「じゃ、じゃあ」
頬を染めた年上の同居人(と言ってしまっていいだろう。うたかた荘は全体で一つの家のようなものだ)はその顔のまま、けれどこれまでの慌てぶりを忘れたかのようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「交換条件。――姫乃ちゃんの好きな人を教えてくれるなら、いいよ」

***

太陽がようやく地平線に近づき辺りがオレンジ色に染まる時刻、桶川姫乃は共同リビングのソファにちんまりと腰を掛けていた。いつもの通り、隣にはアズミを足の間に座らせた明神が、反対隣にはピコピコハンマーを抱えたガクがいる。その配置は今さら気にもならないほど当たり前のものだったけれど、時刻と場所が少々変わっていた。
こと今の季節に限って言うならば、日のあるうちにこの部屋――もとい、この建物の中で過ごそうという猛者はなかなかいない。たとえば梅雨が明けたばかりの頃、《うたかた荘での初めての夏を迎えるにあたって》という姫乃の真剣なアドバイスを軽く聞き流していた新入りもようやく心を入れ替えたようで、最近はバイトがあろうがなかろうが昼前には愛用の日傘を差してどこかへ出かけるようになっていた。聞けば暑さに弱い彼女には道中の日差しすら堪えるようだったが、それでも《ここで一日過ごすよりは大分マシ》なのだそうである。宿題を抱えて徒歩3分の市立図書館に通いつめる生活を送っていた姫乃は、だからそこが夏休みの期間だけは開館時刻が早まることを教えてやった。貧乏な作家が狂喜乱舞したのは言うまでもない。
ともあれそのくらい、このボロアパートは夏の生活に不向きであった。
何しろ冷房器具といえば、映画の小道具にでも使われそうな古めかしいデザインの扇風機が一台きり。それも本来の役目を果たすものでは到底なく、《なんとなく涼しい気がする》程度だということを生者の店子たちは皆口に出さないようにしていた。暗黙の了解というやつだ。
それが現在、西日射すこの広い一室には、ソファに行儀よく並ぶ姫乃たちのみならず、母も、ゆかりも、果てはエージツキタケパラノイドサーカス、つまりはこの屋根の下に住まう全員が勢ぞろいしている。
姫乃自身を含め、この場に集った全員がある一点を凝視していた。その一点とは――テレビ。
「セーラ、良かったなあ」
ぐしぐしと乱暴に目をこすりながら明神が言えば、
「ミンチン地獄に落つべし」
自称姫乃の婚約者(フィアンセ)は、物騒な顔で物騒な台詞を吐いた。
「いやさー、ミンチン先生も辛かったんだよ」
ダイニングの椅子に横座りしたゆかりが言う。その隣で母がうんうんと頷いている。
《夏休みアニメスペシャル・『小公女セーラ』一挙放送!!》
一挙と言いながら一日に1話か2話ずつしか放映されることのなかったその企画の、今日は最終日だった。先に夏休みが終わってしまうのではないかとハラハラしていた姫乃がそれを見はじめたのは、実は物語も後半に入ってから。前述の通り、このところ真昼は人気の絶えるこの場所であったが、いつの頃からか夕暮れに近くなると母がテレビの前に座るようになり、そのうち誘蛾灯に集まる虫のように他の店子たちが徐々に加わって、
気づけば全員がプリンセス・セーラの虜だった(普段、喧嘩と昼寝しか頭にないあのゴウメイさえもだ!)。
「それにしても懐かしかったわ」
母の言葉にゆかりが振り向く。
「私がちっちゃい頃にやってたんですよね、コレ」
「ううん、私、原作を読んでて」
「へえ!」
職業柄、その手の話に目のない彼女はパッと顔を輝かせた。それを見た母は穏やかに微笑む。
「子供向けの本でだったけどね。まだ小学生だったから」
「『小公女』を読む小学生なんて素敵すぎる……!」
「ゆかりちゃん、大げさ。……憧れって言えば《真夜中のお茶会》よね」
「ですよね!あれは少女の夢ですよね!!」
「ホントに。アコガレます」
拳を握りしめて頷くゆかりに思わず姫乃も同意した。そんな二人を尻目に母はわずかに小首を傾げ、
「私もやったのよ、頑張って」
いたずらっぽい瞳で言った。
「え?《お茶会》を?」
「そう、その頃仲の良かった女の子を無理やり引っ張り込んで。でもねえ、田舎のことだから」
その目を懐かしそうに細め、いかにもおかしそうにクスクスと笑う。
「まず紅茶のカップらしきものは食器棚の奥から発掘したんだけど、中身は麦茶でしょう」
「!?」
「紅茶なんて、そんなハイカラなもの置いてなかったのよ。じゃあ何でカップがあるのかって話なんだけど」
「あ、何かその先想像つく」
ついこの間会ってきたばかりの祖父を思い浮かべながら姫乃は口を挟んだ。母の実家、姫乃が上京する直前まで住んでいたあの家に常備されていた《おやつ》と言えば――
「で、同じく台所から発掘した、やっぱり何でこんなものが家にあったんだろうっていうような白い大きなケーキ皿に盛ったのが――干し柿」
可哀想に、拳を固く握ったままの若き作家は絶句している。
「だって家にお菓子なんて置いてなかったんだもの。あれが唯一」
「お母さんが子供の頃は《おやつは取ってくるもの》だったんでしょう」
「そうよお、なのにお父さんたら姫乃には甘くって」
「ちょっと待った、なんだ《獲ってくる》って」
「そうっす、なんかコワイっす」
「ああ、それはね」
田舎の子供の食糧事情について今まさに姫乃が講義を始めようとしたその時、バン!とテーブルが叩かれた。反射的に横に座るガクを見上げたが、彼もまた姫乃と同じようにポカンと口を開けている。こういう振る舞いをするのはうたかた荘では彼くらいなのだけれども、
「不憫だ。……それはあまりにも不憫だ」
どうやら彼の従兄妹もその悪い影響を受けてしまったらしい。
芝居がかった口調で呟いて顔を上げたゆかりの、黒い瞳が何だかギラギラと燃えているように見えた。
「リベンジしましょう雪乃さん」
「リベンジ?」
「そう」
何が彼女を駆り立てるのか、姫乃より8つも年上のその人は話題に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべた。
「やりましょう。真夜中のお茶会」

「それがどうしてこうなった」
「まあ、修学旅行みたいね」
両手を合わせて喜ぶ母を横目に、元々の発案者は嬉しそうな不服そうな、複雑な表情を浮かべている。
枕が中央に集まるように並べられた布団は4組。横に退けられた卓袱台の上には色とりどりのスナック菓子が所狭しとひしめいており、アズミが目をキラキラさせてそれを見つめている。
「ふうん、これがシュウガクリョコウなの」
自分の分の布団には見向きもせず、ふよふよと飛び回る陰魄に間違った知識を与えてしまったような気もするが、姫乃は気にしないことにした。今はそれよりもお菓子である。早速チョコレートの袋を開けてハート型をした一粒をアズミの前に置いてやると、少女は嬉しそうに跳ねた。それを確認し、後ろで立ち尽くすゆかりにも小さな幸せの塊を渡す。
「あ、ありがとう姫乃ちゃん」
「これはこれでいいと思います」
「ホント?……姫乃ちゃんは優しいねえ」
まだ夜も深くない時刻だったが、既に外の気配は絶えている。女の子だけのパーティーの今宵、男性陣は大人しくしているよう誓わされて今頃は共同リビングで愚痴大会を開催していることだろう。
「で、シュウガクリョコウって何するの。寝ながらお菓子食べるの?」
「違うよ!」
「明かりを暗くして、女の子だけの秘密の話をするのよ」
「ふうん。じゃ、電気消せば?」
「今はまだいいの、お菓子があるから」
山盛りのポテトチップスを一枚つまみ、上品に咀嚼した母はゆかりの方を振り向いた。
「前から思ってたんだけど、ゆかりちゃんっていいもの着てるわよね」
「え?ああ、」
「そう、絶対手洗いするでしょ」
思わず勢い込んで姫乃も言った。ずっと気になっていたことだったのだ。水を向けられたゆかりは目を白黒させ、けれどそれもほんの束の間、
「そう!聞いてくださいよ雪乃さん」
「何々、聞くわよ」
「前に維継って男が来たでしょう、引越しの日に」
「あのハンサム君ね」
「いや顔だけはいいですけど……ってアレのことはどうでもよくて」
そうして披瀝されたエピソードを姫乃は二重の意味で興味深く聞いた。曰く、現在の彼女の衣生活に多大な影響を与えたのが彼だったのだという。
「家の中で中学校のジャージを着てたのを怒られたのがきっかけで……いいじゃないですか、家ン中くらい。誰に迷惑かけるわけでもあるまいし」
ふんふんと何食わぬ顔で聞きながら、その実姫乃はひどく緊張していた。家での格好を咎められたというのは、つまり彼が家に来たということだ。
「で、忘れもしない夏のあっつい日に某有名ブランドのセールに連れてかれて。あれは拉致ですよ、拉致」
「優しいじゃない」
「いやそんな綺麗なものじゃないです、アイツのあれは」
そこでゆかりがファッションの面白さに目覚めた――というわけでもないらしい。
「着心地が違うんですって」
そう言って部屋の隅に置いてあったハンガーラック(近所のリサイクルショップで先日購入したばかりだ)から何枚か選び出し、姫乃の両手に載せてくれた柔らかな布地は、
「本当だ!!」
思わず普段の敬語を忘れてしまうほどなめらかな感触で、ゆかりは自慢げに胸を張ったが、
「あらあ、本当。これは高いわね」
現役主婦の冷静な感想にしゅんと肩を落とした。なぜか声をひそめて囁かれた値段を聞いて姫乃は目をみはる。
「だから万年貧乏なんです。つまりあいつのせいなんです」
憤懣やるかたない、という表情で主張するゆかりの、しかし目だけは和んでいた。本当に彼らは仲が良いのだ。
コクリと唾を飲み込み、姫乃は何気ないふうを装って問いかける。
「維継さんとゆかりさんって、本当に付き合ってないんですか?」
「ないない!」
言下に否定された青年に姫乃はちょっと同情した。顔を合わせたのは引越しの朝の1時間にも満たなかったが、彼がゆかりを好いていることは傍目にもすぐにわかるくらいだったのだ。
「じゃ、じゃあ、先輩――トキさん、とか」
「それもないない!ていうかトキさん婚約者いるし」
あんな顔してベタ惚れだからね、と言われても姫乃は会ったことがないので答えようがない。ゆかりはああ、ごめんね、今度会うから写メでも撮ってこようかと続け、そして、
「なあに姫乃ちゃん、そういう話題が気になるお年頃なの」
ニンマリと笑った。思わぬ反撃に耳のあたりが熱くなる。
「そ、そういうわけじゃ、」
「いいのよー修学旅行の定番だもんねー聞くよー悩みとかあったら」
「…………じゃあ」
これまた予想外の展開だったが、姫乃にとっては悪い流れではなかった。どうにかして彼女の気持ちを確かめたい自分にとっては。
すう、と息を吸い込んでクッと腹に力を込める。声が震えそうになるのを何とか堪えた。
「ゆかりさんは好きな人いないんですか」
いつも余裕の笑みを崩さない年上の女性は――意外な反応を見せた。
「……今はほら、仕事がこいび」
「湯気吹きそうな顔して何言ってんの」
ツッコミを入れることすら馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに肩をすくめてコクテンが呟き、
「こ、これはチョコが」
「チョコはお酒と違うわよゆかりちゃん」
すかさず雪乃が退路を絶った。あざやかな連携プレーに姫乃は内心で拍手を送る。そしてとどめを刺したのは、
「ユカリ、すきなひと、いるの?」
なんと普段は自分からゆかりに話しかけることのめったにないアズミだった。つぶらな瞳は水を得た魚のように輝いていて、やはり幼くともこういう話題に興味があるのか、と姫乃はひっそり驚く。
さて、4人の女性に包囲網を固められたゆかりはしばしあたふたとしていたが、
「ほら、チビも聞きたいってよ」
「アズミ、ちびじゃないもん!!!」
「いいじゃないゆかりちゃん、秘密にするから」
てんでに囀る女たちを順番に眺め、
「……ゆかりさん、」
言いだしっぺの顔を穴のあくほど見つめたのち、
「じゃ、じゃあ」
先ほどの自分のように小さく息を吸い込んだ。
「交換条件。――姫乃ちゃんの好きな人を教えてくれるなら、いいよ」

即座に不満を唱えたのはコクテン。
「えーそんなの、わかりきっ」
「うん、コクテンちゃんのもあとで聞いたげるから――痛っ」
口を塞がれた皇帝コウモリはもがき、逃れるためにゆかりの腕を引っ掻いたようだ。自由になった彼女は音を立てて大きな翼を広げ、さらに腰に両手を当てて誇らしげに宣言する。
「私が好きなのはね、キヨイ!!!」
「うん知ってる。あのねえ、堂々としてるのは素晴らしいと思うけど風情がないよコクテンちゃん」
「だからアンタがキヨイ好きだったら殺す」
「また一足飛びだな!!好きになる権利もないんですか!!……いや大丈夫だから、キヨイさんじゃないから安心して、そんな目で見ないで」
途端に剣呑なオーラを立ち上らせるコクテンをなだめるように笑いかけ、ゆかりは姫乃のほうを向く。その右の肘の内側に赤い線が何本か見えた。今しがたの攻撃の痕のようだ。
「どう?姫乃ちゃん」
「わ、わ、わわわ」
「あら、どうなの姫乃」
「ヒメノー」
「明神でしょ」
「わた、わたしは……ってコクテンちゃん!!?」
コウモリの少女から放たれた言葉はたしかに真実であったけれども。
それこそ火でも噴くかと思われるほど、全身の体温が上昇する。
クラリと視界が揺らいだ。
今にも倒れそうな姫乃を支えるように手を伸ばし、元々話題の中心だったはずの女性は、
「あー……大丈夫、なんとなくわかってたから」
心底申し訳なさそうに肩をつぼめた。しかし今の台詞は聞き捨てならない。
「なんとなく、って、え!?」
「アンタ自覚ないの?」
「自覚、て、何、そんな、ええええええ」
場が収まるにはしばしの時間を必要とした。そして。
「わ、わ、わたしも話したんですから、ゆかりさんも」
何杯目になるかわからないオレンジジュースを飲み干し、未だ動悸を抑えかねながらも姫乃は振り絞るように言った。厳密にはバラされたというほうが正しく、だからゆかりはそれを拒否することもできたはずだが、いつでも公平な作家はあくまで結果を重視するらしい。やはりうっすら頬を染め、それでも背すじを伸ばして姫乃を見た。
「わかった、わかった……あのね、私が好きなのは」
口元が傍目にはわからないほど僅かに緩む。
「ガク、さん」
姫乃の時とは比べ物にならない嵐が場を駆け抜けた。

「なんで、なんでみんなちょっと引いてるの!?」
「いやー……正直ないわ」
「あら私はいいと思うわ、お似合いよ」
「ユカリ、ガクがすきなの!!」
「ありがとうございます雪乃さん、ってアズミちゃん声が大きい!!」
雰囲気に呑まれてテンションが上がってしまったらしいアズミは、ゆかりに追われてきゃあきゃあと楽しそうにはしゃいでいる。彼女が言った《みんな》というのは実際のところ不正確で、半分は全くその恋に好意的である。
もちろん姫乃とて他人の恋路に口を出すような野暮はしない。しないけれども、
「ゆかりさん、は、すごいと思う」
ようやっとそんなふうにしか言えない程度には衝撃を受けていた。だってあのガクだ。うたかた荘一、感情をこじらせやすいMr.ガラスのハートその人だ。姫乃の場合、第一印象が最悪だったせいもあるかもしれないが、ゆかりとてその出会い方に大差はないはずだ。
想い人が重ならなかったという安堵は、今のところ遥か彼方に飛んでいた。
「だいたいアレ、霊よ。死んでるのよ。子供だって作れないわよ、そこんとこは」
「やだもうコクテンちゃん!!!発想が先を行き過ぎ!!!」
「本気で突き飛ばすな!!」
危うく窓の外に落ちかけたコクテンの手を引きながら、ゆかりはふと真面目な顔になった。
「そうだよね。霊なんだよね、あの人」
「……は?」
「や、正直忘れてた」
「……え?」
「だって私にとって、全然生きてる人と変わらないんだもん。でも、そうね」
考えるような目の色になり、ゆかりは慎重に言葉を選びながら言う。
「古今東西、異類婚姻譚は腐るほどあるし。それに日本は雪女と結婚しても子供ができたり、狐と人のハーフが出世したりする国だし、イザとなれば案外大丈夫じゃない?」
「言ったあとで照れるな!!!あーもう」
ゆっくり地上に降り立ち、布団の上に寝転んだコクテンは、
「まあいいわ、キヨイのことが好きじゃないんなら。どうでも」
興味を失ったように目を閉じた。
「あらあらコクテン、お布団掛けないと風邪引くわよ」
こういうところがゆかりの常識を破壊しているのかもしれない、と思いながら姫乃は手に持ったままのコップを卓袱台に戻した。中身はもうすっかり空だ。
「でもそう、意外だったわ。本当に維継君じゃないのね」
「なんかよくそう言われるんですが、女の親友が男ってそんなに珍しいですか?」
「ううん、二人の仲の良いのはよくわかるの。ただ、なんとなくだけど只ならぬものがあるような気がしたから。……二人の間に」
ピタリとゆかりの動きが止まる。じゃれていたアズミが不思議そうに見上げる。
姫乃の位置からは背中しか見えなかったけれど、さっと空気が変わったのがわかった。
「……ごめんなさいね、もうこの話は」
「いえ、いいんです」
思いがけず強い口調に、ほんの少し母がたじろいだ。こちらに向き直ったゆかりは一転、真剣な表情をしている。真剣で――切なげな。
「タダナラヌモノは、あります」
応えが返らないのは承知の上か。
「雪乃さん、いつか私が言ったの覚えてますか?もう潮時なのかもしれないって。……今さら《取り戻して》いいのかわからないって」
「……ええ」
「もしかしたら全部繋がっているのかもしれませんね」
そこでゆかりはふっと笑った。悲しそうでも嬉しそうでもない笑みだった。
その表情のまま、外を見る。上向きに傾けた首は夜空に白く光る穴を探しているようだったが、やがて諦めたように顔を下げ、柱に掛かった時計を確認した。午前1時。いつの間にか随分時間が経っていたようだ。普段ならとっくに寝付いている時刻だが、姫乃に眠気は欠片もない。
「アズミちゃん、眠くないの?」
少女はフルフルと首を振った。
「姫乃ちゃんは?」
「大丈夫です」
「夜ふかしはお肌に悪いよ」
「若いので」
クスリと笑った瞬間だけ、ゆかりの周りの空気がほどける。
「どうですか、雪乃さんは」
「大人だから大丈夫よ」
「そうですか。……じゃあ、せっかくだから聞いてもらえますか。女の子の秘密の話」
あまり面白い話ではありませんが、という前置きに母は黙って立ち上がり、新たにジュースを注ぎ直すとめいめいの前に置いた。目礼し、ゆかりは静かに口を開いた。
「今はこのとおり幽霊に恋をしている私ですが、昔は普通だったんです。フツウに、生きている男の人が好きでした」
柔らかな表情はハッとするほど美しく、場違いに姫乃は胸の中が焦げるような感覚を覚える。
彼女は明神のことを好きなわけでもなんでもないのに。
「彼と維継は親友でした。京都の高校から揃って同じ大学を目指したという二人に私が出会ったのは、大学一年生の春」
昔語りを聞き終えた自分が、この感情を心底恥じるということをまだ姫乃は知らない。
「彼は光でした。生まれてこの方、私が閉じ込められた暗闇を照らしてくれた一条の光」
今、自分が嫉妬したうつくしさが、
「やがて光は闇を破壊して、だから私は彼を失いました」
どんな経験に裏打ちされたものかを知ったその時に。




(2013.1.12)

モドル