***

「もう、大丈夫です」
傷口にかざされた白金の手をそっと押しやり、ゆかりは小さく頷いてみせる。
今は元通り一人に戻った案内屋はそれでも気づかわしげにゆかりの瞳を覗き込むので、しっかりと見返したのちにその背後に視線を飛ばした。それで十分言わんとするところは伝わったらしい。
結局、乱れた髪をさらにくしゃくしゃにしながら不承不承立ち上がった彼に、ゆかりは薄く微笑んだ。
それでいい。この程度の負傷など織り込み済みだ。
彼にはまだやってもらわなければならないことがある。
かろうじて流血の止まった脚を押さえながら、ゆかりは傍らで動こうとしない男女を気にした。
事前に聞いていた年齢よりもはるかに老けて見える《当主》――首藤晃一と、女だてらにその腹心たる織部豊(おりべ・とよ)。
彼らは今度の《儀式》の実質的な首謀者だ。神を退治するのだと持ちかけて、その実、縁もゆかりもない若い娘を案内屋もろとも葬り去ろうと画策していた人非人――
には、とても見えない今の二人だった。
晃一はただ、ゆかりの足元に降り積もった神の残骸を凝視している。豊はそんな主を見るに耐えない様子で、俯いて唇を噛んでいた。灯され直した蝋燭の、揺れる火影がちろちろと二人の顔を照らしている。
と、
「いつまでそうしているつもりですか」
苛立ちの混じった声に晃一がゆるりと首を上げた。
「あんた、いつから」
これまでとは比べものにならないくらい弱々しい声。その様はまるで玉手箱を開けてしまった浦島太郎のようだったが、対する案内屋は憐憫の情などかけらも見せない。
「1月です」
「はじめてこちらに来たときか……じゃあ、あの時馨を」
「逆ですよ。教えてくれたのは馨君です」
身内の名前を聞いた途端、死人のようなその瞳にさっと色が射す。
「あの餓鬼、……っ」
続ける言葉をさえ失い、ただ怒りに体を震わせる晃一に白金は軽く肩をすくめた。
「一族のお荷物に目をかけてやったのは誰だと……!!」
「あなたは彼を見くびりすぎだ。実際のところあの子は頭がいいし、勇気もある」
「知ったふうな口を聞くな!!」
「たとえば彼を正当に評価するだけの度量があなたにあれば、もっと早くにこの因縁は絶たれていたでしょうね」
「貴様、俺が、どれほど、」
勢い込んでむせた男の背中を豊が必死にさする。その細い手すら払いのけ、晃一は固めた拳で床を殴った。こみ上げる感情をぶつけるように不規則なリズムで、強く、つよく。やがて厚い手の皮が破れ、そこから血が噴出しても彼はそれをやめようとしない。
「これも全てあの女が……あいつのせいで……っ」
「……お母さんのことをそんなふうに言っちゃ」
「誰が母か!!」
はじめて手を止め、憤然と白金を睨む瞳はただ憎しみに染まっている。
「この家に嫁ぎながらただ一人、家の糧となることのなかった女など……父を捨て、俺を捨て、あげく義弟と駆け落ちした売女など、母であるものか!!!」
「それは違います!!!」
ややうわずった声は、それでも怒れる当主の口を塞ぐのに十分な、凛とした響きを持っていた。
案内屋ではない。ゆかりでもない。もちろん、晃一の隣で彼と同じように硬直している側近の女でもなかった。
それは男の声。若くもなく、年寄りでもない、そう、年の頃で言えばおそらく晃一と同じくらいの――
「……っ、すみません、プラチナさん」
「いえ、大丈夫です、そろそろ呼ぼうと思っていたところですので。さすが馨君、しっかり任務遂行してくれたね」
開け放たれたままの扉の真下、躊躇なく境界を踏みしめる短髪の少年は紅潮した頬のまま目を伏せた。全身が汗でびっしょり濡れている。手には大きな懐中電灯を握っていたが、膝も肘も泥ですっかり汚れていた。険しい山道を駆け下り、また上ってきたのだから無理もあるまい。この暗闇の中で。
「って、え、あ」
少年の隣、淡い光に浮かび上がった背の高い人物を見てゆかりは思わず声を上げた。
伸びた髭がなければ30代でも通る、しかし身に纏う独特な空気からは何とも年齢が計りがたいその男性。驚いたのは彼の方でも同じだったようで、
「あ、あなた、」
絵の具にまみれたTシャツでなく、今はこざっぱりとしたシャツにスラックスを合わせている男性は目を丸くして息を飲んだ(しかしそれも至る所に木屑や葉のようなものが付着しており、道行きの困難さを伺わせた)。
時間的にはほんの一日前、しかしもうそれから何十年も経ったようにすら思われる西咲良山駅前でのみじかい会話。笑顔で旅の無事を祈ってくれた画家とまさかこんなところであいまみえようとは思わなかった。パクパクと口を開け閉めするゆかりの姿は白金にとっても意外だったようだ。
「あら、お知り合いだった」
「や、その」
「いえ、何というか……あなたその傷は、」
「や、大丈夫です、大丈夫ですから」
「だ、大丈夫にはとても見えません、」
ひとしきりの応酬ののちにゆかりが置いてけぼりの二人を示すと、白金はああ、と答え、長い腕を恭しく伸ばして男性を指した。
「ご紹介しましょう。馨君がこんな真夜中、道なき道を突き進んで連れてきてくださったお客様――首藤信二さん。40年前、時の当主の妻でありながらこの家を脱した首藤春さんとその義弟、猛(たける)さんのお子さんです。――そう、晃一さんとは父親違いの兄弟になりますね」
立て続けに衝撃的な事実を聞かされ、哀れな当主はふたたび絶句した。

動いたのは女のほう。
「……よくもおめおめと!!」
振り上げた腕を掴んだのは白金。
「違う、豊さん、違うんだ」
「何が!!!」
「《駆け落ち》は誠一さんの意志だった」
急速に萎んだ体を案内屋が支える。
「ご隠居……様が……?」
「そう」
「どうして、そんな……」
「あなたも女性ならわかるでしょう」
挑発的とも取れる言葉に、豊はただ目を見開いて応えた。
「そう、その通り。……だけど男ってのは言葉にされないとわからない生き物だから……お願いできますか、信二さん」
未だ入口に立ち尽くしていた画家は大きく頷き、膝を折って《兄》の顔を正面から見据えた。
「初めまして、お兄さん。……あなたの、弟です」
切れ長の瞳が切なげに歪む。
「物心ついたときから不思議に思っていました。なぜ家には僕しか子供がいないのに、名前に2という数字がついているのか。暇さえあればぼんやりと外を眺める母が、本当は何を見ていたのか」
なめらかに紡がれる言葉が急速に時間を巻き戻す。
「僕の覚えているかぎり、家の中で父が声を荒げたことはありません。お酒はほんの嗜む程度、煙草も賭け事もやらない父は何て不似合いな名前を持って生まれたんだろうと言った僕に、母はただ黙って笑っていました。……母がトラックに跳ねられて亡くなったのは僕が10歳になる直前でした」
瞬間、晃一の肩が揺れた。
労わるように数秒、沈黙を保ち、けれど信二は容赦なく口を開く。みずから傷口をひろげようとするような、苦しげな表情のままに。
「父が亡くなったのは昨年の終わりです。肝臓癌でした。最後の一週間はほとんど意識がなくて、……その合間合間に、はじめて語ってくれたのが自分たちの来歴」
田舎も親戚も持たない一組の夫婦が、何を考えこの場所に至ったのか、ということ。
「正確な場所も村の名前もとうとう教えてはもらえませんでした。ただ《ここより西の山奥だ》と……言えなかったのかもしれません。戻れば命がない、と、いまわのきわにそんなことを言うんですから。……よっぽど恐ろしかったんでしょう。それこそ最期のさいご、もう後がないという時でないと口に出すことすら叶わなかったほどに」
泣き笑いのような表情を浮かべた《弟》を、《兄》は化物でも見るような目で見つめている。
「その《山奥》――この土地で暮らしていた頃の父は手の付けられない悪餓鬼だったと聞いても、僕はにわかには信じられませんでした。未成年ながら酒を飲み、煙草を呑み、賭け事に興じて女を買う――僕の知る父とは正反対です」
そんな血を受け継いだとは到底思えない、静かな口調で画家は続ける。
「そんな父が唯一心を開いたのは、いつの日も自分に変わらぬ態度を崩さない実兄と、夫を心から慕い、自分にも分け隔てなく接してくれる義姉の二人だったと、話してくれた時のことを僕は忘れられません。焦点の合わない瞳を少年のように輝かせた、あの父の顔」
それは誰も知らない小さな思い出。
「始終家を開けていた父が、一族の意向で兄に縁付けられた母に会ったのは結婚式の日だったそうです。早咲きの山桜が満開で、夢のように美しい日だったと」

***

水色の空に白い花弁が舞う。
早春の風は強い。火照った顔を冷やすように猛は縁側からぐいと身を乗り出した。
「みーつけた」
と、頬に当たる柔らかな感触。すべらかな掌は猛のそれよりも少しだけ冷たかった。
「ね、ねえさん!?」
「猛君がいないから誠一さんがご立腹よ」
「だからって、花嫁が」
「もうみんな酔っ払っちゃって、何がなんだかわかってないわよ」
朗らかに笑う義姉はいつの間にか角隠しを外している。儚げな見た目のわりにしたたかな女性(ひと)だ、と猛は思い、それは瞬時に苦味を残して彼の心から蒸発する。
「もうちょっとしたら戻ります」
「じゃあ、私も一緒に戻ります」
「何で!!?」
「誠一さんが言ったの、猛君を探してきてくれって」
甘く下がる目尻を惜しげもなく晒すその姿は、どこから見ても幸福な花嫁そのものだ。
「……ねえさんは」
家と家との契約なのに、
ずいぶん兄さんのことが好きなんですね。
飲み込んだ言葉を年上の女性は瞬時に察したようだ。
「誠一さんは素敵な人よ」
そんなことはわかっている。それこそ見合いの日から数えるほどしか顔を合わせていないであろう彼女よりも、自分の方がよっぽど。
けれどその言葉に、胸のどこかがコトリと動いた。
「…………怖くはないんですか」
義姉は不思議そうに首を傾げた。
「なにが?」
「あの、……アザ」
兄は生まれつき、左の頬から額にかけて大きな痣を持っている。
濃い藍色に変色した顔面は兄の優しさや落ち着きという美点を残らず覆い隠し、なお飽き足らずに彼を忌避の対象とした。
兄を忌まない人間など、この村にはいない。
家系の罪も支配の鬱憤も、すべてがその外見に帰した。
――あれは祟りじゃ。
――首藤の家にころされた女どもの恨みじゃ。
自分たちもその恩恵を受けているくせに。
心ない悪口を耳にするたび嵐のように暴れる弟をなだめたのは、他ならぬ兄だった。
――ごめんね、猛。
――僕のせいでこんな怪我をして、ごめんね。
そう言って傷に薬を塗る兄は、しかし決して礼を口にしようとはしなかった。
堪えるように歯を食いしばった小さな横顔と、触れられるたびにはしる激痛、鼻が曲がりそうな薬草の匂いは猛の記憶の中でワンセットになっている。自分には何もできないのだ、という絶望感も。
猛の母は後妻で、けれどそれは首藤の家には必要のない存在だ。《贄にもなれぬ無駄飯喰らい》――その息子である猛も当然、いらない子供。そんな自分に優しくしてくれたのは腹違いの兄だけだったから、猛はアザなど怖くもなんともなかった。
兄と一緒にいたかった。兄の役に立ちたかった。
けれども実際は、自分は兄に護られるばかりで。
「アザ……」
悔しさはやがて渇望に変わった。
たった一人でかまわない。
兄を護ってくれる人がこの先あらわれますように。
兄を怖がらない賢い人が、兄の隣にいてくれますように。
この村に神社はなかったから、いつの間にか猛は空に向かって祈るようになった。いてもいなくても同じ子供の奇行は決して咎められることはなかった(余談だが、だから猛がミシルシサマを死ねばいいと思っていることも最後までばれなかった)。
そして、今。
今日この日よりあねと呼ぶことになったその人は、傾げた首を一旦は元に戻し、しかしわずかな沈黙の後、重そうに結われた髪ごとカクンと逆方向に思い切り倒した。
「……が、何?」
瞬きもせず自分を見返す瞳に、嘘もごまかしも一切ない。
「…………はははははは!!」
体をくの字に折り曲げて、吐き出す息を音に変えて、
けっして気づかれないように涙を拭う。
その指をすぐに折り曲げて、
いつか、博識な兄がこっそり見せてくれた浮世絵のナントカという役者のように口角を上げた。
「ねえさん、ありがとう」
猛はそこで、生まれてはじめて意志を持って笑顔を作った。
たとえ束の間のあいだでも、それを終わらせるのが自分たちだとしても、
彼女はその瞬間まで何一つ真実を知らされないのだとしても、
「ありがとう」
この想いはきっと変わらない。
「ねえさんが兄さんのお嫁さんで、本当によかった」

***

「産み月は9月だ」
「9月、」
それを喜んでいいのか悲しんでいいのか猛にはわからない。
《儀式》が行われるのは8月と決まっていた、それは決して覆せない決まりだった。だから義姉にはおよそ12ヶ月の猶予が与えられることになる。
しかし、それが、何だ?
「本当に良かった」
兄は常になく口元を緩ませている。普段、感情を表に出さない兄のそのような変化は、猛にとって喜ぶべきものであるはずだった。
しかし今はただ、その笑顔が――
「一年もあれば十分だろう」
「……何、が、」
「猛」
不意にあらたまった声に、猛は思わず握った拳を隠した。
「頼みがある」
「……な、に」
きっと彼の心の揺れなど、聡明な兄はすっかりお見通しなのだろう。
誠一はそっと息をつくと、
眉間に軽く皺を寄せながら唇はたおやかに笑みを作った。
兄弟としていつでも傍らにあり続けて十数年、それは猛が見たことのない表情。そもそも《欲しがる》ということのない兄は、まして自分より弱い弟に何かを求めることなど決してなかったのだ――
「春と恋仲になってくれ」
それは彼の妻の名前。
今や一家の主として、村をまとめる長としての貫禄を着実に身に付けつつある兄は、独り身だった去年の冬よりも一回り太くなった胴体を折り曲げて猛につむじを晒した。
泣く子も黙る首藤の当主が、
一族の、いや、村中の爪弾きに、土下座をしている。
放心する猛の耳に一層信じがたい言の葉が届いた。
「そして、次の盆が来る前に春を連れて逃げてくれ」

***

「御前様はどういうおつもりなのかしら」
密やかな囁きは、
「お子が生まれればたしかにアレは用無しも同然ですが、けれど一番大事な《お役目》がまだこの先に控えているのに」
主に屋敷の裏手、使用人たちの溜まり場で交わされた。
「しっ!それは、」
「あら、いいでしょう?どのみちアレは離れから出ることは叶いません」
三日月のような唇は、楽しげにソレの不幸をさえずった。
「そう言って、先だっても気づけば晃一様のお部屋まで至っていたではありませんか」
「乳母が見つけなければどうなっていたか」
「ですからあれから何日も、御前様は離れに通いきりだったでしょう――《罰》のために」
あの女、一体どれほどの仕置きを受けたのでしょうね。
話題の的とそう年の変わらない飯炊き女が嬉しげに言えば入りたての若い女中は口に手を当て、
「でも何だって、こんな恐ろしい仕打ち」
わざとらしく身を震わせた。飯炊き女の目が輝く。
「あら、知ってるでしょう」
「それはでも、噂ですから」
「あの男ならやりかねないわ」
「そう、昼間からぶらぶらしているだけのやくざ者ですもの」
口を挟んだのはやはり女中。口調こそ上品ぶっているが、頬には醜い笑みが浮かんでいる。
「ねえ、聞いた?晃一さまの種も、実は――」
聞くに耐えない雑言にこれ以上耳が汚される前に、猛はついと身を翻した。
吐き気がする。
手近にあった薪の束に手を出しかけ、すんでのところで留まった。
こんなところで騒ぎを起こしてはいけない。彼女のところに行けなくなってしまう。
彼女を、助け出すことができなくなってしまう。
目を閉じた。
瞼の裏に、ただあの日の景色を浮かべる。
風にはためいていた白い袖。艶やかな黒髪。やや垂れ気味の目元はほんのり朱く、
隣に立つ兄は自分が見たどの時よりも幸せそうで。
「……たけるくん?」
かすかな声を、今の猛は聞き逃すはずもない。
「春さん」
鉄格子の向こうで、ずいぶん痩せた兄嫁は痛々しい笑みを見せる。
「きょうも、きてくれたのね」
「約束、したでしょう」
猛の言葉に春は声を詰まらせた。
「春さん、」
伸べた手にすがりつく指は死者のように冷たい。
「はるさん、」
それを見る己の心は火のように熱く、
「もういいでしょう」
降り注ぐ陽光は燦々と強い。
「こんな家、捨ててしまおう」
たとえ兄の言葉に従っただけの結果だとしても、
「俺と一緒に逃げてください。――次の、新月の夜に」
「…………え?」
その表情が静かに胸を抉るのを感じて、猛はひそかに安堵の息をつく。
大丈夫だ。
俺は、この女性(ひと)を、
愛している。
「兄のことなんて忘れてください」
爽やかな5月の風が耳元をかすめた。
「あんな、ひとでなしのことなんて」

***

「…………そんな、」
「春がみずから家を出るのでないと意味がない。だが贄のことを教えるわけにはいかない」
兄はあくまで穏やかな口調を崩さず、
「自分が逃げれば代わりが来ると、知れば必ず儀式に臨む。あれはそういう女だ」
生まれてこの方、崇拝に近い従順を捧げていた弟はそれに抗うすべを持たない。
「だからって、そんな、あんまりだ!!!どうして兄さんが、ねえさんを」
あの麗らかな佳き日からまだ一年も経っていなかったが、兄と義姉のおしどり夫婦ぶりは村の年寄り連中の口汚い悪口を残らず黙らせるほどだった。
たとえ期限付きの幸福でも、
「だってこんなに、あ――」
猛のささやかな抵抗はあっさり封じられた。
労働をしない兄の指はその暮らしぶりに似つかわしくなく節くれだっている。
それすらも《呪い》のせいにする村人が、家の者が、猛は昔から大嫌いだった。
「だからこそだ」
燃える想いをにじませて、兄の声はほんの少し震えた。
その胸の内は生涯わからないだろう、と、
猛ははじめてそんなことを思う。
家を束ねる責任。伴侶と決めた女性を手にかけなければならない義務。
どれもこれも、次男の自分には与えられなかったもの。
代わりに自分は、この狭い世界のどこにも居場所を見つけられなかったのだけれども。
果たしてどちらが、
幸せなのか。
「…………わかった」
目を見ないままの首肯に、空気がほっと緩んだのがわかった。
「猛、」
続く言葉は予想がついたから、猛は耳を塞ごうとさえ思ったのだ。
「ありがとう」
その五文字は、猛が耳にしたいと焦がれていたものだったから、
こんなことなら永遠に聞かなくて済むほうがずっと、ずっと、ずっとマシだった。



(2012.12.10)

モドル