教室の窓の外、葉桜が弱い風に枝を揺らすのを見ていた。
むわりと篭る空気のせいで息がしづらい。いつかどこかで嗅いだような独特の臭いが鼻をかすめ、ゆかりは臆面もなく顔をしかめる。
だいたい部屋の広さに対して、今ここにいる人数が多すぎるのだ。ロの字型に組まれた長机のどの辺の前にもきっかり4人ずつが腰掛け、ホワイトボードの前に立ってそれを眺め渡したまだ若い助教授は、興奮した口調で今年度の受講生の多さへのよろこびを語り続けている。
「歌舞伎に興味を持ってくれる若い人がこんなにいるなんて、」
その《若い人》達とそう年の変わらなさそうな彼は、いわゆる美形でこそなかったが親しみやすい優しげな顔立ちをしており、生徒たちの多くが興味津々で己を見ていることには気づいていなさそうだった。おそらくそういうところも好印象に繋がっているのだろう。斜向かいに座っているバサバサした睫毛の女が潤んだ瞳で彼を見つめているのに気づくに至って、ゆかりは完全にやる気をなくした。
何が授業だ、大学だ。
意味もなく天井を見上げ、蛍光灯の眩しさに目を細める。ジョキョウジュの声が遠くなる。
研究棟と名の付いたここは昨年だか一昨年だかに建て直されたばかりだそうで、真っ白な壁と密閉性の高い空間が病院を思わせた。靴の裏で音を立てて擦れるリノリウムの床もだ。こんなところで講義がなされると知っていたらばけっしてこの授業を選びはしなかった、とゆかりは思う。
そもそも芸術科すらない学部でどうしてカブキの研究など行う授業が成立するのか。
一年次からゼミ形式という敷居の高さに加えてその内容、これは確実にクラスメイトが少ないだろうと見込んで選んだ授業だというのに、なんだこの有様は。
と、ポン、と軽く右肩を叩かれ、不機嫌な新入生は我に返った。
「次、どうぞ」
ゆかりが脳内で悪口雑言を並べている間に、教室では生徒の自己紹介の時間が始まっていたらしい。
ニッコリ微笑みながら耳元で囁いた茶髪の男を数秒見つめ、何も言わずに正面に向き直れば、ざわりと周りの空気が揺れた。困惑はやがて冷ややかな視線に変わる。
幾度となく経験してきたことなのに、胸の奥がかすかに痛むのはどうしてだろう。
もういいかげんに慣れなければ、とひそかに己を鼓舞して口を開く。
「化野ゆかり、趣味はオカルト研究です。よろしくお願いします」
誰の顔も見ないようにして一息にまくし立てると、俯いたまま座り直した。
もはや完全に凍った空気を溶かすようにジョキョウジュがつまらない冗談を言い、皆、沸いた。

空耳だと思ったから振り向かなかった。なのに声はどんどん近づき、
「化野さんてば!!」
正面に回り込まれてゆかりは不承不承足を止めた。
「大声で人の名前を連呼しないでください。迷惑です」
「だって全然止まってくれないんだもん」
悪びれずに言うのは先ほどの授業でゆかりの隣に座っていた男。
身長はゆかりとさほど変わらない(とはいえゆかりもけっして背の低いほうではないから、大学生男子としては平均並というところだろう)。ピンピンと撥ねる明るい茶髪はただ単に元々の色素が薄いだけのようで、その証拠に瞳も似たような色だった。猫のように大きな、やや吊り気味の眼。
太さのまちまちなボーダーラインが入ったTシャツに膨らみのあるベストを合わせ、足元はスニーカーというごくラフな服装は好感が持てなくもなかったが、全体的にどうにも色味が白っぽい彼は夕暮れの日差しの中で妙に儚く見えた。声も表情も底抜けに明るいからなおさらだ。
修学旅行で訪れた寺院で嗅いだような、甘い香のかおりを感じたのはほんの一瞬。
「あ、俺、月宮です。月宮依」
「どうせ忘れるから名乗らなくていいです」
「さすが、ブレないね」
「は?」
「そんなに怖がらなくていいのに」
睨むゆかりの視線に臆すことなく男――まだ少年と言っていいほどの風貌だ――は続ける。
「オカルト研究はよかったね。ふふ、黒魔術とかだと逆にヘンなのが釣れちゃうか」
「あなた、何を」
「そのメガネ、伊達でしょ。でもそんなに前髪伸ばしてると、ホントに視力下がっちゃうから切ったほうがいいよ」
「ちょっと、」
「すごいの憑けてるね」
ゆかりの肩のあたり――いや、そこからやや逸れた背後を指差して彼は言う。
一瞬で正しい漢字に変換できてしまったのは今までの経験故だった。
「でも俺は大丈夫だよ」
そんなゆかりも、続く言葉が何を意味しているかは理解できない。
「何言ってるかわからないって顔してるね」
そこで彼の表情が変わる。母が子を見るような優しい眼差し。
「俺は、死なない」
二の句を継げないゆかりを尻目に彼は身を翻した。
「ここじゃなんだから。来て」
相手が付いてくることを微塵も疑っていない足取りで離れて行く背中を、気がつくと追っていた。
フラフラとおぼつかなく歩く自分の姿はさながらハーメルンの笛吹きに拐わされた子供か、
生まれたての雛が母鳥を追うようであったろうと、ゆかりはその後何度も思い返すことになる。
春の暖かな空気、柔らかな金色の光。
季節特有の華やかな香りが優しく世界を覆っていた夕方。

手渡されたスチール缶は素手で持つには熱いくらいで、
「ココアしかなかった。ごめんね」
すまなさそうに頭を下げ、少年は自分の分のプルトップを倒す。
「ど……して」
「ん?ああ」
ゆかりと手の中の缶を見比べ、ほんの一口中身を口に含んだ彼はずいぶんと幸せそうな顔をした。
「えーと、どこから話せばいいかなあ」
気の抜けた顔つきで暫く考え込み、
「ツキゴって聞いたことある?」
零れた言葉は外国語のように響いた。
「つき……ご?どういう字を書くんですか」
「憑き物の憑きに、守護霊の護。あーやっぱり知らないか。ええと」
少年は小首を傾げ、腕を組んだ。そのまま考え考え言葉を紡ぐ。
「簡単に言うと、生身の守護霊。生きた人間なんだけど、他の人を護る力があるの」
「……どうやって」
「おー、いい質問だ。オカルト研究者は伊達じゃないね」
「ふざけないで」
「ごめんごめん。っとね、方法としては《その人にかかる不幸を代わりに受ける》――そうか、守護霊っていうよりは人形(ひとがた)って言う方がわかりやすいね。そう、人形人形。依り代」
そこで自分の顔を指差し、
「依」
教室で見せたような笑顔になる。
「……は、」
最初に覚えたのは訳のわからない怒りだった。
「何、そんな、笑いながら言う話じゃないでしょう!!」
怒鳴られた少年は目をみはり、
数秒の沈黙ののち、花が咲くようにその表情は和らいだ。
「ありがとう。化野さんは優しいね」
「ばっ、」
急激に頬に集まる熱を感じ、ゆかりはぱっと顔をそらす。
彼女の行動に言及することなく、少年は柔らかな声音で話を続ける。
「厳密には憑き護とはまたちょっと違うんだ、ウチの家系は。《彼ら》は土地を護る。京都とか奈良とか、あとまあ東京もそうだけど、霊的な磁力が濃い場所に住むのがお役目ね。対してウチは正真正銘、人を護る。ことを商売にしている」
「……それは」
「儲かるもんじゃないよ。不幸背負った人からそんなにお金は取れない。ただ何十年かに一度、大口の仕事が入ることがあって、まあそれのおかげでなんとかやってた感じかな。経済的にも、名誉とかそういう部分でも」
「やって《た》?」
少年は軽く肩をすくめた。
「そう、オヤジの代で廃業したの。今は実家は焼き鳥屋です。うまいよ、今度帰省するとき一緒に来る?」
冗談めかしたその口調に気をそらされそうになったけれど、
「どうして、じゃあ、あなた……名前」
踏みとどまったゆかりの、肝心の質問部分を省略した言い方で、しかし彼には十分伝わったようだ。
「何しろ長く続いた家業だからね。やめます、はいそうですか、っていうわけにはいかないんだ、これがなかなか。実際、今でもいろいろあって……ただたぶん、俺が最後になる。依の名前を受け継ぐ人間は、俺で」
「……長男だからその名前を付けられてしまった、とか?」
彼のように特殊な理由を持つ家系でなくとも、長く続いた一族にはそれこそ《いろいろ》あると聞く。たとえば廃業をよく思わない一部の人間の画策で、家を継ぐ者としての運命を生まれながらに背負わされたのだろうか――というゆかりの予想はある意味で外れた。
「ううん、この名前はそうそう付けられるもんじゃない。何でもお母さんのお腹の中にいるときに生まれる子が《そう》だっていうのがわかるらしいよ。うわ、一気に胡散臭くなったね」
苦笑し、眉を寄せる顔は、いつの間にか灯った外灯の下でくっきり浮かび上がって見える。男性にしては肌理の細かいその肌を眺めながら、ゆかりは必死に頭を働かせた。
《依》と名付けられる子供の条件。資質。
彼の説明と今の口ぶりからすれば、考えられるのは、
「力が……強い?」
「その通り。なおかつ《依》が生まれればそれはさっき言った大口の仕事が入るっていう印、だったらしい。ただ俺はね、耄碌した爺さんがいろいろあってフライングで名前付けちゃったみたいなところがあるから、実際はどうだかわかんないけど。そもそももう仕事も受けてないし……ただ力が強いっていうのは本当なんだよ」
そして古の血を継ぐ少年は穏やかにゆかりを見つめた。
「はい、前置きが長くなりました」
彼の背後、外灯のオレンジ色に照らされた植え込みが作り物のような輝きを放っている。
「で、ようやく君の話だ。君の背負っている不幸を、俺は減らしてあげることができる」
一瞬でゆかりの思考は真っ白になる。
「…………嘘」
「で、こんなこと言わない」
「だって、今まで、誰も……《それ》が何かすら」
「水、だね。水神系。血――家系じゃない、君自身に憑いてる。ただ相当年季入ってるから、きっと君の責任じゃないな。……そして」
流れるような返答をゆかりは呆然と聞く。物心ついてから十数年間、知りたくて知りたくて、でも誰も教えてくれなかった、あの父ですら解明できなかった《答え》を。
デタラメかもしれない、口から出まかせを言っているだけかもしれない。この時点ではまだそう疑うこともできた。しかし続く言葉は決定的だった。
「たぶんだけど、お母さんは亡くなってるね。それにお祖父さんとお祖母さんも。どっち?父方……か。じゃあ母方は元々縁がない、と」
「どうして」
鳥肌が立った。
「なんとなく見える、としか言い様がないかな」
ごく普通の少年にしか見えない彼は、困ったような顔で笑う。
「君の魂の色。君の魂が取り込んだ、他の人の魂の色。基本的には個人でバラバラだから規則性なんてないはずなんだけど、これまたやっぱりなんとなくわかっちゃうんだよね、亡くなった時のだいたいの年齢くらいは」
「取り込ん……だ?」
真っ暗な淵が見えた瞬間、
「人が生きていくために絶対に必要なモノってなんだと思う?」
いささか唐突な質問によって、ゆかりの意識はかろうじて現実に留められる。
「必要……ええと、食べ物……水……服……寝床、」
「ごめん、聞き方が悪かった。精神的な面でお願いします」
「…………文化、とか芸術、とか」
「うーん、ちょっと限定しすぎ。間違ってはいないんだけど……正解は、愛」
「……あい?」
「そう。意外?」
ちょっと考えて首を振るゆかりを見、少年は満足そうに頷いた。
「人は一人じゃ生きていけないって言うでしょ。人と人が相対する時、そこでは愛情の交換が行われている。親の愛情、子の愛情、恋愛だったり友情だったり、形はさまざまあれど人は人からそれをもらったり、また返したりして生きていくための栄養を得ている。そしてその観点から言わせてもらえば、君の魂は砂漠……いや、ブラックホールと言ってもいいくらい、それを欲する力が強い」
「じゃあ」
「繰り返しになるけれど、君のせいじゃない。君に憑いているモノのせいだ」
「私が……私の魂が、あいじょうを奪いすぎるから……?」
「君の魂とほとんど同化しているカミサマが、傍にいる人のそれを、君がその人に返す以上に求めるから」
律儀に言い直して少年は真面目な顔になる。
「愛、すなわち生きていくためのエネルギー。それは運みたいなものとも密接に関係してくる。ストレスフルな生活をしている人がだんだん元気がなくなって、やることなすこと裏目に出てくるように、エネルギーが枯渇すれば悪いものを呼び寄せやすくなる。結果として……っ、ごめん」
「……あんた、さっきから謝ってばっかり」
そんな場面ではないことは百も承知だったけれど、乾いた笑いは心の奥から勝手に湧いた。
目を伏せた少年を下から覗き込む。澄んだ瞳がおそるおそる返す視線をまっすぐに受け止め、ああ、こういうのは久しぶりだ、と思う。
「辻褄は、合うね」
「……信じてもらえないかもしれないけど」
「正直、今は理解するのにいっぱいいっぱいだけど……あんたが一番、納得のいく答えをくれた。っていうか、あとは全部門前払いだったけどね」
だから、
「謝るのはむしろ私の方」
「じゃあお願い。俺に君のソレ、吸わせて」
「は」
「詫び料だと思って……あ」
白い肌が瞬時に朱に染まる。
「だ、大丈夫!今の言い方はアレだったけど、やらしいことはしないから!!」
「ば、何言ってんの!!そんなこと心配してるわけじゃないし!!」
「あ、そうか!!なんかごめん!!!」
「あ、あんた、なんでそんな」
つられて熱くなった顔を見せたくなかったけれど、目をそらすわけにもいかない。
これはきわめて重大事だ。
ゆかりの抱えているのがそれほどに厄介なモノとわかっていながら、この男は。
「おかしいでしょう、詫び料って。あんたが損するだけじゃない」
「いや、」
「だいたいそんな、神様とか、そんなもん吸っ……もらって、大丈夫なの」
「もちろん全部は無理だよ。ちょっとだけ、君が日常生活を普通に送れるようになるくらい。それでもいっぺんにはダメ、というか定期的に抜かないと」
まだほんのり目元の辺りを染めたまま、
「肩こりの人が整体に行くでしょ、あんな感じをイメージしてもらえればいい。君レベルならそうだな……たぶん週一で何とかなる」
少年は真摯に言葉を繋いだ。
「何でそこまでしてくれるの」
一度に大量の情報を流し込まれたゆかりが言えることといえばそれくらいで、
「それが俺の生きがいだから」
「……なによそれ」
くるくると表情を変える彼は、今度は子供のように無邪気に笑う。
それはどこか人間離れした笑みだった。
「俺、大事な人とか作れないから。家庭の事情で」
けっして拒絶の響きはないのに、そこには一切の質問を許さない空気があった。
「それでも俺も生身の人間、さっき言ったみたいに生きていくためには愛情の交換が必須だ。だからこの溢れ出る博愛精神を万人に向けないと俺の命が立ち行かない。人助けは趣味と実益を兼ねたライフワーク……それじゃダメ?」
甘えるような口調の底に、どうしようもなく横たわる冷え冷えとしたもの。
同じだ、と思った。
この人は同類だ、と。
「…………証拠を、見せてくれるなら」
「証拠?」
「私と関わりを持っても、あんたが死なないっていう証拠を」
「……わかった」
後ろを向いて、俯いてという指示にゆかりは素直に従った。

「今、お父さん、入院してるでしょう」
まだほんのりと温かい首すじをしきりにさするゆかりを見ながら、さらりと依が口に出したのは相も変わらず彼が知り得るはずのないこと。
動きを止めたゆかりに、畳み掛けるように彼は言う。
「来週、授業で会う時にはいい知らせを聞けると思う。君から」
だからまた、その時にね。
ゆっくりと立ち上がった彼が体力の消耗を隠しているのだと、その時はまだ気づかなかった。

***

「つ、月宮君」
「あ、おはよう化野さん」
あと数分で授業が始まるその教室はピタリとざわめきを止めた。
睫毛女の視線を痛いほど感じながら、それでもゆかりは勇気を奮い起こして先週座った席に近づく。
「うん、髪切ったんだね。そのほうが可愛いよ」
彼の隣に座っている黒髪の男が何やら喚いているのは極力耳に入れないようにしながら、
「父が退院しました。先週末」
言えば依は嬉しそうに破顔した。
「おめでとう!じゃあ今日はお祝いだね!」
まあ座って座ってと椅子を引かれ、その仕草一つに胸をときめかす自分が彼に恋をしたのだと、
自覚するまでにそう時間はかからなかった。

結局、共に過ごしたのはほんの10ヶ月。
来年は一緒に花見に行こうという約束は果たされないままだった。



(2013.1.21)

モドル