都心から電車で1時間足らず。西咲良山駅からは、すぐ。
そこは、
「コンクリートジャングル・東京におけるオアシス的存在であり唯一本物のジャングル」
「いやジャングルじゃねーよ」
エージの律儀な突っ込みに、今日も明神は大きく笑う。その笑顔は晴れ渡った空によく映えた。
東京近郊の行楽地としてメジャーな山、片尾山。古くは修験道の霊場であり、現在も某宗の寺の寺域となっているために天然の森林が守られている貴重な場所だ。また、そういう歴史を持つせいか天狗に関する伝承がいくつもあり、ゆかりは個人的に調べたこともあったくらいだった。
登山客が多いのは何といっても秋の紅葉の時期だけれども、夏休み終盤というタイミングも相まってか、少し前に通過したケーブルカーの搭乗口は家族連れでごった返していた。しかしうたかた荘の一行が選んだルートはどうもあまり人気がないようで、登り始めてから数十分経った今も全く人の姿が見えなかった。おかげで存分にお喋りを楽しめる。
「最近は何でしたっけ、パワー?スポット?とか言われてるらしいですよ、ココ」
「なんじゃいそれは」
「なんか、そこに行くとエネルギーをもらえるんですって。で、なんか浄化されて元気になるっていう」
「胡散臭いっすねー」
「ていうかゆかりんの説明が大雑把だよな」
「え、そういうの明神さんだけには言われたくない!」
両腕をバタつかせるゆかりを見て、明神と手を繋いだアズミがくすりと笑った。
と、水の音が大きくなる。
「あ、川!」
姫乃の言葉通り、開けた視界の先にはきらめく夏の太陽光を反射する清い流れが横たわっていた。
「よーし、じゃあ沢登りといきますか」
不敵に笑う案内屋の後ろの、土気色の顔と目が合った。途端に彼はそっぽを向く。
申し訳なさそうなマフラーの少年を目の端に捉えながらも、ゆかりも負けずに顔を背けた。
――だって、私は悪くない。
額にうっすらと汗を浮かべた十味が不思議そうに首を傾げた。

山深いかの地での夢のような二日間から、およそ一週間が過ぎていた。
長いようで短かった旅路の後、澪の治療を受けている間に(本当はそこまでにも一悶着あったのだがそれについては割愛する)白金とガクがどのような話し合いを持ったのかは定かではない。
が、懐かしいボロアパートの共同玄関でゆかりを迎えたコートの男は、やや俯きながらもきちんとおかえりを言い、あまつさえゆかりの体を労わるような言葉を発したのだった。面倒なやり取りをもう一度繰り返さなければならないとばかり思っていたゆかりは、だから《Mr.ガラスのハート》の成長(と白金の話術)に感動し、そういうわけで先日の行き違い自体は和やかに幕を閉じたはずだった。
なのに、なのにだ。
それはほんの数時間前の出来事。
先日の海水浴の時とは裏腹に目覚まし時計よりも先にぱっちりと両目を見開いたゆかりは、仕返しとばかりにガクとツキタケが寝起きする部屋まで忍び込んだ。はたして、生者とまるで変わらぬ様子で眠りこける彼らをどうやって起こすかしばし黙考、出した結論はいたってシンプル。
「ガークーさん」
耳元で囁けば冷たい体は身じろぎした。すかさず押さえ、自由な方の手で頬を軽く叩く。
「あーさーよ」
カッと見開いた四白眼で侵入者の姿を捉えた霊は間髪入れずに、
「……いったぁ!!」
柔らかな頬を平手で打った。
それがゆかりとわかってからも、いや知れてからこそが本気の行動だったかもしれない。性差を全く勘案しない彼の暴れぶりに、いつしかゆかりも笑顔を消していた。結局、あわや取っ組み合いの喧嘩になりかけた二人を止めたのはもちろん居合わせた弟分。その必死の形相に、大人気ない大人たちは渋々己の手を引っ込めたのだが、理由を問うても一向に口を割らないガクに、気の長いほうであるゆかりが珍しく《キレ》たのは、
――この間の。
一件が深く関わっているのだとは自分でもわかっていた。
朽ちた首印に食いつかれたあの時、正直に言ってゆかりは死すらも覚悟した。何せ相手は神だ。
やり残したことは腐るほどあるが、どこかで安寧を感じたのも事実だった。
これでやっと楽になれる――
だから走馬灯と呼ばれるもので思い起こされるのは《彼》のはずだった。
実際、先月の《無縁断世襲撃事件》の際、男たちに拘束された自分が胸の内で叫んだのは他ならぬその人の名前。
5年前、血も凍るような如月の夜に忌まわしい因縁を断ち切ってくれたゆかりのヒーロー、
――依(よる)。
けれどいざ命が尽きるかも知れぬという土壇場で強く心を惹かれたのは、
ヒーローどころかまるで弟のように手のかかる、
そして、
ゆかりではない女性を一途に想う、
「いやいやいやいや!!」
自主的に思考を中断し、かき消すように頭上を激しく払ったゆかりの肘がエージのこめかみをかすめた。
「どうしたユカリ!?」
「あ、ごめんエージ君」
「や、俺は大丈夫だけど……蜂でもいたか」
「蜂は払っちゃ駄目じゃろう」
心配そうな幾つもの瞳に、ゆかりはいたたまれない気持ちを隠してどうにか笑った。穴があったら入りたい。いや、むしろ掘ってでも入りたい。
少し先を歩いていた明神が振り向いた。
「何でもないです!!!」
そしてまた水しぶきを蹴立てて歩き出したゆかりの後ろに、釈然としない顔の野球少年と元刑事が続いた。やがて彼らは景色に見とれ、自分たちが投げかけた問いなどすっかり忘れてしまう。その横顔を眺めながらそっと安堵の息をつき、ゆかりもようやく前を向いた。
冷たい水が心地良い。時折ぬるりと滑る足元の苔も適度にスリリングで、動悸を沈めながらしばし歩くことのみに集中する。目に快い鮮やかな緑。水面に反射する光は白く、あの日、白金や首藤馨と共に無言で迎えた夜明けを思い出させた。
彼らはどうしただろうか。今頃はもう、屋敷も土地も放棄して散り散りになっているのだろうか。
胸を引っ掻くような痛みを共有してくれる人は、今ここにはいない。だからことさらに明るく唇の端に微笑みを湛えて、まるで普段と変わらぬようにゆかりは交互に足を運んだ。右、左、右、左。前、後ろ、前、後ろ。
そのうちに見えてきたのは張り出した舞台のように平たく広い、休憩するにはうってつけの大岩。
ツキタケが走る。一拍遅れてエージがその後を追う。つられるように駆け出したアズミは三着という結果にふくれたが、追いついた雪乃がその頭のあたりをちょっと撫ぜるようにすると途端ににこにこと微笑んだ。
いつも通り飛びながらついてきているパラノイドサーカスの面々は相変わらず涼しい顔をしているが、傾斜する大地を一歩一歩登ってきた生者はそうもいかない。それぞれに息を切らしながら、ひんやりとしたそこに腰を下ろした。
「大丈夫か、じーさん」
「何のこれしき、おまえこそ大丈夫か、だ」
「俺、現役の案内屋だよ?」
「息が上がってるぞ」
「そりゃじーさんだろ」
「明神さん、十味さん」
果てしなく続きそうなやり取りに割って入る。
華奢な背中にを手を当てて示せば、言い争う祖父と孫のような二人は目を見張った。
「おお!スマン嬢ちゃん」
「ひめのん大丈夫?」
二つの声にどうにか頷くうたかた荘の姫君の頬は赤い。すべらかな額には玉のような汗が噴き出している。
「……ゆかりんの方がタフだったとは予想外」
「失礼ですよ!!ていうかそれ、《予想外》って言いたいだけでしょ!!」
近頃、明神がお気に入りのCMは某携帯電話会社のそれだった。妙なイントネーションで繰り出された単語に姫乃はちょっと笑ったが、そのまま膝を折ってへたりこむ。ゆかりはひとまずその頬に濡らしたタオルを当て、何か言おうとするのをとどめて水筒を差し出した。
「あんまり飲むと逆にバテるからね」
忠告に神妙な顔で頷いた姫乃は、それでも喉を鳴らしてコップに注がれた麦茶を飲み干す。小さく息をついた少女を見守っていたゆかりは、ふと視線を感じて振り向く。
「姉ちゃん、よく山登るんかい」
「え?」
「うん、俺も思った」
随分と意外そうな表情を並べる十味と明神。一方、小さな陽魂たちは大人たちの会話には目もくれずに歓声を上げながら魚を追っている。
「あー、ああ。いや、山登り好きな知り合いがいてですね」
と、のどかな景色に不似合いな電子音が辺りに響き渡った。
「お、噂をすれば……ってマナーモードになってない、ごめんなさい」
「ここ、電波、入るんですね」
未だ若干苦しそうな顔の姫乃が口を挟んだ。すかさず明神が背をさする。
それで少女の頬は一層濃い朱に染まったが、気づいているのはどうやらゆかりだけのようだ。
「だね、遭難しても大丈夫だ。何々、……うわあ」
そうなれば《彼》の動向が気になるというものだが、喧嘩中である手前、ゆかりはあえてそちらを見ない。チラチラと揺れるコートの裾は目に入っていないことにした。
「どしたの、ゆかりん」
「その知り合いに今日のこと話してたんですが、お土産のリクエストが来ました」
「へえ。何がいいって?」
「地酒、ですって。全くあの人は」
「わあ」
「あるの?そんなの」
「あるな。《天狗》に《綾錦》、あとは……」
「おお、さすが十味さん。よくご存知で」
元刑事はまんざらでもなさそうな顔をし、けれど何か思いついたようにニヤリと笑った。
「しかし姉ちゃんも隅に置けんな」
「へ?」
「そんな土産、注文するのは女性じゃなかろう」
「あ、へー。なるほど」
明神がわざとらしく目をみはれば、
「……おお」
姫乃が小さな両手を口に当て。
「いやいやいやいや違うからね!?はい明神さん、デタラメを広めようとしない!姫乃ちゃんも期待するような目で見ない!!」
ご丁寧にも口の横に手を当てて大きく息を吸い込んだ案内屋の首根っこを掴み、ゆかりは眉をハの字に下げた。
「ただの先輩ですから。大学の時の」
「えー」
「えーじゃない!!何でここだけ女子高生の修学旅行みたいなノリになってるんですか!!」
「ゆかりさん、私、女子高生」
「うん知ってる!!けどそれとこれとは、」
天から水が降ってきた。
頭からそれを被った生者の面々はパチクリと目を見開いたのち、申し合わせたように眼前の流れに目をやる。
光を反射する水面に浅く浸かっているのは巨大な木槌。すっかり見慣れたその光景。
「何してんだガク!!魚、逃げちまったじゃねえか!!!」
少年の非難を頭から無視し、ふいと顔を背ける直前、背の高い死者はたしかにゆかりのほうを見た。
が、
「この野郎、いい度胸してんじゃねえか」
楽しげに呟いた案内屋が次の瞬間その細い体躯にタックルをかまし、全ては有耶無耶になってしまう。それなりに速い水の流れは、彼らになんら影響を及ぼさない。数分の後、普段アパートの前庭で行われているのと同じようなやり取りを眺めることになったギャラリーは、しかし皆一様にニコニコと笑っていた。いつものように、いやいつも以上にむきになって得物を振り回すガクも、愛しのスウィートが間近で彼の活躍を見ているのだ、本当は嬉しいに違いない。
モヤモヤとした気持ちを抱えているのは、だからゆかり一人だけなのだろう。

お花摘みという単語を理解しなかったのは子供たちだけだった。それにはゆかりの従兄妹も含まれる。早足で集合場所を目指しながら、ゆかりはふと苦笑を浮かべた。
――そういえば。
ガクの生年をゆかりは知らなかった。彼がイトコと知れて、そんな瑣末なことはどうでもよくなってしまったのだったが。
――本当に年下なのかもしれない。
ならば多少のことは自分が譲歩してやらなければならないのかもしれなかった。たとえば今朝のような出来事も。
いずれにしろ、確認しておくのは悪いことではなさそうだった。主に自分の心の平安のために。
――今日のうちに聞いてしまおう。
そう心に決めれば、おのずとその前にするべきことも明確になるのだ。
諍いというものは長引けば長引くほど収めるのが難しくなる。一人しか家族を持たなかったゆかりは、それを痛いほど知っていた。
あの突き当りを左に曲がれば、すぐに皆が待っている大岩が見えるはず。
すう、と息を吸い込んだ。
胸の高鳴りは緊張によるものだと思い込もうとする。
と、視界の端を何かがかすめた。
思わず立ち止まって振り向けば、手を伸ばせば触れられる程度の場所に涼しげな風情で揺れる大輪の花。
――ユリ?
花屋で見かけるそれと違い、少しばかり毒々しいと言っていいほどの紅い斑点とあまりに濃厚な香りに、ゆかりはしばし呆然とする。これは山野に自生する種なのだろうか。先ほどメールをくれた《先輩》――トキさんならば詳しいのかもしれない。
魅入られたように手を伸ばした。
修行僧の背すじのごとくスッと伸びた茎の表面は、ツルツルとして触り心地がよい。
それとは意識しないまま、ゆかりは指に力を込め、
ポキリと乾いた音が響いた瞬間、ぐるりと世界が回った。

気を失っていたのはどのくらいだったろう。太陽の位置はほとんど変わっていない――ようだったが、正直に言ってゆかりは、そのあたりを判断するサバイバル能力にはやや欠けていた。
まだぼんやりとした意識のまま、掌を見る。
握られている花は、おかしな話だが土に繋がれていた時よりもよほど生き生きとして見えた。あるいは(もしも花に人格のようなものがあるとすれば)――《嬉しそう》に。
――まさか。
信号を渡るときのように、右、左、もう一度右、と首を巡らす。そしてわかったのは、今、自分のいるのが全く見覚えのない地点だということだ。ついさっき、川辺に戻る途中で通りかかった場所とは明らかに木の生え方が違っている。もちろんそれまで麓から登ってきた道とも、《お花摘み》に足を伸ばした場所とも違う。
もう一度、どこか妖しい芳香を放つそれを見た。
堂々たるめしべが揺れた。
まるで、笑っているかのように。
理屈はこの際どうでもよかった。ゆかりの本能が原因は《それ》であると告げていた。
こういう話は聞いたことがある。触れてはいけないものに触れ、結果として姿を消した子供が大規模な捜索の末に見つかったり見つからなかったりする、話。
――神隠し?
にわかに心拍数が上がるのを感じた。口の中がカラカラに乾いていく。
山は異界。海は他界。語呂合わせのようにそんなことを言ったトキさんの横顔を思い出す。
くわえ煙草に無精ひげ、加えていつも眠たそうな顔がトレードマークの彼が、山に入る時だけは別人のような表情になるのだと教えてくれたのは彼と自分とを引き合わせてくれた親友――維継(これつぐ)だった(奴は本当に多趣味だ)。信じられないと一蹴しなかったのは、現実の山の厳しさこそ知らなかったけれども、そういった場所にまつわる無数の話――怪談・奇談を蒐集してきたからだったのかもしれない。もちろん、トキさんが真剣になるのは遭難だとか、怪我だとか、そういう実際的なあれこれを危惧してのことだったろうけれども。
ただしこれが本当に神隠しの類だとすれば、立派な遭難でもあった。
しかも場合が場合なだけに、非常食や何かを詰めたリュックなど持っておらず、役に立ちそうなものといえば首に巻いたタオル、ポケットに入れたティッシュといくつかのチョコレート、そして愛用の守り刀のみ。
せめてコンパスくらいは欲しかった、と思い、腹いせに拳を振り下ろしかけてハッと止める。手の中の花はしおれる様子もなかったが、十中八九これが原因である以上、乱暴に扱うのは控えねばならなかった。
舌打ちをし、それでもどうしようもないので空いた手を額に当てて深く息を吐いた。
点滅するように今朝からの出来事が瞼の裏をよぎっていく。
そのあちこちに背の高い死者――ガクが顔を出すのが妙に癪で、だから大きく頭を振った。
まずは方針を決めなければならない。

花を返せば帰れるだろう。根拠はあまりなかったが、他にできることもなかったので、ゆかりは川を探すことにした。切花には水、という単純な発想からだ。そういえば切り口がまるでナイフを使ったかのようにすっきりした断面を晒しているのも不気味だったが、深く考えないことにする。
もしかしたらこの胡散臭い花のことだ、手折った場所に帰りつけさえすれば魔法のように復元されるのかもしれなかったが、それこそ簡単に戻れるようでは隠され(とでも言えばいいか?)た意味がないような気もした。何しろあそこは、公式ホームページにも載っているような由緒正しい登山ルートからほんの数十メートル離れただけの場所なのだ。もしもたどり着けたならばこんなものは放っておいて一目散に逃げるだろう。
皮算用はそこまでにして、ゆっくり首を仰向ける。
先ほどまでの沢登りで、はたして太陽はどちら側にあったか。
おぼろな記憶を手繰りつつ、最大限に聴覚と嗅覚を働かせつつ、ゆかりは歩き出した。木立はそれほど深くない。木漏れ日もまことに穏やかで、不穏な空気が感じられないのが唯一の救いだった。
――これは、いわゆる天狗の仕業というやつだろうか。
できるだけ楽しいことを考えるようにと努力すれば、自然、思考はそちら寄りになる。ゆかりにとって《楽しいこと》とはすなわち、世間一般に言うところの怪談・奇談・都市伝説その他について思考を巡らすことにほかならない。
元々、海より山派だった(ことオカルト方面においてというだけではあるけれども)。西咲良町に越してきてすぐの頃、近場のこの山について調べたのも全く純粋な好奇心からだ。
そしてゆかりのまとめた情報によれば、片尾山の守り神として長らく崇められてきた《天狗》、その姿かたちは山伏ではなく烏天狗に近いものらしい。
もしも自分をこんな目に遭わせたのが彼だとしたら、ひょっとすると伝承のように、家に帰る過程でその腕に抱えられて空を飛べたりするのではないだろうか。
不意の思いつきにゆかりはちょっと気をよくした。よく考えれば因果関係が妙なのだが、ある種の興奮状態にある彼女の脳はそれをおかしいとは感じなかった。
それならこの経験もなかなか悪くはない――
いささか調子に乗りすぎたと言えなくもない妄想は、極度の緊張が反転した結果なのだとは判断されなかったようだ。あるいはただ単に、奇禍に全くめげないその様子に《天狗》が苛立ったのかもしれない。
唐突にズルリ、と足元の土が滑った。
その時ゆかりが歩いていたのは右手が藪、左手が木立という場所で、どうやら藪は緩やかに傾斜しているようだったのでできるだけ左寄りに歩くようにはしていたのだが、バランスを失ったのは右脚のほう。
咄嗟に花を高く掲げ、したたかに尻餅をついたゆかりの転倒はそこで止まらない。
傾斜は思いの外急だった。
何かを思い描く暇もなく、ただ上と下とにめまぐるしく入れ替わる世界を受け入れたゆかりの身体は、最終的に冷たい感触に頭から飛び込むことでようやく停止した。
次の瞬間、ガバリと顔を上げる。いくら水の梵術に親しんでいるとはいえ、ゆかりは魚類ではなく人類だ。その中で呼吸はできない。
そこは確かに探し求めた水辺だったが。
「最悪だ……」
ついこの間、引きつった笑い顔で白金が口にした台詞を繰り返しているのには後から気づいた。
服はびしょ濡れ、全身は細かな擦過傷にまみれ、おまけに右足首からは別の種類の痛みすら感じられる。
さすがに言葉を失うゆかりの右手で、白く輝く花だけは変わらぬ美しさを保っていた。



(2012.12.22)

モドル