畳の上に、寝ころばう、
    蝿(はへ)はブンブン 唸つてる
    畳ももはや 黄色くなつたと
    今朝がた 誰かが云つてゐたつけ

膝の上に開いた文庫本は、降り積もる年月が発酵したかのような甘い香りを微かに放っている。数多の人の手を経た本だけが持つひそやかな佇まい。実直そのものの明朝体で紡がれる小さな詩(うた)はゆかりの気に入りで、またタイトルからして今の季節にぴったりなものだったけれども、
「沖縄!!?」
まさにその風情を味わおうとページをめくった瞬間にかかってきた一本の電話が、暑さに半ば溶けかけた彼女の意識を一気に覚醒させる。
「……大口の除霊ですか」
「うん、海とかバカンスとかに全く思考が行かないキミのこと、嫌いじゃないよ」
呆れ半分の声は耳のすぐそばでゆかりの鼓膜を震わせるけれど、声の主――神吹白金は現在、遠く離れた南の島にいるのだという。彼と最後に会ったのは、今はもう解体されて存在しない《あの村》で過ごした数日間の少し後。全治三ヶ月との診断を受けていた澪が結局、一週間と経たずに意気揚々と退院してきたその日、うたかた荘の共同リビングでため息混じりに目配せし合った時のはずだ。
そういえば、あの日も彼はなんだか忙しそうだった。かなり大きな仕事を片付けた後のはずなのに、案内屋とはさほどに需要のあるものなのか、それともかように実入りの少ない職業なのかと余計なお節介をしそうになる己を、ゆかりはぐっと堪えたものだ。
「だって沖縄で夏って言ったら」
「めくるめくアバンチュールでしょ普通は。ゆかりちゃんは本当に……ま、いいや、でね、細かいことは省くけれども、俺、しばらく帰れそうにないや。連絡もちょっと難しくなると思う、電波も届かない山奥に籠るから」
「山……ですか」
「ああ、うん、《沖縄》で《夏》だけど、ソッチ系じゃなくてもっと古い神様系だから」
「かみ、って」
言葉に詰まったゆかりを、白金は爽やかに笑い飛ばす。
「大丈夫大丈夫、こないだみたいなのはそうそうないよ。それに今回は完全なる助っ人、危ない目に遭う予定はありません」
ならばどうして連絡をもらうのがこんなに遅くなったのか。飄々と並べられる彼の言葉に反比例するように膨らむ不安を、ゆかりは懸命に抑えようとする。
沖縄、という単語から仕事しか連想しなかったのも当然だ。だってよほどのことがない限り、今、白金が東京を離れるはずがない。この土地を――無縁断世たちの傍らを。
と、雰囲気の変化を敏感に察したか、
「……本当に大丈夫だよ。ただ、ちょっとタイミングが悪かったね」
白銀の髪を持つ案内屋は少しだけ声の調子を変えた。己の焦燥が伝わった安堵と若干の気恥かしさに、ゆかりは小さく息をこぼす。
「……澪さんはいつ帰ってくるんでしたっけ」
「向こうは俺以上にバタバタで行ったからなあ。しかもウチより遠いと来たもんだ」
無縁断世を護る最強の五角形、その一角を担う水(バ)の案内屋こと湟神澪は、十代の半ばからおよそ10年の時を過ごした海の向こうのとある土地に、先月末から出向いていた。それは澪の脚が《完治》してからすぐのこと。師匠筋に当たる女性が倒れた、というのが第一報だったようだが、幸い彼女の命に別状はなかったらしい。ただ、既にかなりの高齢であり、にも関わらず身のまわりのことをする人間がいないという現状にどうにも立ち去りかねているのだとは、先だって白金が無理やりかけた国際電話で判明した事実である。
「一応、番号教えとこうか。澪ちゃんからコッチにかけるのはまず無理だと思うし」
およそ機械と名のつくものを前にした時、彼女がどんなに苦い顔をするかを思い出し、ゆかりは少しだけ笑った。それは電波に乗って南の島にも届いたらしい。電話の向こうで、白金がやはり笑みくずれる気配がした。
「――の――――ね。メモった?」
「はい、バッチリです」
「一応、マサムネ君が今日中にそっち着くはずだから。夕方までには、眼帯にくわえ煙草の見た目傭兵みたいな人が行くけど、怖がらないであげてね」
「正宗――火神楽さんですか」
「そうそう」
「得物が銃の方ですよね」
「そうそう」
「それはやっぱり、持って歩いちゃったりなんかしたり」
「大丈夫、職質できないレベルのオーラ発してるから」
軽い返事にゆかりはそれ以上の質問を諦める。見た目どころか実際も傭兵稼業に身をやつしているらしいその人は、ちょうどゆかりがうたかた荘に越してくる少し前に日本を離れたのだという。初の対面に緊張する気持ちよりは、やはり安心の方が大きかった。
「ごめんね、なるべくちゃっちゃと片付けて戻るよ」
ふと真面目な声音になった白金の心情は痛いほどわかった。
梅雨も明け切らぬ頃に起きた《無縁断世襲撃事件》から、もう2ヶ月が経とうとしている、しかし首謀者の行方はようとして知れなかった。それはとりもなおさず、うたかた荘に直接の攻撃がないということでもあったが、長すぎる沈黙には不気味さしか感じられず、表向き、普段と変わらぬ日常を過ごしながらも、住人たちはそれぞれに動き、手がかりのなさに髪をかきむしっているのだった。
この時期、澪に続き白金までここを離れるとなれば、そこにどんな事情があろうと眼帯の彼は呼び戻されねばならぬ運命。ゆかりにできるのは、せめて二人のどちらかが帰ってくるまでは何も起きないようにと祈ることくらいだ。
「よろしくお願いします」
ひとまず答え、そしてその先を続けるべきかどうか逡巡する思考は、やはり案内屋には筒抜けだったようだった。
「どしたの?愛の告白以外なら何でも聞くよ」
「……ほんっとに白金さんは余裕だなあ……」
「それが売りなもんでね。で、どした?」
「……帰っていらしたら、ご相談したいことがあります」
改まった声を出せば彼は一瞬、息を飲む。
「やだなあ!ゆかりちゃん、俺の死亡フラグ立てるのやめてくれる!?」
本気の絶叫にゆかりはしばし携帯電話を耳から離し、
「いえいえ、この場合、私の死亡フラグになるから大丈夫じゃないですか?」
さすが、この人はネットスラングにも通じているのだな、と呑気に思った。
「ますます駄目じゃないか!!あのね、」
「冗談ですよ。ちなみに相談は本気ですから」
「…………あのねえ」
白金は深くふかくため息をつく。
「…………いいよ。いいけど、冗談でもそういう言い方はしないで。君の場合、洒落にならないから」
「……スミマセン」
こういうストレートな物言いにはあまり慣れていなかった。思わず片言で謝れば、白金はもう一度、盛大にため息をついて、
「すぐ帰るから!!」
今度は底抜けに明るく言った。
呼応するようにペラリ、と手元の紙片がめくれる。ふと指先をかすめたいたずらな風は目と鼻の先にまっすぐ伸びる細い枝をほんの少し揺らした後、夏の名残の太陽の下ですっかり蒸発したようだった。

***

    それやこれやと とりとめもなく
    僕の頭に 記憶は浮かび


「おう、化野」
「今度はトキさんですか」
「ん?」
たった一文字の疑問形にはあえて答えず、ゆかりは掌の熱でぬくもってしまった文庫を閉じ、人差し指で背表紙を撫でた。今日は珍しく電話の多い日だ。
「いーえ、こっちの話です。どうしました?締切はまだ先でしょう」
「ああ、んなこたあいいんだ。おまえ、最近、田中と会った?」
「維継ですか?いえ、」
トキさん――本名、山田時生(ときお)。ゆかりの大学時代のサークルの先輩であり、現在、フリーペーパー「にしさくらいふ」においては彼女の担当編集をも務めてくれている――は、ゆかりの回答に沈黙で応えた。元々口数の多い人物ではないが、いつもの彼とは雰囲気が違う。送話口から漏れ伝わってくるいかにも重苦しい空気に、ゆかりは遊ばせていた指先を揃えた。
「……トキさん?」
「今、駅前のドトールにいるから。おまえ、家だろ?」
「んにゃ、図書館です」
「は?だって電話」
「庭です、前庭」
「……ああ」
「すぐ行きますね」
「おう」
通話時間は3分に満たない。勢いよく立ち上がれば、一番近くの梢で鳴いていた蝉がふと黙った。振り向かずに門扉を目指すゆかりの背後で、何匹かはジジジジジジと鳴き、何匹かはバサバサと枝を揺らして、それぞれにひと夏の命を謳歌しているようだった。

***

チャイムの余韻が消えるのを待って、ふたたび黒いボタンに触れる。今度は押し込めるようにぐっと力を入れたから、響きはずいぶん間延びしたものになった。それでも中にいるはずの住人が姿を現す気配はない。
マンションとアパートの合いの子のような、白い壁に青い瓦屋根を頂くその建物を、ゆかりはつねづね少女趣味だと評していた。最も親しい友人の意見に住人が耳を傾けることはなく、だから彼と彼女の間にはいつしか互いの好みには深く踏み込まないことという暗黙の了解ができていた。それでも彼らは一緒にいたかったし、またそうすることが互いのためでもあると信じていたから、今までは何も問題なかったのだけれど。
「維継!!いるんでしょ!!」
チョコレート色の扉を強く敲く。足元が妙に冷えるのが気になった。今日は残暑の厳しい日になるでしょうと天気予報士が言っていたはずなのに、この廊下にはもう秋が来てしまったかのようだ。
「これつぐ、」
唐突にドアが開いた。ただし、その隙間からは彼の顔の半分も見えていない。びくりと肩を震わせたゆかりを、住人――田中維継は物憂げな瞳で見下ろした。
「……近所迷惑に、なるから」
か細い声、やや充血した白目、濃く浮き出た隈、無精ひげらしきもの。ショックを押し隠して、ゆかりはキッと彼を見据える。
「ふざけんじゃないよ!!アンタ、無断欠勤ってどういう」
「帰ってくれ」
パタン、と閉じられた扉はもう岩壁のごとく動かない。
「……ねえ、維継」
だからゆかりはそこに手を当て、今度は静かに呼びかけた。
「開けて」
「嫌だ」
戸板一枚隔てたところで響く声は、分厚い鉄に阻まれたせいでくぐもって聞こえる。
「お願い」
「帰れ。殺すぞ」
「………………は?」
ゆかりの思考が停止する。問題発言を放った本人は気まずげに黙り、やがてゆっくりとその気配は遠のいてゆく。ペタリペタリと廊下を裸足で歩く音、
が、止まった。
ゆかりが玄関扉に渾身の蹴りをお見舞いしたからだ。
「いーい度胸してんじゃないの」
徐々に小さくなる反響音の中、クッキリ付いた足型を眺めながらゆかりは唇の端を上げた。
「出直す。首洗って待ってな」
踵を返せば、隣室のドアが音を立てて閉まった。やや興奮しすぎている自覚もあったから、通り過ぎる時には一応、小さく頭を下げておく。この問題を解決したならば当分、ここには顔を出せそうにないなとゆかりは頭の片隅で思った。

***

「こちらが件のドアです。さあ遠慮なくやっちゃってください」
「やっちゃって、って言ってもなあ……」
普段着のTシャツとジーンズ、寝起きのぼさついた頭のまま連れてこられた白髪(しろがみ)の案内屋は、ぼりぼりと後頭部を掻いて顔をしかめた。
「できればドアごと吹き飛ばしてくださるのがベストです。たぶん、穴開けるより修理代かからないと思いますので。蝶番だけなら」
「俺、そこまで繊細なコントロールできないと思うよ、ゆかりん」
「じゃいいです、どんなでも。ともかく私はこの部屋に入らねばならない」
「もっと平和的な入り方はないの?」
「明神さん、足元」
指差し、爪先を扉と床の隙間の周囲に泳がせてみせる。釣られたように明神も同じ仕草をし、
「……ああ」
納得したように頷いた。
糸も通らぬような僅かなそこから、流れ出てくる冷気がある。エアコンや何かとは全く別物のそれ。
「トキさんによれば、3日前、維継はアンティークの手鏡を買ったんだとか。誰にあげるつもりだか知りませんけど……それから無断欠勤が始まったそうです」
「ふうん。トキサンて何、メガネ君と同じ会社の人なの?」
「いえ、共通の友人から話が流れてきたみたいです。業界は同じですしね」
「へえ。で、それが原因だとゆかりんは思ってる」
「そうとしか考えられません」
正直なところ、最初は心の病気のたぐいを疑っていた。維継は普段の振る舞いからは想像し難いくらい真面目で、問題を抱え込みやすい体質である。しかし、
「あの子はあんなこと言う子じゃない」
きっぱりと言い切ったゆかりに、明神は面白いものを見るような目を向けた。
「……?明神さん、」
「や、ゆかりんってさ」
「帰ってください」
突如降ってきた声にゆかりも明神も硬直した。けれど天の岩戸は未だ開かれてはいない。鉄の扉に当たって、籠るように響く声。
「……嫌です。開けて」
「断る。帰れ」
「開けないとドア壊すよ」
「ふざけんな」
「言っとくけど本気だよ。この人、できる人だから」
見えないとわかっていながら胸を張る。と、軋むような音を立てながらやはりほんの僅か、扉が開き、
「維継!!」
咄嗟に間に爪先を差し入れ、またその上部を手で掴めばドアノブにかけられていた白い手は一瞬見えなくなり、けれどガツッという音と共にチェーンがピンと張る。
「っ、離せ、化野」
「嫌だね」
鈍く光る鎖を引きちぎることは到底できないけれど、この手を離すわけにもいかなかった。
「ねえ、開けて」
「ことわる、って」
「親友の頼みも聞けないの?」
掌一枚ぶんの隙間から覗く、形の良い眉が歪んだ。と、渾身の力を込めて扉を引くゆかりの右手に、室内から漏れる霊気よりも冷たいものが触れる。
「……ガクさん!!?」
「今だやれ明神」
ゆかりの手の甲を介してギリギリと力を込める青年の、腕力自体は相当なものだ。しかしそれが物理的に意味をなしているかは疑問だった。
「……は?」
「テメエの目は節穴か」
空いている左手(に携えたピコピコハンマーの柄)で、彼はゆかりの腹のあたりを指す。正確にはそのすぐ傍にあるジャラジャラした縛めを。
「ガクさんってばいつの間に、っていうか付いてきてたの?」
「……ああ、サンキュ、ガク」
そして明神はスウと息を吸い込み、
「剄楓(ケイフウ)」
それを一瞬で断ち切った。ダラリと垂れ下がったドアチェーン(だったもの)は、もはや防犯の役目を果たさない。
「あだし、の」
「はいはいお邪魔しますよーメガネ君」
へたり、と腰を落とした住人の横を明神は軽やかにすり抜け、
「ごめん、説明は後ね」
続くゆかりはきちんと靴を揃えた後、その背中を小走りに追い、室内の惨状に顔をしかめた。
間取りとしては1K。その狭いスペースを埋めるように物が散乱している。皿、椀、箸、紙束、鞄、歯ブラシ、コップ、ゴミ、ゴミ、ゴミ――
「ははあ、やっぱりね」
ぐるりと周囲を見渡した明神は、およそ8疊ほどの居室の端に置かれたベッドに躊躇なく近づき、とりわけどす黒い空気が凝っているその中心にヒョイ、と手を突っ込むと古びたコンパクトを取り上げた。
白地の陶器に描かれているのは鮮やかなピンク色と黄色の薔薇。金の縁どりはややくすんでいたけれども、その事実はモノの良さ自体を損なうものでは到底ない。いわゆるところの《値打ちもの》であるだろうそれを案内屋は思い切り床に叩きつけようとし――
「やめよ!!!」
甲高い声に振りかぶった右腕を止めた。次いで、ゆっくり首を後ろに向ける。
廊下に座り込む住人と、呆然と佇む闖入者の間。案内屋の手から逃れるように集まってゆく黒っぽい空気はやがて小さな人形(ひとがた)を取る。
「……」
「……」
「……」
「わかっておるわ!!そなたたちの言いたいことなど!!!」
耳を弄する高音に、人間たちは思わず耳に手をやりかけ、
「……ええと……何もかもが予想外で……なんか……ごめん……」
それでも律儀に詫びを入れるゆかりを、《彼女》は強く睨んだ。
明神の手に握られているのは、あくまで19世紀イギリスの空気を色濃く伝える西洋風の蓋付き手鏡(コンパクト)。
しかし彼らの前に現前しているのは、どこからどう見ても市松人形にそっくりの、艶やかなおかっぱ頭と小さなおちょぼ口が印象的な二頭身の少女だった。


(2013.02.09)

モドル