったからとて、死者が蘇るなどありえない。 ――でも、そう、あなたが、 それは現世(うつしょ)にありながら幽世(かくりょ)を垣間見る、 ――…………ごめんね。 そんな生業に身を置く者だからこそ見えた錯覚なのだろう。 それでもよかった。 右手を柄からそっと離し、柔らかな頬に触れた。 いまや呪いから解放され、 カミでなくなったソレは原初の姿を束の間晒す。 花のように赤い唇がひらいた。 「マ」 そして長きに渡り人間を苦しめ続けた《神》は、一掴みの砂塵に帰した。 (2012.12.03) モドル |