独特のリズムの囀りは《特許許可局》とも《テッペンカケタカ》とも聞こえない。それはゆかりが情趣を解さない現代人であるせいだろうか。鳴かぬなら、という句で有名なその鳥の姿をゆかりは実際に見たことがなく、音のする方に目を凝らしたけれども結局よくわからなかった。諦めて体を横たえる。
瞑った瞼の内側はほの白かった。剥き出しの腕が強い光にジリジリと暖められていく。肌に張り付くTシャツが思ったよりも体温を奪わないでいてくれるのはきっと一度絞った効果と、今日の異常なほど高い気温のせいだ。《山の中なら涼しいと思ったのにね》――仲間たちと笑いあったのはそういえば登り始めてすぐの出来事だった。
あれからどのくらいの時間が経っているのだろう。視線を下に落とせば影は体に隠れてしまうほど短く、それだけはまだ安心できる点だった。それでも数秒とはいえ全身くまなく水に浸かった身としては、本当は天女の水浴びよろしく全部を脱ぎ捨ててその辺りに干しておきたかったのだが、生憎ゆかりはただの人間で、さらにここは人の往来がある山だったから(いかに人知を超える力がはたらいたとして、別の土地に飛ばされるほどのことはないだろうとゆかりは踏んでいた。それには希望的観測も含まれるということには気づかないふりをする)、自身の安全確保のためにもそのような暴挙にいたるわけにはいかないのだった。
仰向けに寝転んでいるのは明神たちと休んだ場所に似た岩の上。ただし先ほどまでと違い、2人座ればいっぱいになってしまうような小さなスペースだ。これ以上体を冷やさないために水面からはなるべく距離を取り、しかし熱を持ちはじめた右の足首だけは伸ばして水中に浸けている。
この怪我がネックだった。
おそらく捻挫だろう。その程度のもの、と言うのは簡単だ。
もしかしたら習い覚えた梵術はこんな時にも役に立つのかもしれなかったが、残念ながら今は気力が足りない。
突き詰めればたぶん原因は自分にあるのだけれど、悪気があったわけではない。
それにここまでひどい目に遭うほど悪いことはしていない、はずだ。
普段よりも幾分ゆっくりと進む思考にため息を吐いた。
一度切れた緊張の糸をふたたび結び直すには少し時間がかかりそうだ。
――これからどうしよう。
心に浮かぶ言葉に感情は伴わず、凪いだ海のようなひらたい気持ちでゆかりは視界に踊る光を味わう。
万華鏡のような、はたまた水に油を落としたときのような刻々と移り変わる模様。それがいつしか一人の男の像を結んだ。
一つ屋根の下に住まうコートの青年――ガク、こと犬塚我区。
鼻の奥がツンと痛むのを堪えた。
《それ》はずっと望んでいたことなのに、どうしようもなく悲しかった。
――依。
今まではこうはいかなかったのだ。
辛い時、苦しい時、すがるように思い出すのはいつだって茶色がかった癖毛頭と、
それを見つめたかつての自分で、
だからその全てを忘れたかった。
それは《彼》の願いでもあったから、なおのことゆかりは望み続けなければいけなかった――
――いや、本当は。
でもあったから、ではない。
だから、だ。
ほんとうは、《彼》がいないこの世界などゆかりにとって意味がなく、忘れてしまうくらいならいっそ――
――それも違う。
マーブル模様に変化する己の心を少し遠いところから静かに見つめた。
感情を分析するのは作家としての習い性という言い方もできたが、そういうふうにしか生きられないからこそゆかりはこの職業を選んだのかもしれなかった。
底冷えのするような冷徹さで想いの表面を削っていく。
かつて甘やかな感傷でもって覆った記憶と、ゆかりは今やっと向き合おうとしている。
――実際、彼がいないのに、
こうして笑って生きている。それはつまり、そういうことだ。
忘れたかった。そして、

《幸せ》になりたかった。

その二文字は、彼に出会う前のゆかりが喉から手が出るほど欲しがっていたもので、
渇望が彼をあのような行動に踏み切らせ、
だから結果としての今があって。
――依、
その名前を呼ぶことさえかつてはできなかった。
《約束》に縛られていたのはもちろんだけれども、きっとそれがなくても同じだった。
まるで生きながら身を裂かれるような痛みに、ゆかりはとても耐えられなかっただろう。
――ねえ、依。
もちろん今でも胸は疼く。実際に声にするしないに関わらず、どす黒い後悔が身の内を暴れまわる。
それでもそれができるようになったのは。
――我区、
彼がいたからだ。彼が、いるからだ。
初恋の人と正反対の気質を持つその男は名前までもがあまりに相応しく、いつか教えてもらったその漢字を初めて心に浮かべながら、ゆかりは今は離れているその人にそっと呼びかけてみる。
いい出会い方とはお世辞にも言えなかった。
けれどどこか憎めない彼のことを、最初からゆかりは嫌いにはなれなかった。
あるいは血に呼ばれたのかもしれない。
同じ日に忌まわしい目に遭っていたという厭な符合が理由かもしれない。
それでもいいと思えた。
ただ湧き上がる言葉は、
――会いたいなあ。
寄る辺のない山中に一人放り出され、怪我で動けない女性の感情としては少々能天気にすぎる六文字は、しかしゆかりの掛け値ない本心だった。
5年前のあの日以来、色を失った心の隅がふっと色づく。
それは柔らかなコーラルピンク。淡く控えめでありながら、どうしようもない獰猛さを秘めた恋の色。
――私は。
いつだって他人を見るようにしか自分を把握できないこの駆け出しの作家は、
いつだってそんなふうにしか自分の感情を知ることができない。
――あなたが、
コツンと足の先に何かが当たった。
ゆっくり起き上がって見やれば、固い感触を伝えるそれは、
「お盆……?」
漆の照りもあざやかに、黒々と光る丸盆がゆかりの爪先に引っかかる形でプカプカと浮いていた。それは首藤家の座敷で目にしたような立派なもの。つまり、こんな山中にはあるべきはずもないものだ。また、水の流れはけっして遅くなく、そこここにゴツゴツとした岩肌が露出しているような場所を流れてきたはずなのにそれには傷一つ付いておらず、その事実が逆説的にたった一つの答えを示していた。
「マヨヒガ……はないよね、状況的に」
わかりきったことをわざわざ口に出したのは、どこかでこの様子を見ているかもしれない誰かに聞かせたかったからだ。また何かを勘違いされて痛い目をみるのはごめんである。ゆかりとしては花瓶が来るかと予想していたのだが、より風雅な演出ではあった。ともあれ、
傍らに置いていた花を取った。
少し深さのある盆の端からやや茎がはみ出したが、それは意外なほど収まりがいい。
そのまま、流した。
障害物を器用に避け、みるみるうちに小さくなる白と黒のコントラストが見えなくなるまで見送って、ゆかりはさて、と向き直った。
途端に滑り落ちそうになった。
ほんの数メートルしか離れていない対岸に、ガクがいた。

互いに絶句し、見つめ合う合間にのどかな鳥の声が響く。
ケキョケキョケキョケキョ、……ケキョ、ケ、
「……なんでいるの」
零れた言葉に、青年の黒髪はぶわりと逆立ったように見えた。
およそ死人に相応しくないスピードで彼は頬を紅潮させ、
「どっ……おっ……しっ……」
怒りのあまり言葉が出ないその様子に、
「あ、えと、ごめ、」
ゆかりもどもりながら失言を詫びようとしたが、それを待たずにガクは大股で川を横切った。
思わず目を瞑ったゆかりの細い肩に、勢いよく振り下ろされた手は今日も冷たい。
「おっ……まえは、人が、」
続く言葉はまるで咆哮のようで正確には聞き取れなかったが、
「……ごめんなさい」
謝らねばならないタイミングだ、ということだけは理解できた。
ゆかりにつむじを晒したまま、背の高い死者は一際深く嘆息する。
「どこに行ってた」
「わ、私も、よく……たぶん、神隠しみたいな」
「!!?」
グワリと挙げられた顔、爛々と光る眼はいつかにも負けないくらいの炎を宿している。
「かみ、だと」
「あ、うん、だから妙なことは……かんがえ、ないで」
思わずその髪に手を触れた。なめらかな手触り。
毛に温度は通わないから、そこは唯一、彼に触れながら死者ということを忘れさせてくれる部位だった。
ぎこちなく上から下に掌を滑らせれば、ガクはますます硬直した。
ふとおかしみが湧いてくる。
いたずら心でその手を止める。耳のあたりを包むように両手でその頭を固定し、ただじっと見つめる。
一度は引いた頬の朱がふたたび差し、
「だからどうしてガクさんは女の子に暴力を振るうかな!!」
容赦なく突き飛ばされたゆかりは危うく固い岩肌に思い切り頭を打ち付けるところだった。
「お、お前が変なことをすりゅかりゃだ!!!」
言えていない。けれど情状酌量の余地もない。
体勢を立て直したゆかりはガクの胸ぐらを叩こうと突進し、重心を失ってそのまま倒れ込んだ。
右足首に負った傷のことをすっかり忘れていた。
抱きとめたガクは瞬間、盛大に肩を跳ねさせたのがわかったが、説明する余裕もなくただ唸るゆかりの様子にやがて静まった。
「どうした、まさか」
「…………足、捻った、っぽい」
「……!?」
「いや大丈夫、今じゃないから。さっき、たぶん森の中で」
どうにか痛みの波をやり過ごして息を吐く。そのまま何を言おうか思案するゆかりの髪に、今度はガクの掌が触れた。
「………………今朝は、悪かった」
壊れ物を扱うような手つきに心臓が竦む。
俯けていた顔を慌ててさらに真下に向けた。
今、自分はきっと見られたものではない顔をしている。
けれど、何か言わなければ想いがそのまま伝わってしまいそうだったから、必死で声を振り絞る。
平静を装って。大人びた声色で。
「……なんだったの、結局」
「それは言えない!!!」
途端に手の動きが激しくなり、ゆかりの髪はまるで飼い主にもみくちゃにされている犬の毛のようになる。目眩を覚えながら、ゆかりはその手を止めようとする。
「待って、待って、やめて、髪が」
「……ああ」
スピードを落とした掌は後頭部で一度止まり、ためらうような間のあと、ゆっくりと背まで下ろされた。
そのまま蟻が行進するくらいの速さで背骨の真ん中あたりを撫でるのは、彼が普段弟分に対してやってやることなのだろう。おそらくは落ち着かせる意味で。
ただしこの場合は全くもって逆効果だった。
今やゆかりの心臓は早鐘のように鳴り響き、失神寸前と言っても過言ではない。
ひとえに意識を失わないため、ゆかりはしっかりとガクの服の端を握り締め――
「そろそろいいか、陽魂と人間」
しらけきった声が割って入ったのはその時だった。
弾かれたように顔を上げた、視線の先には呆れ顔のクロックラビット。と、
「ゆ、ゆかり姉、よかっ……」
顔を赤らめながら明後日の方向を見るマフラーの少年。
「あ、あのね、これは違うの」
振り仰いだガクが氷像のように固まっていたから、ゆかりは必死に言葉を繋ぐ。
「足、怪我して、朝、喧嘩してて、」
「もういいわかったこれ以上喋るな」
にべもなく言い置いて、グレイは長い耳の片方を大儀そうに持ち上げた。そのまま周囲の気配を探るようにゆっくり首を回し、一人頷く。
「皆、そう遠くまでは行っていないようだ。……集合場所はここから下流に降ったところ。真っ直ぐ登って来たんだからお前ならわかるだろう、陽魂。そっちの人間は怪我をしているようだから、多少時間がかかるだろうが構わない。ゆっくり来い」
踵を返したクロックラビットは振り向かずに、
「行くぞ、ツキタケ」
嫌味たらしく少年だけを名前で呼んだ。
忙しなくガクとゆかりの顔を見比べ、最後にゆかりに向かってちょっと頭を下げると、少年は躊躇なく歩くグレイの後を追う。
その瞳に心なしか嬉しそうな色が浮かんでいたことには気づきたくなかったゆかりである。
どちらともなく体を離す。後に残るは気まずい沈黙。
「……行きましょう、か」
「……ああ」
踏み出し、ゆかりは歯の根に響くような痛みに顔をしかめた。
「……あの、犬塚さん」
「……なんだ」
「大変申し訳ないのですが、腕に捕まらせていただけないでしょうか」
先を行く人が立ち止まった気配がした。
いたたまれずに下を向くゆかりのすぐ傍で空気が動く。
見れば季節外れのコートを着た青年が、目と鼻の先でこちらに背を向けてしゃがみこんでいた。

「ほんっとうに面目ない……」
「だから気にすんなって、ゆかりんのせいじゃねーし」
負傷者は入山口の近くで生者の背中に移された。とうとう最後まで山道で人間と出会うことはなかったが、ここから先は人目も増える。足を腫らした女性が何かに掴まるような格好でふわふわと宙に浮いていたら、それは大問題だ。
がっしりした明神の肩に控えめに掴まりながら、ゆかりはひそかに息を吐く。けれどわずかな空気の振動は白い髪を揺らしてしまったようだ。
「今日はこんなに暑いんだし、上も下も変わんねーって」
「そうそう!帰ったらお庭でお弁当食べましょう!」
「いやあの庭は死ぬわヒメノ」
冷静に指摘し、しかし心優しい野球少年は、
「南機川(みなみはたがわ)沿いのどっかでいいだろ。確かあの辺、デッカイ公園もあるし」
きちんと代替案を提示するのだから大したものだ。
「ああ、方南公園ね。じゃあ降りる駅が違うわね、ええと……片尾駅でしたか、十味さん」
「じゃな。お、」
「なんだよじーさん、急に止まるな危ないだろうが」
小柄な老人が指しているのはケーブルカーの発着駅。
「土産、買ってくだろう姉ちゃん。ワシが適当に選んでいいか」
「ええ!?そんな、だって、私これ以上重くなれないし」
「馬鹿言ってんじゃないよ、せいぜい4合瓶だろう。ジジイだってそれくらい持てるわ」
「十味さん……」
思わず明神の背に顔をうずめた。
頭を撫でるしっとりした女性の手がより涙腺を刺激した。
「みん、な……ありがとう……」
「Oh,no.やれやれ、ユカリはオーゲサだね」
耳元で囁くバフォメットはすぐに離れ、
「あー、ちょっと何!?キヨイにくっついてんじゃないわよ!!」
代わりに恋する皇帝コウモリが掴みかかってきたけれども、
「おいおい怪我人だぜ、一応」
雷猿が難なくそれを阻止する。
ワイワイと賑やかな集団を振り向いて見る登山客は、一様に首を傾げていた。
そのどの顔にも意外の色がある。《気配》で感じた人数と実際に目に映るそれの齟齬に戸惑っているのだろう。中にはマジマジと眺め続ける猛者もいたが、ガクが一睨みすると慌てて目をそらした。それこそ《見えない》はずだけれども、凶悪な気配でも感じるのであろうか。
そのガクは集団のしんがりを勤めていた。
一旦は離れた十味が無事に《土産》を手にし、もう入山口を通り過ぎるというその時、土気色の顔の男はゲートの手前で振り返る。そのまま数秒、動かざること山の如し。
陽炎に似た紅い炎がその身を包んだように見えたのはほんの一瞬。
「……ガク?」
不意にガサリと左手の藪が揺れ、
「ん、何だ何だ……なんだこれ?」
笹の葉のようなものにくるまれた小さな包みが足元に落ちた。細い紐で十字に縛った様子は、あの国民的アニメーションでショートカットの少女が渡された物に似ていた。
「すごい臭いだな……生薬か?」
「ああ本当、湿布みたい」
十味が拾ったそれをガクはピコピコハンマーの柄を以て取り上げる。そのままゆかりに差し出した。
「ん」
「ん?」
「薬、だそうだ」
「え、ああ……え、まさか!?」
「全くもって腹が立つが……反省はしているようだから許してやれ」
「何、今何したのガクさん!!?」
今度は梢が大きく揺れた。刹那、黒い翼のようなものが見えた、気がした。
それはほんの一瞬の邂逅。
ポカンと口を開けた一同を尻目にガクはさっさと歩き出す。
「ガ、ク……おまえホント何したの!?」
「アニキ、アニキってば」
「うるさいほら行くぞ」
意地でも口を割らないらしい青年は、ちょうど真上にある太陽を見上げて眩しそうに目を細めた。



(2013.1.7)

モドル