*** 電灯が二、三度チカチカと瞬いた。 「あ、……そろそろ換えなきゃね」 畳に踊る薄い影を見やり、つと顔を上げたゆかりは納得したように一人頷く。 「ちょっと暗くなるよ、ごめんね」 普段通りの声で言い、すっと立ち上がった彼女は紐を引いた。一瞬の闇。 ふたたび明るくなった室内で、姫乃は先ほどのゆかりのように仰向いてドーナツ形の灯を見守る。 「うん、とりあえず大丈夫かな」 足を崩して座ったゆかりは一同を見回し、照れたように笑った。 「今さらながら恥ずかしいわ、黒歴史を開陳するのは」 二言目には黒歴史黒歴史と彼女は言うが、姫乃はけっしてそんなふうには思わない。恥ずかしいことなんてひとつもない。 似たような話をいつか聞いた。周囲の人間(と、人でないもの)を怖がり、野良犬のように牙を剥きだして生きていたある少年の物語。姫乃がずっと片思いしているあの人の、すこし昔の思い出。 彼のヒーローは黒いコートを纏い、サングラスで瞳を隠して太陽のように笑う人だったという。 真っ黒な短い髪は案内屋としては劣性のあらわれだったはずだが、天才的な剄のセンスでかつて歴代最強の空(キャ)の戦士と呼ばれた男(ひと)。 ひとりぼっちだった少年を導き、温かく見守り、居場所を与えたその人は――もういない。 「彼のことを思い出す時、それはいつもヨルなんです」 母がわずかに目を細めた。 「おかしいですね、会うのが必ず夜だったというわけでもないのに。名前と同じ音だからでしょうか。でもそれも自分の中ではしっくりこなくて」 言葉を切ったゆかりはほんの少し考えるように遠くを見た。 「……どこか闇になじむ子でした。普段はうるさいくらいに明るいのに、暗がりのほうがよほど生き生きとして見える。その時は気づかなかったけれど、私はずっとそれが悲しかった」 全体に色素が薄いという少年の姿を姫乃は心に描いてみる。笑えば笑うほど儚いなどという奇妙な人種に出会ったことはなかったから、その姿は陽炎のようにモヤモヤとするばかりだ。 陽炎のように、あるいは幽霊のように。 「彼にまつわる印象深い出来事があったのも、そういえばたいてい夜だったような気がします。彼の《家》のことを聞いたのはその年の8月の初め、維継と三人で河原で花火をした後のこと」 *** 「もう田中君にお酒飲ませないで」 「俺には無理だよ化野」 ため息をつき、少年は缶チューハイをぐいとあおった。 「なんでよ、あんたたち親友でしょ。友達の過ちは正していきなさいよ」 恨みがましく言えば、彼はガックリと肩を落とす。 「だってあいつお酒大好きじゃん……」 「だったらもっと大切に飲めっての……」 「全くだよ」 互いに情けない顔を見合わせ、沈黙。先に吹き出したのはゆかりの方だった。 「まあとりあえず家には帰したわけだから、後は知らない。維継が明日、二日酔いに苦しもうがどうしようが知ったこっちゃない」 ふいとそっぽを向いた友人は冗談めかした口調でそんなことを言う。 「冷たいな、親友」 「知ってるかい化野、酔いつぶれた人間って超重いんだぜ」 遠い目で呟く彼の手に握られた缶をちらりと見やり、 「依はお酒強いんだね」 なにげなく聞けば少年は朗らかに笑った。 「清めの儀式とかさ、だいたい日本酒でしょ」 「え、てことは」 「野暮なこと聞かなーい。今だって化野はギリギリアウトじゃん」 「っ、依は」 「俺5月だもーん」 そう言って下手な口笛をヒョロヒョロと鳴らす彼が、初夏の緑の下に佇む姿を想像してみる。意外に似合うような、そうでもないような。いや、そんなことよりも今は、 ――誕生日、いつかな。 恋する乙女の端くれとして、想い人のそれが気になるのは当然のこと。何とか自然にその話題に持っていこうとゆかりは上手い言葉を探す。 口を噤んだ彼女を不審に思ったか、明後日の方向を向いていた依がこちらを向いた。 暗がりの中、はねた髪のシルエットは意外なほど近くにある。 瞬間、息が止まった。 二人が腰を下ろしているのは一帯でも目立って大きな橋のたもとで、一番近くの街灯までは少しばかり距離があった。薄暗いこの場所は、だから夏ともなればあちらこちらからカップルが集まってくるスポットでもある。今日は珍しく誰もいないが―― 「よ、」 「化野は実家帰んないの?」 空気が緊張をはらんだのはほんの二、三秒。 色を帯びかけたそれに気づかぬように依はくしゃりと笑い、もう一度手の中の缶に口を付ける。 「……依は」 「顔見せてあげなよ。大丈夫だから」 「……帰る、よ」 その先に続けなければいけない言葉はわかっていた。 「……あ、」 「いいってことよ親友!」 「は?」 突然バシバシと背中を叩かれ、ゆかりは危うくビールを零しそうになる。 「お土産はままどおるでいいから!」 「それは福島だ!埼玉なめんな!!」 「冗談だよー草加煎餅でよろしく」 そしてガサゴソと足元のビニール袋から新たな肴を選別する作業に取り掛かった友人の横顔をゆかりはしばらく見つめていた。 「じゃがりこ開けていい?」 「いいよもう好きにしてよ」 能天気な声に深くため息をつく。どうしたの?という無邪気な質問に答えてやるつもりなど毛頭ない。 「で、依は帰んないの」 「うん、お盆は時期が悪いから」 「……時期」 まるで何でもないことのように言われたからこそ、気にかかる響きがそこにはあった。 「うるさい親戚連中が押しかけてくるんだよね」 「それは」 「墓参り、なんて殊勝な理由ならまだいいんだけど。えーっと、どこから話せばいいかなあ」 珍しく眉を寄せて困った顔を作る彼が、本当はこの話をするタイミングをずっと窺っていたのだと気づいたのはそのおよそ半年後。 おそらくは二人の間に生まれた淡い色の空気が引き金になったのだと、その時のゆかりはまだ知らない。 「ウチには偉大な祖母がいて」 少年はその話をそんなふうに始めた。言葉のわりに誇らしげなところは全く見られない。 「彼女は歴代の《依》の中でも一、二を争う力の持ち主だった。祖母が生まれた時、居合わせた大人たちは皆、慄いたそうだよ。これほどの器、この子が成長した暁には一体どれほどの厄が――ああ、俺たちはそれのことを《厄》って呼ぶんだ――この国に降りかかるんだろうって」 数多のわざわいを厄と称し、それを払おうとする考え方は日本人としてなじみ深いものだった。だからその呼称とは別の部分にゆかりは一つの疑問を覚え、頭蓋をカクリと傾ける。 「前に言ってた《大口の仕事》ってヤツのこと?」 「そうそう、よく覚えてるね」 「でも依の家は《人》を護るんでしょ?《国》……《土地》を護るのは、その、ツキゴ?とか他の人たちの役目なんじゃあ」 「その人を護ることが国を護ることに繋がる」 「……そんなに、偉い人、を?」 「今は人だけど、祖母が生まれた頃は神様だったよ。……もうわかった?」 それはあまりに簡単な謎かけ。 目を見開いたゆかりに、依は唇の端をちょっと上げた。 「言っとくけど、俺は街宣車で軍歌を流す人たちみたいな思想を持ってるわけじゃない。俺も、俺の家の人たちも。ただそれが事実だというだけ」 「聞いたことはあるけど」 日本人の精神的支柱とも言える彼らが、実際に目に見えない世界に対して強い影響力を持っているという説。彼らはいわば神官の末裔であるからして、不思議なことではないのだが。 「正直、眉唾だと」 「だよねえ。本当は俺もよくわかんない。お堀端にでも行ったら実感するのかもしれないけど」 ま、とりあえずそういうことなんだと思っててよ。 少年は足元に缶を置き、右肘を曲げて膝で支え、そこに小さな顎を乗せた。 「その……ひ、と、に降りかかる厄を代わりに……受ける?」 「祖母が亡くなったのは8月15日だった、そうだ。もちろん昭和20年の」 無言のゆかりに依は小さく笑いかける。 「戻ったのはこれだけ」 空いていた左腕を軽く振る。シャラシャラと涼しげに鳴る数珠に似たブレスレットは、魔除けとかそういった目的のものだと思っていたのだけれど。 「代々の《依》に受け継がれる、《力》を抑えるためのもの。コレを外せば、ソイツが全部解放されて」 「……《厄》を受ける」 「よくて発狂、悪けりゃ死亡。そもそも、そのとんでもなく強い力を以てして受けなければいけないほどのわざわいだ。人身御供と変わりない」 「……お祖母様は」 「骨すら残らなかった祖母を、一族の一部の人間は崇拝している。そういうのが来るから面倒なんだ、盆は。ウチ、一応本家だから」 それは。 ふと生ぬるい風が首すじのあたりをかすめたような気がした。同時に背すじをつうっと伝う汗はひどく冷たく、ゆかりは自分が何を求めるのかわからないまま空の左手を宙に泳がす。 「依」 「大丈夫、俺にそこまでの力はありゃしない。万が一、この力を解放したとしても死ぬようなことはないだろう。それに俺は託宣を受けた本物の《依》じゃない」 唐突に変わった語調に目を白黒させるゆかりをちらりと見、 「《依》は本来、女なんだ」 呟いた彼の言葉の意味を理解するには時間がかかった。 「月宮の一族は女系で、その象徴たる《厄を負う》性質も女にしかあらわれない。男はそうだな、霊が見えるとか多少の払う力があるとか、それに付随するような能力を持つことが多い。稀に全く何の力も持たずに生まれてくる子もいるけど、そういう子は大概早く死ぬね。どうしたって家の中に溜まっていく穢れに負けちゃうんだ。ウチの場合、妹――麻美子ってんだけど、妹がそうで、だからアイツ、今は親の知り合いの家で暮らしてる。あれ、戸籍上はもう養女になってるんだったかな?」 《依》は女。けれど、依(かれ)は男。 矛盾する情報に軽く目まいを覚えつつ、ゆかりは話に置いていかれまいと拳をグッと握りしめる。 「じゃあ、依は――えっと、あなたは、」 「大事な大事な一人娘のお腹にいるのが女の子らしいってわかったくらいから、祖父の様子がおかしくなりはじめた。その子は亡き妻の――月宮の永い歴史の中で一番偉大な役目を果たした《依》の――生まれ変わりだって言うんだ」 「……おんなのこ?それは」 「代々世話になってる医者が太鼓判を押したそうだよ。でも生まれてみたらこの通り」 「それは、あなたの話?」 「そう、ワタシの話」 ニコリと笑った顔はほの白く、どこか妖しげな美しさをさえ孕んで見えて、ゆかりは急いで頭を振った。 「出産には丸一日かかったそうだ。取り上げた産婆さんに男の子だって告げられて、母は相当安心したみたいだけど、爺さんの奇行は止まらなかった。――まあ、その後すぐに《力》のことが発覚して、哀れな母は長らく床に伏せることになっちゃうんだけど」 「……お祖父さまは何か、その」 「いや、あのひとが何を以てその確信に至ったのかは結局わからなかったみたい。そもそも本来、次に生まれる子どもが《依》だっていう判断の根拠になるのは夢――母親がね、夢を見るんだって。その子がお腹にいる間、だいたい妊娠五ヶ月くらいまでが多いのかな。内容については伝わってない、ただそれを見た誰もが《お告げ》の夢だってわかるっていう、すごくアヤシい口伝なんだけど」 わずかに身じろいだ語り手の足が触れたか、それとも風のいたずらか。彼の足元のアルミ缶が乾いた音を立てて転がり、少し離れた草むらで止まった。 夏の夜の匂いが濃く香る。肌にまとわりつくような湿気を帯びた空気。 その奥でひそやかに鼻腔をくすぐるのは、初めて会った日と同じ甘い線香じみた香り。 それこそ《魔》を避けるために彼の家では、常時ある種の香が焚かれているのだと以前聞いた。実家の風習を忠実に守っているらしい依のアパートを訪れたことはなかったが、白檀に似たそれが体に染み込むほどに彼とそれとは切っても切れない関係なのだという。 《依はお寺の匂いがするね》――春の日の下、そう言ったゆかりに彼はただ笑うだけだった。 「俺の母にはそれがなかった」 だからきっと、俺は本当はこの名前をもらうべき器ではないんだ。 そう続けた横顔が寂しそうにも見えるのはなぜだろうか。 「元々祖父は、祖母を亡くした後ちょっとボケたみたいになってたから、何を言おうと周りは相手にしてなかったらしいんだけど……切迫早産で家族がてんやわんやな間に、家で留守番してたはずの祖父が勝手に役所に行って、書類出しちゃった。《俺の初孫は月宮依です!!!》って。あれなあ、性別は後で訂正できたのに、何で名前直せなかったかなあ」 依は困ったように眉を下げて笑った。 「また俺が生まれたのが祖母の誕生日だったんだよね、偶然にも」 フワリと鼻をかすめた硝煙の匂いは、先ほどの花火の名残だろう。 「あのひとは最期まで俺のことを女の子だって思ってたよ」 どこか遠くでサイレンが響き、それは尾を引きながら消えていく。 「前例からは外れている、けれど確かにその力を備えている。何がどうなって俺みたいなのが生まれたのか、本当のことなんて知りようがない。ただ、俺はもしも自分が祖母の生まれ変わりでも構わないんだ」 「かま……わない?」 「ただいずれにせよ俺は《正式な》依じゃない――たとえ前世でそうだったとしてもね――つまり今、この国に禍が降りかかる可能性はない。素晴らしいことじゃないか。加えて《力》を売ることをやめた今の月宮で、偉大なる依り代の生まれ変わりとして――少なくとも一族の一部に、もっと言えば一部だけど声の大きい連中に、そう信じられている者として、思惑の渦中にいる俺ができることといえばたった一つ」 今度のなぞなぞはわからなかった。わかりたくないだけだったかもしれない。 「俺は一生結婚しない。子供も作らない」 普段の彼からは想像もつかないような重々しさでなされた宣言を、 「時代にも家にも不必要な力を備えて生まれてきた俺の役目は、月宮(このいえ)を終わらせることなんだと思う」 ゆかりはただ呆然と聞く。 「ごめんね、急に。こんな重い話」 首を振るのが精一杯だった。 へにゃりと笑う彼との距離は相変わらず拳一つ分くらいしか空いていなかったけれども、今のゆかりにはそれが星と星とを隔てる遠さにすら思える。 「だからさあ、俺、化野に感謝してるの」 ことさらに明るい調子で言う彼の言葉をもう少し真剣に聞いていたら、 「正直、やり甲斐あるもん。俺の力を役立たせてくれてありがとね、化野」 この先に待っている結末を変えることができただろうか。 *** 「依が引いた一線を越えることなんてもちろんできないまま、秋が来て、冬が来ました。その頃には私もショックから立ち直っていて――若かったですしね――それでもいい、なんて思っていました。それでも傍にいられれば構わないと。馬鹿でした。自分が抱えているものの重さをすっかり忘れて、普通の女の子みたいなことを考えて、もしも今彼女に会うことができたら横っ面を張り倒してやりたいくらい」 深夜の静寂を背景に、初めてゆかりの声が震えた。 「最後の日――2月8日。でもその前日からそれは始まっていたんでしょう」 *** 「依!見て見て、月が綺麗だよ!!」 「一応聞くけどさあ、化野は文学部だよね?」 キョトンと見返すゆかりの瞳を避けるように依は明後日の方向を向く。 「それ、あんまりよそで言わない方がいいと思う」 「どうして?」 「どうしても」 急に歩調を早めた彼をゆかりは慌てて追った。すっかり歩き慣れた近所の道。大学が長い春休みに入った今日は、《施術》(と依はそれを呼ぶ)かたがたノートパソコンを見るためという口実で駅向こうにある大型家電量販店まで彼を付き合わせ、気づけばもう夕飯時に近い時刻だった。 吐き出す息さえ凍るような、身にしみる寒さ。冴え冴えと澄み渡る月の光が下界を静かに清めている。胸に迫るような物寂しさに、ゆかりは手を握りしめて己の脚を一つ打った。 「ん?どした?」 「ううん、大丈夫」 「……寒い時期は辛いね。まあじきに春だから」 《それ》の後は胸に穴のあいたような感覚に襲われることがしばしばあった。ゆかりの《厄》がゆかり自身の魂とほとんど同化してしまっている、そのせいだと依は言う。 「もう立春も過ぎたし」 「依、発言がおじいちゃんだよ」 「なんでさ!」 「今時の若者は立春がどうとか言わない」 「俺、そういうこと化野にだけは言われたくない」 「失礼な!」 「それはどっちだ」 じゃれるように笑い合いながらその実、ゆかりは息を殺すようにして距離をはかっている。自分と彼とが一番心地よくいられる境目。それが少しでも縮まれば、 「……お花見、行こうね。春になったら」 「ああ、うん。さっきのお店の近くの川沿い、きっと綺麗だね」 きっと、何かが変わる。 最寄駅から徒歩5分、安さだけが売りのボロアパートの前でゆかりは微笑んだ。 「ありがとう、わざわざ」 「どういたしまして。しかしいつ見てもここが東京都下とは思えない風情だよね、このあたりは」 「うるさいよ」 「東京詐欺と名付けても差し支えないと思う」 「オレオレ詐欺みたいな言い方をしない!!」 胸元を殴るようなフリをする。あくまでフリだ。 人に触れるのは、まだ怖い。 「じゃ、」 「あ、……次は一週間後でいいんだよね?」 「うん。都合悪い?」 「ううん」 もの問いたげな視線にはもちろん気づいていたけれど。 「じゃ、気をつけて」 「ありがとう。化野も風邪ひかないように」 歩き出して数メートル、依はふと足を止めて、 「化野」 振り向いた。 「……何?」 「…………ううん、何でもない」 彼の背中が見えなくなったところでしゃがみこむ。心臓はまだ大きく波打っていた。 「知らないわけ、ないじゃない」 腐っても作家の娘、I LOVE YOUの日本語訳くらいは常識の範囲内だ。 いっしゅうかんご。 少し前に口の端に上らせた単語をもう一度、舌の上で転がす。 吐き出された想いは白く立ち上って大気に溶けた。 頭上にぽっかり浮かぶ月は、まだ満ちるには一日足りない。 むせ返るような人いきれ。熱気と香水と、あと何が混ざり合ったらこんな空気になるのだろう。きらびやかな装飾を施されたワゴンの前でゆかりは半歩後ずさり、いやいや駄目だと右足を戻した。でたらめに掴んだ一つは目がチカチカするような配色のラッピングで、反射的に手を離す。 依は甘いものを好まないわけではない。ただしさすがは京都出身(と言うべきか?)、折々に彼の傍らにあったのは大福、かき氷、饅頭といわゆる和菓子ばかりで、チョコレートを口にしているのを見た記憶が驚くほどなかった。が、6日後の今日はそういう日だ。 ――日頃お世話になっているお礼だって言えばいい。 もし彼があくまで拒絶するそぶりを見せたら。 そんな後ろ向きだか前向きだかわからない腹案に連想ゲームで浮かんだのは、 ――お父さん、 近頃めっきり体調が良く、また娘が以前よりも《優しく》なったことにご満悦の父の姿。 依のことは話していた。一度会いたいと言う希望はまだ叶えられていない。とまれ、 ――今年はあげても大丈夫。 盆も正月も本当に《何もなかった》帰省を思い返しながら、それに貢献してくれた依に深い感謝を捧げ、ゆかりは目に留まった深緑色のパッケージを手に取った。 ツルツルした包装紙の手ざわりが心地良い。 店を出た時もまだ太陽の名残が薄く西の空の端に残っていた。ずいぶん日が長くなったな、とゆかりは思い、ポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出した。 パカリと開いて不在着信の表示に気づく。履歴を確認しようとボタンを押し、そこに並ぶ名前にゆかりの指が凍った。 化野達彦 化野達彦 化野達彦 化野達彦 化野達彦 化野達彦 混乱する思考を遮るように小さな機械が震える。画面に映った名前は同じ。 落とさないように左手を添え、どうにか通話ボタンを押す。 「……もしもし?」 「っ、よかった、ゆかりちゃん」 「…………霧島さん?」 送話口の向こうに響く別人の声に嫌な予感が倍になる。 父の学生時代からの友人という穏やかな彼は、たしかに父とよく会う機会があったようだったけれど。 「落ち着いて、聞いて」 焦燥を無理やり飲み込んだような声色に、キュッと心臓が縮む。 「お父さんが倒れた。くも膜下出血で、今、緊急手術をしている」 周囲のざわめきが消えた。 (2013.1.28) モドル |