*** 「仰々しく話し出すから何かと思えば」 震える吐息に炎が揺れた。 物語は未だ半ば。しかし語り部のわずかな休息のあわいを縫うように、男は皮肉げに口を開く。 「とどのつまり、俺が捨てられたことに変わりはないわけか」 「ちが、」 「何が違う」 ギラギラと光る眼はただ虚空を見つめている。 「結局、あの女は逃げたのではないか!!」 吐き捨てた言葉は壁に当たって反響し、寂しく明滅して消えた。 「……違うんです」 兄の逆鱗に触れた弟は、にも関わらず一層の静けさと切なさを持っておのが声を場に放つ。 己のみが知り得た真実を、ただ淡々と解き放つ。 「母は今でもお兄さんを迎えに行けずにいます」 「何……!?」 「《見えて》いるのは僕だけですが」 深くふかく目尻を下げ、唇を歪めて画家は笑った。 「父と母があの家を後にしたとき、そこにはちゃんとお兄さんがいたんです」 「な、」 「父は反対したそうです。乳飲み子を抱えての逃避行ではリスクが高すぎる。まして母は出産後すぐにお兄さんから引き離されていました。赤子の世話などほとんど経験がなかった」 それでも、 「お兄さんを置いて自分だけ行けるわけがないと獣のように暴れた母をなだめ、とうとう父は折れたそうです。――それすらも《彼ら》にとっては予想の範囲内でした」 大切な一人の女性を護りたいと願う、二人の男。 いや、男のうちの一人はもう一人に引きずられたのだったか。今となっては知りようのないことだ。 「梅雨を間近に控えた初夏のある夜、まだ若い二人は手に手を取って逃げ出しました。男は右手に護身用の短刀を携え、女は左手にすやすや眠る赤子を抱えて」 それは月の見えない夜。 「今にも雨が降りだしそうな、じっとりと空気の重い夜だったそうです。いっそ雨になればいいのにと、父は思ったと言いました。自分たちの罪も、これから起きる悲劇も、全部洗い流されればいいのにと」 *** ヒュッ、ヒュッと、背後で鳴る不穏な音は容認できる範囲をはるかに越えていた。 振り向けば青ざめた女の顔。猛はやむを得ず足を止める。 「ちょっと休もう」 「……、……」 「いいよ、大丈夫」 乱暴な口調になってしまう己を恥じた、けれど謝ることはできなかった。それは春のせいではない。 それでも彼女は消え入りそうな様子を見せるので、猛はどうすることもできずただ荒っぽく彼女を抱き寄せた。 二、三度軽く背中を叩けば目に見えて女は安定する。そこでようやく息をついた。 少し前に乳をやったばかりの赤ん坊はまだ目を覚まさない。 腕の中で寄り添う二つの命。あたたかなその温度を直接に感じながら、そっと木立を仰ぐ。 空は見えなかった。視界を覆うのは目が潰れるような黒。 闇にも色の深さがある、と山育ちの猛は肌で知っている。このあたりは特に濃い。なんとなればここが、自分たちの小さな村を擁する山の最も奥に当たる部分だからだ。 ここを抜ければあとはひたすら光の差す場所を目指せばいい。 だから、これが、最後の―― ガサリと藪がかき分けられ、春が体を強ばらせた。 反射的に強く抱きかかえた自分の反応は上出来だったと猛は思う。 「お方様。――猛様」 追っ手が一人のはずがないと気づく余裕は彼女になく、 「こんなところまで、よくもまあ」 憐れむように目を細めた男性は、けっして猛のほうを見ない。 サスケ、と呼んでいた彼の苗字を長らく猛は知らなかった。親子ほども年の離れたその人を呼び捨てにするのが許されていたのは、猛が本家の人間だったから。 気づいたときには傍にいた。黒だか茶だかわからぬ地味な色合いの着物を纏い、いつもひっそりと微笑んで、猛がどんないたずらをしても「いけませんよ」の一言だけでけっして怒ることのなかった男。 彼が本当は自分ではなく、未来の当主たる兄のしもべであると知ったのはいつのことだったろうか。 その前提に立ち、あらためて彼の行動を観察すれば何もかもが腑に落ちた。いつだってその最優先は兄の誠一で、彼が自分に甘いのはひとえに主の意向に従った結果なのであった。 此度の《秘密》を知るのも、だからこの三人きり。 男性――織部佐助はかつてと寸分違わぬひそやかな笑みで逃亡者たちと相対する。 相も変わらぬ黒づくめ。すらりとした長身を、猛は今以て見下ろすことが叶わない。 寝ているのか起きているのか判然としない細い眼が薄く開き、 骨ばった手に握られた刃(やいば)がカチャリと音を立てた。 「晃一様をお渡しください」 「嫌っ……!!」 悲鳴のような声に赤ん坊が身じろいだ。慌てて覗き込む春の顔は一瞬で母親のそれになる。 幸い、眠りから醒める気配のない《晃一様》に佐助は一瞥をくれたようだった。何を思ったのかはわからなかった。 「お渡しくださりさえすれば、お命だけは見逃して差し上げます」 何も知らない女は息を飲んだ。 「御前様はおっしゃいました。義弟と通じるような犬畜生、首藤の家には必要ない。その血を継ぐ子とは業腹だが、しかしせっかく生まれた長子を失うのも惜しい。……大人しく渡せば後はどこへなりとも行くが良い、死のうが生きようが知ったことではない。もちろん己の名にかけて《月宮》にも追わせはせぬ、と」 春は二度、言葉を失う。 それは彼女の生家の名。 首藤の贄に相応しいと選ばれた、闇の世界では指折りの《業の深い》一族の名。 「しかし抵抗するようならば斬って捨てよと。その際に赤子にも累が及ぶようならそれは致し方ない、結果については咎め立てせぬ、と」 *** 「つきみや?」 「……ゆかりちゃん?」 「……それは、どういう……家、の」 「……本家は京都の某と聞きました。何でも《厄を負う》――他人に降りかかる災いを肩代わりする霊能力を生計(たづき)のよすがとしてきた一族だとか。苗字の月の字は、本来憑き物のそれであるとか、あとは……」 「……そうですか。いえ、話の腰を折ってすみません」 「ゆかりちゃん、」 「どうか、続きを」 困惑を浮かべながらも、画家は食い入るように己を見つめる兄のためにふたたび重い口を開く。 *** 降り出した雨は瞬く間に強さを増し、今や剥き出しの肌は鞭で打たれるよりも激しい痛みに晒されていた。 猛は細い手を引いて走る。彼の左手に繋がれた女はしかし、もう何も抱えてはいない。 ちらりと振り返って見た春の顔は虚ろだった。ここで自分が手を離したら、きっとその場で蹲って二度と動きはしないだろう。 そう思ったからなおのこと強くその手を握った。 ――サスケは屋敷に帰り着いただろうか。 ――この雨が降り出す前に、きちんと屋根のあるところにたどり着けただろうか。 ――晃一はもう泣き止んでいるだろうか。 立て続けに疑問形を浮かべるのは、そうでなければただ一つの単語が頭を埋め尽くして気が狂ってしまいそうだったからだ。 ――ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、 非情な運命から救い出せなかった甥子へ、 きっと最後まで真実を告げてやれないであろう義姉へ、 そして、 愛する者を自分ごときに託すよりほかの道を選べなかった、 大切な、たいせつな、 兄へ。 けっして受け入れられないのはわかっていながら、けれど溢れ出すそれを猛は止めることができない。 ――××××、 喉の奥で燻る祈りは唇に乗せることすら叶わず、口の中が焼けるようだった。 あるいは目の前が霞むのは、土砂降りの雨のせいでなくそれが瞳の表面から蒸発するせいなのかもしれない。 ――さよなら。 唐突に脳裏をよぎった別れの言葉はその中の誰に向けたものであったか。 それとも、長いようで短かった己の少年時代への手向けだったのか。 *** 光る雫が軌跡を描き、磨き上げられた床に落ちる。 ポロポロと涙をこぼすのはしかし、《捨てられた》子供ではなくその従者だった。 「……なぜ、おまえが泣く」 「ご隠居、様は」 大きくしゃくりあげながらも、かすれた声で言葉を紡ぐさまは童女のよう。 「私、にも……まだほんの子供だった私にも、頭をお下げになりました」 ひたと主を見つめる女に自然と視線が集まった。 「晃一様のお側にずっといてくれ、と、私だけは何があっても晃一様のお味方であるように、と……幼い私はご隠居様のお顔がやっぱり怖くて、だから急いで頷いたのだけれど、そうしたら途端に仏様のように柔らかく微笑まれて」 恐ろしい容姿に美しい精神(こころ)。寓話そのもののような男の姿を胸に浮かべて、ゆかりは続く言葉を待つ。 「《ありがとう》と」 「……そん、な」 弟によく似た切れ長の瞳を歪め、兄は声を絞り出す。 「そんなことで、贖罪の、つもり」 「晃一様」 枯れ木のごとき細い腕が厚い背中に回された。抱えるように。支えるように。 そのまま滂沱の涙を流す女の前で、泣き出しそこねた男は途方に暮れ、 けれど呆然とした顔のまま、ゆっくりと華奢な背中に手を添えた。 「……気づいたのは、母の初七日が済んだ次の日でした」 それを契機に、弟は昔語りの最後の部分に取り掛かる。 「当時――そしてそれは今も変わりませんが――僕が住んでいたのは東京の西の端に位置するとある市です。最寄駅には出口が二つあって、その反対側に行きたかった僕は何本かの線路をまたぐ橋を渡ろうとしていました。ちょうど真ん中まで来たとき、ふと下を見たら――今よりほんの少し若い母が、見たことのない白いワンピースを着て、線路のずっと向こうを見つめていました」 「そ、それって、今も」 思わず口を挟んだゆかりに画家は穏やかに微笑みかけた。 「ああ、あなたにも《見え》ていましたか」 まるで今日の天気を話すときのように何気ない口調。 「母はけっして振り向かなかった。僕がいくら呼んだって駄目でした」 「冬悟君……僕の同業者が何度説得に当たったことか」 ずっと黙っていた案内屋が軽い調子で言えば、語り手はいかにも申し訳なさそうに頭を下げた。 「成仏できない母を何とかしたくて、僕はずいぶんいろいろなことを試しました。父を看取ってからはどうにか《その村》を見つけようと図書館に篭ったり……今の仕事だって半分はそのために受けたようなものです」 「……《ふるさと》」 「そう。それも結局、無駄に終わるかと思われましたが」 「僕が、見つけたんです」 まみえてから初めて口を開いた少年は、相変わらず時折目線を下に向けながらではあったがしっかりとした口調で言葉を継いだ。まだ声変わりしていない。 「ネットの記事で。インタビューでした。《ふるさと》……ですか、その壁画製作にまつわるエピソードってことで語られた《両親の育った村》のくだりが、こことしか思えなくて……あ、もちろん地形とか、景色とかそういう部分でですけど」 「これは彼のお手柄です。僕は芸術関係には疎いので……正直、この案件についてはアフターケアをどうするかが頭痛の種だったんですが、信二さんのおかげで突破口が開けました」 「……それは、どういう」 がらんどうの眼が案内屋を捉えた。白髪の男は肩をすくめる。 「《名探偵、皆を集めて「サテ」と言い》……なんてことじゃ、現実の問題ごとは解決しません。あなた方はたしかに罪を犯した。だけど僕の役目はそれを裁くことじゃない」 戦いの後、わざわざかけ直したサングラスを外して白金は依頼主の瞳をまっすぐに見つめる。 「晃一さん、あなたは一人じゃない」 「!?」 「親を見送り、妻を手にかけ、子に先立たれて家しかすがるもののなくなったあなたの、拠り所を破壊してそのままに去るのは僕らのやり方ではありません。たとえ、あなたがどんな意図を持って僕に依頼をしたのだとしても」 くすりと笑った案内屋は、もちろん恨みがましい様子など欠片も持たない。 「許してくださいなんて、口が裂けても言えません」 両親が捨てた土地にようやく降り立った息子は、静かな情熱を持って兄を見つめる。 「でも、俺は、お兄さんに会えて嬉しい」 「……っ」 「父が亡くなる間際、譫言のように言ったんです。《晃一を助けてくれ》、《晃一が儀式に臨む前に助けてやってくれ》……もう、時間の経過が曖昧になっていたんでしょう。それは遅すぎる、と僕には言えませんでした。父の話を信じるならば、二十年前にお兄さんの《儀式》は終わっていた。でも、今、二度目のそれを食い止めることができて、よかった」 残酷な真実を齎した弟は、だから涙を流さないまま泣いているような顔で笑った。 対する兄は先ほど従者がそうしたように、これ以上ないというくらいに目を見開き、 みじかな沈黙の後、獣の咆哮のような音が狭い堂内に響き渡る。 その体を支えるのは子供のように華奢な女性の手と、日に焼けたごつい男性の手。 そっと目をそらしたゆかりは、闇がずいぶん薄くなっていることに気づく。 夏の早い夜明けは知らぬ間にひたひたと暗がりに覆われた神殿を侵していた。 白金がふっと蝋燭の火を吹き消す。 それでももう、互いの顔がぼんやり見えるくらいにはそこは明るくなっていて、 何気なく顔を上げたゆかりは、視線の先にいた少年と顔を見合わせて微笑んだ。 ああ、早く夜が明ければいい。 *** その日の黄昏が来る前に、ゆかりと白金は村を発った。 名残惜しげに自分たちを見送る人々が見えなくなった頃、 ゆかりはもう一度、来し方に向かって深々と頭を下げた。 脇に垂らしていた両手をそっと合わせる。 隣に佇む案内屋は何も言わなかったが、ゆかりの気が済むまで付き合ってくれる心づもりのようだった。 実際のところ、意味などないのかもしれない。だって《彼》は粉々になってしまった。 それでも。 神としての通り名以外の呼び名を持つことがなかった子供のために、ゆかりは一心に祈る。 どうか、どうか、あの子が。 どう続けたらいいかはわからなかったから、ただぎゅっと目を瞑った。 *** 「……白金さん、ちょっとスピード出しすぎじゃありませんか」 「ゆかりちゃん、知ってた?今俺達が走ってるココは高速道路って言うんだよ」 「それにしてもメーターが振り切れる寸前なんですが」 自分の笑顔が引きつっているらしいことは何となくわかった。それは断じてわざとではない。 「だって一刻も早く澪ちゃんに治療してもらわなきゃ。その傷」 さすがに前方から視線をそらさずに言う白金を見て、一つ溜息。 未だじくじくと痛む脚の傷はたしかに辛い。が、 「このくらいは覚悟の上です」 奇しくも《目くらまし》で偽りの裂傷を描いたのと同じ箇所に刻まれた深い痕。 「目的がどうあれ《神殺し》。ただで済むとは最初から思っちゃいません」 きっぱりした口調に、今度は白金が息を吐いた。 「……?」 「あのね、俺が言える立場じゃないって重々知りながらあえて言うけれども」 ハンドルを操る手は微塵も揺らがない。 「巻き込まれた立場の君がそんなふうに納得しちゃいけない」 「……白金さ、」 「俺は案内屋だ。自分の魂の赴くままに、命張って生きてくって決めた。だけど君は違うだろう?」 口を閉じたゆかりに、駄目押しのように切り札を出す。 「君の生きる道は《作家》だ」 「……それ、今言いますか」 「言うよ。だから君はもっと怒らなきゃ駄目だ。君を護るって約束を果たせなかった俺に対して」 「……ちょっと難しいです」 「……だろうね。そういうところが君の魅力なんだろうけれども」 互いに前を見据えながらの応酬である。 「君よりも少しだけ年を食った人生の先輩から言わせてくれ。――そのままじゃ、この先キツいよ」 沈黙。 「《月宮》を知っていたのはどうして?」 やや唐突に思える質問が、今までのやり取りを十分に踏まえたものであることはわかっていた。 「…………大学の同級生でした」 白金は数秒、ぱっくりと口を開けた。 「……君の交友関係には驚かされる」 限界ギリギリまで振れていた針は少しだけその幅を小さくした。 「偶然ですよ」 「運も実力の内。そういう縁に恵まれるだけの器量が君にあるってことじゃない?……《家》のことは」 「ほんの少し」 「そう」 小さく頷き、白金はそれ以上を聞こうとはしない。代わりに、 「その子の名前を聞いてもいいかな」 ことさらに明るく言った横顔をほんの一瞬見つめて、 ゆかりは5年の間封印してきた名前を初めて唇に上らせる。 「月宮、依(よる)」 ジェットコースターが終点近くに来たときのように、ゆっくりと車体は速度を落とし、 高くそびえる灰色の壁に寄り添って止まった。 ブレーキを深く踏み込んだ足をそのままに、案内屋はハンドルに上体をもたせかける。 長い沈黙に戸惑ったのはむしろゆかりのほう。 たしかにその名前は禁忌(タブー)だったかもしれないけれど、 「……この世代に《依》が生まれたなんて話、俺は聞いていない」 押し殺すような低い声がゆかりの鼓膜を震わせた。 「だけどあそこに生まれたのは、女なのに能力を持たない変わり種だけの、はず」 「麻美子ちゃんですよね。その子の、兄です」 白金の肩が大きく尖った。 「…………あに?」 蒼白の顔。 「《依》は、女だ。それは代々」 「でも、そうだったんです。……そうだったのだと、彼は」 ふたたび突っ伏した白金はずいぶん長く動かなかった。 「その子……依君は、今」 投げかけた問いの答えを彼はあらかじめ知っているようだった。 だからゆかりも落ち着いてそれを口に出すことができた。 「会えません」 「…………そう。……ゆかりちゃん、あと5分だけ時間をちょうだい」 振り絞るような声にゆかりはただ首肯した。 その様が見えているかのように、案内屋はそれからきっかり5分、微動だにしなかった。 (2012.12.17) モドル |