最初に人を失ったのは、ゆかりが小学校に上がる前の年。 幼稚園の年少組から一番仲の良かった赤いカチューシャの似合う少女が、酔っ払い運転の車に跳ねられたその前々日、ゆかりは彼女と《親友の誓い》を交わしていた。 ホウセンカの汁で爪を染め、互いに互いを無二の友人と認めるその儀式を、ゆかりは父に読んでもらった絵本で知った。 「ゆかりちゃんは何でも知ってるんだね」 恥ずかしそうに笑った彼女はきっと、成長した暁には美しい微笑みで周囲を魅了する素敵な女性になっていただろう。 その未来を奪ったのが自分だと、さすがにすぐには気づけなかった。 両親の強い希望で柩の窓が開けられることはなかった。だからゆかりはその後長く、彼女を失った実感を得られずにいた。 昔気質で頑固な祖父は、それでも孫には甘かった。 「もう!隆史さんてば、またゆかりにお菓子なんか買って!!」 散歩の帰り道にある駄菓子屋で、祖父はいつでもナイショで彼の財布を開けた。のしいか、ジャーキー、うまい棒―― 「ゆかりは将来酒飲みになるな」 手を繋いだ祖父は上機嫌でお決まりの台詞を言う。 「そうしたらおじいちゃんと飲み比べしような」 海釣りに出かけた祖父がそのまま戻らなかったのは、ゆかりが七五三の祝いを終えたすぐ後だった。 結局遺体は上がらなかった。だから実家の墓にはただその名前だけが刻まれている。 「どうして、なんで」 墓石屋からの帰り道、泣きじゃくるゆかりの頭を父は悲しそうな顔でそっと撫でた。 伴侶を名前で呼ぶ祖母は、結婚当初はひどくおとなしい女性だったのだと言う。 「隆史さんがあんまりワガママだったから、こんなに逞しくなったのよ」 そう言って笑う彼女の目尻に浮かぶ深い皺。つい手を伸ばし、慌てて後ずさるゆかりを祖母は不思議そうに眺め、まだ小さな掌をしっかりと掴む。 「どうしたの?ゆかり、おなかすいた?」 いやいやをするようにかぶりを振るだけの自分の頬に祖母はためらいなく触れる。 「だめよ、子どもはたくさん食べなきゃ」 どうして母という生き物は人に物を食べさせたがるのだろうか。その愛情は待望の初孫にも惜しみなく向けられ、けれどその頃はもううすうす《仕組み》に気づいていたから、ゆかりはなるべく彼女の傍に近寄らないようにしていたのだ。しかし幼い決意がそう長くは保たなかったのは、腫れ物を扱うような同級生たちの態度によるところが大きかった。 いつしかゆかりの周りから人は去り、それは後年彼女がそうしたように自ら仕向けた結果ではない。 《化野ゆかりは呪われている》 七不思議よりひそやかに囁かれたその噂を知らない生徒は、少なくとも同じ学年の中にはいなかった。 曰く、同じ班になると怪我が増える。 曰く、話しかけると次の日不幸が起きる。 曰く、彼女と仲良くなれば必ず命に関わる事故に遭う―― デタラメだ、と叫ぶ気力はとっくに失われていた。 小学校を卒業し、そのままほとんど同じ面子で上がった中学校でも状況は変わらなかった。教師は気づかない、それはいわゆるイジメとは違った。子供たちは本気で彼女を恐れていたから、けっしてそれが表沙汰にならないように振舞ったし、課外のイベントやグループ学習では最低限のことはしてくれた。彼女のノートを集めた学級委員が、その後必死で手を洗っているところを見かけたことはあったけれど。 「ただいま」 「おや、おかえり。手洗ってきなさい、おやつあるから」 当然、部活動になど参加せず、まっすぐ帰宅しては勉強をするか本を読むだけのゆかりを祖母は何くれとなく構い、 「……おいしい」 「そう!また作ってあげるわね」 最低限、最低限と言い聞かせながらもその暖かさに知らず寄りかかっていたのだと気づいたのは、中学2年の秋も暮れようとする頃。 修学旅行と同じタイミングで互助会の旅行に出かけた祖母が、乗っているバスもろとも崖から転落したのだと知らせを受けた時、ゆかりは京都にいた。 ――神様、神様、神様、神様、 悲壮な顔の担任に見送られ、一人新幹線で東京に戻る間、 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、 同じ言葉を心の中で繰り返す光景を、今も夢に見る時がある。 ――もうしませんから、もう誰も頼りませんから、 ――おばあちゃんを返してください。 そこからおよそ6年間の記憶はあまりない。 高校は地元を選び、アルバイトに明け暮れて一人暮らしの資金を貯めた。 職場ではつかず離れず、できるだけ干渉されないように振舞った。 学校でもそうしたかったが、それでもまとわりついてくる子供はいるものだから、途中から路線を変更した。それは期せずして成功した。 そういえば幾人もの青ざめた大人の顔を見たのもこの時期だったか。 彼らの多くはごく普通のスーツかそれに類するカッチリした衣服を着込んでおり、ああ、霊能者というのも普通の仕事と変わらないのだなとゆかりはぼんやり思ったものだ。 彼らも普通の人間なのだと。できないこともあるのだと。 父はその全てを苦しそうな顔で見守ってくれた。 不器用な掌を払いのけるたびに胸は痛んだが、あんな後悔をするよりはずっとマシだと知っていた。 それでも娘をあきらめなかった父はやがて何かにつけて体調を崩すようになり、だからゆかりは待ち望んだ大学受験に嬉々として挑んだ(その感情は周囲には伝わらなかったかもしれないが)。 これでやっと家を出られる。それしか考えていなかった。 その先の未来など想像の埒外にあった。興味すら、なかった。 そして巡り来た19度目の春、ゆかりは一人のヒーローに出会う。 神様ではない。その上だ(だってあのひとはゆかりに何もしてくれなかった)。 中肉中背、温厚篤実。まさに見た目だけは普通の人と何ら変わらない彼と過ごす季節の中で、ゆかりは初めて思い切り呼吸をすることができて、 そして―― 手術中のランプが消えた。 音もなく扉が開き、白ずくめの男性が疲れた表情でマスクを外す。 「手術は成功しました。ただし24時間以内は特に再出血の可能性が高いため、予断を許さない状況です」 その後、入院に関わるいくつかの指示を受けてゆかりは冬の街を走った。高校まで過ごしたふるさとの見慣れた景色。今は全てが真っ黒に見える。実際、もうすっかり日は沈んでいた。 全てのするべきことを終え、前庭のベンチにへたりこんだ時は11時を回っていただろうか。 頭は異様なまでに冴えており、寒さを全く感じなかった。外灯の白い光の下に伸びた黒い影をぼんやりと見つめる。 影。 ふと顔を上げた。 皓皓と輝く満月がそこにあった。 と、かすかに鼓膜を震わせたのは派手な車のブレーキ音。 徐々に近づく足音が誰のものか、なぜだろう、すぐにわかった。 この病院の敷地は広く、前庭は噴水や植え込みなどのあるちょっとした散歩コースになっている(東京では考えられないことだ)。ゆかりの座るベンチ、そのすぐ手前の四辻で彼は初めて足を止め、荒い息をつきながらひたとこちらを見つめた。 血のように赤いマフラー、人工の光を反射するブレスレット、そして、普段より一層色の抜けた顔。 「……化野」 呼びかけに何と答えればいいのか、本当にわからなかった。 それは自分の名前なのだろうか。 ケガレの間違いではなかろうか。 「お父さんは」 「……手術は成功したって。でも、油断はできないって」 心底安堵したように深く息を吐いた彼は、けれど固い表情を崩さない。 だからゆかりはゆっくり立ち上がり、向き合う位置で足を止めた。 ああ、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。 「ごめ」 「謝らないで。依のせいじゃない」 「俺の認識が甘かっ」 「私のせい。あの子が死んだのもおじいちゃんが死んだのもおばあちゃんが死んだのも、実験のたびに小さな事故が起きたのも私がいるクラスの授業でだけ毎年プールで溺れる子が出たのも、お父さんがこんなことになったのも、全部、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶ」 「化野、」 「もういやだ」 そんな顔をさせたいわけじゃないのに、頼ってしまう。 「いやだ」 一音ずつ噛み締めるように本音を零せば、視界はぼやけ、彼の泣きそうな顔すら見えなくなった。 「たすけて」 大量の水を通して見た風景はとても美しく、 「たすけてよ、依」 このまま自分が溶けてしまえば世界はもっと優しくなるのにとゆかりは思う。 存在そのものが災厄のような、こんな自分などそもそもこの世に生を受けなければよかったのに―― 「化野」 と、温かいものが左の手首に触れ、たかと思うと、もうゆかりはその人の腕の中にいた。 ジンワリ伝わってくるその温度で、自分の身体がどれだけ冷えていたかを知る。 視界を一杯に覆うのは毛羽立った赤。燃える血のような、情熱そのもののような―― 「ごめんね、化野」 依の声が耳元で聞こえる。熱い吐息が耳たぶをくすぐった。 人に触れたのなど何年ぶりだったか、ゆかりはすぐには思い出せない。 「もう大丈夫」 「……だいじょうぶ?」 「うん。大丈夫。俺が来たから、もう」 言って彼はもう一度、確かめるように腕に力をこめた。 白檀に似た重い香り。夢のように甘い感覚に思考がゆっくりとろけはじめる。 「今からゆっくり10数えて」 「10?10まででいいの」 「うん」 見えないけれど、彼は微笑んだようだった。 「いち」 ゆかりの腰のあたりでシャラリ、と涼しげな音がした。 「に」 束の間、彼女の身体から離れた二本の腕はふたたび強くゆかりを抱きしめ、 「さん」 触れられた部分が急激に熱を帯びる。 「よん」 ただし嫌な感じは全くなく、 「ご」 強烈な光に包まれる己の姿をゆかりは幻視し、 「……ろく」 「いいよ、そのまま眠っちゃいな」 3日徹夜をした後のような眠気が全身を包むのを止めることができない。 「…………な、な……」 髪を柔らかく撫でられる感覚。 「…………」 「ゆかり」 瞼が落ちるその刹那、ほとんど闇に包まれた視界にくっきりと響いたその声は、 「今夜はとても、月が綺麗だ」 とてもとても小さくて、きっと彼は彼女に聞かせるつもりなど本当になかったのだろう。 古びた壁にぼんやりと浮かび上がる灰色のしみを、気がつけば眺めていた。 電灯のついていないそこは薄暗かったが、室内を自由に歩き回れる程度にはすでに明るくなっている。低く響くエアコンの音。密閉された空間独特のぬるい温風。体中に広がる倦怠感と、ぽっかりと穴の開いたような喪失感。 「あら、化野さん、起きた?」 控えめなノックの後に入ってきた年配の女性看護師は、そう言って穏やかに微笑む。 「……あの、私」 「無理もないわよ。よく眠ってたみたいでよかったわ」 「あの、」 「ふ、婦長!!!」 開いたままの扉から半身を乗り出し叫んだ若い看護師を、女性は呆れたように見て眉を寄せた。 「菊池さん。廊下は走らない、患者さんの前で大声を出さない、それから私は師長です」 「す、すみません」 消え入りそうな声で身を縮めた看護師は、ゆかりを見るとまた大きく口を開けた。 「何、どうしたの」 「あ、化野さんが……昨日、くも膜下で入院された化野さんが、目を覚まされました!!!」 奇跡だと医師は言った。 ありえないと何度も口にしかけ、そのたび咳払いで誤魔化した。 面会した父は少しぼんやりしていたが、意思疎通に問題はなく、好物のプリンまで要求する始末だった。 面談、面会、諸々の雑事。嵐のようなひとときが去り、廊下の窓から下を眺めるその瞬間まで、ゆかりは依のことをすっかり忘れていた(それはもう不思議なくらい完全に)。慌てて正面玄関を出、ツープッシュで番号を呼び出す。 コール音は10に満たなかった。 ――おかけになった電話は電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりません。 恐怖がぶわりと身を包む。 ――おかけになった電話は電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりません。 ――おかけになった電話は電波の届かないところにいるか、 ――おかけになった電話は、 ――誠に恐れ入りますが、この番号は現在使われておりません。番号をご確認の上、おかけ直しください。 メッセージが変わったのは正午を過ぎた頃だった。 「……っ」 滅多に使わないアドレス帳を開く。登録されている番号はほとんどないから、目的のものはすぐに見つかった。コール2回でそれは繋がる。 「……化野さん」 「田中君!!依が、」 「今、まだ病院?」 「……え」 混乱するゆかりをよそに、淡々と彼は言う。 「俺、近くまで来てるから。もうちょっとそこで待ってて」 ほどなく姿を見せた彼は、ゆかりとは対照的に一晩中眠っていないような顔をしていた。 「乗って」 示されたタクシーにゆかりはおずおずと乗り込む。 一旦、病院に吸い込まれるように入り、すぐに出てきた彼は無言でゆかりの隣に座った。 そうして告げられた行き先は――名前だけ聞いたことのある、依が住んでいるというアパートの最寄りの駅だった。 *** この手紙を君が読んでいる頃には、お父さんは目を覚ましているだろう。 辛い思いをさせて、本当にごめんね。 正直に言うと、俺は自惚れてたんだ。自分の力に。今まで、俺が助けると決めた人を助けられないことなんてなかったから。 君のそれも、今は対症療法しかできないけど、腕を磨けばそのうちに別の方法が見つかるだろうと思っていた。君には言わなかったけどね。 君の中の神様は、ずっとそんな俺を嘲笑っていたんだろう。 恥ずかしいし悔しいから、全部もらって、ちょっと戦ってくるよ。 場所は言えない。君に知られれば「道」ができて、それが――厄が、戻ってしまうから。 だけど大丈夫、一族の人間が管理している土地だから、俺にとってはある意味ホームグラウンドだ。それのせいで死ぬことも狂うこともない。俺はきちんと寿命を全うできるだろう。 ただし相手がカミサマだからね、生涯をかけることになるとも思う。 でも俺は満足だよ。君に感謝してすらいる。もちろん嘘でも慰めでもない(俺が君にそんなの言ったことが一度でもあった?)。 前にもちょっと話したよね、家のこと。ただ一族の争いの元になるだけの、要らない力を持って生まれてしまった俺のこと。 家を終わらせることが俺の役目だと思ってた。今でもそれは思ってる。 けど、本当は俺は、ずっと俺の力を誰かのために使いたかった。 いや、使ってたんだけど、それは「厄を負う」っていう俺に固有の力そのものじゃなくて、オマケみたいに付随するあれこれ――見えるとか払うとかね――だったから。それで解決できちゃうことだったから。 君のおかげで、俺は初めて生きてて良かったって思えた。 君のおかげで、これから一生そう思っていられるんだと思う。 本当に、ありがとう。 それに俺があの土地に行けば――つまり、俺が力を使い切ったんだと一族の人間にわかれば――たぶん一番円満に、月宮も終われる(「依」が国に奉仕しなかったっていうのは、歴史的に見て結構な大事件なんだよ)。 ま、形式的にはもう終わってるわけだしね。つまり君は二重の意味で、俺の恩人なわけだ。 だから頭の上がらない、足を向けて寝られない、大恩ある君へ、 俺が願うことは一つだけ。 幸せになってください。 今までの分まで、誰よりも幸せになってください。 友達を、恋人を、家族を、仲間を、作って、 笑って、泣いて、怒って、また笑って、 いろんなところに行って、いろんなことを考えて、 何よりも素晴らしい普通の日々をたくさんたくさん過ごしてください。 そして、俺のことは忘れてください。 名前を呼ぶのはダメです。たとえ声に出さなくても。君と俺を繋ぐ「道」ができてしまうからね。 少なくとも49日間は絶対、できれば3年。 それを過ぎればたぶん大丈夫、だけどそれでもなるべく俺のことは考えないで。 そんなこと考える暇もないくらい、幸福で仕方ない日々を送って。 俺が望むのはそれだけだから。簡単だろ? あ、維継のことよろしくね。あいつ、ああ見えて寂しがりだし、ちょっと女性恐怖症の気もあるから(自業自得なんだけどね)、優しい彼女ができるまで見守ってやってよ。俺の代わりに。 それじゃあ、さよなら。 俺の大切な友達へ Y *** 暗闇の中、姫乃はパッチリと目を開いていた。 周りから聞こえる寝息は規則正しくまた深く、誰も彼もがすっかり寝入っているようだ。 寝返りを打つ。窓の外はまだ暗いが、どことなく夜とは違う気配が感じられた。何かが息をひそめて出番を待っているような、不思議な時間帯。かすかに聞こえる新聞配達の自転車の音。 二組ずつ並べた布団の島の、反対側を姫乃は気にする。 黒く艶々と光るおかっぱ頭は少しも乱れず、気持ちよさそうに眠っている。ように見える。 話を終えた彼女はいつもと変わらぬ微笑みで、一言、 「もう、5年経ちました」 と言った。 それがどういう意味で放たれた言葉なのか、姫乃にはわからない。 彼女はガクを好きなのだという。 それがどうして《全部繋がっている》ことになるのか。 彼女は何をしようとしているのか。 窓ガラスを叩かれるような音に姫乃は身を竦ませ、おそるおそる顔を上げた。朽ちかけたベランダには当然、誰もいない。 いつの間にか風が強くなってきたようだ。時折サッシを揺さぶる荒々しいそれは、寒風の吹きすさぶ季節ならまだしも、今時分にはいっかな相応しくないように思えた。 恐怖を無理やり追い出すように、きつく目を閉じる。 頭越しに感じる気配が、わずかに震えたような気がした。 (2013.02.04) モドル |