「……最初の持ち主が日本趣味だったとか?」
「わらわを所有したのはコレツグが初めてじゃ」
「……そっか」
案内屋は集合住宅特有の低い天井を振り仰ぎ、
「そういうこともあるのかもね」
あらためて真っ直ぐ少女を見つめた。
対する彼女は顎の下で切り揃えられた黒髪を一振りし、ぐっと眉根を寄せる。
「文句があるなら思うさま言え、人間」
「《案内屋》だよ、俺は」
「……ほう」
少女はにっと口の端を上げ、すり足で一歩踏み出した。
「あ、知ってる?」
「《この世をさまよっている魂には成仏の手助け。聞く耳持たない悪霊は分解して大気に返す》……片腹痛いとはまさにこのこと」
「君はそのどちらでもないと?」
「さあな」
「……《付喪神》、」
「人間ごときがわらわを何と呼ぼうが、興味などないわ」
言い切り、バサリと着物の両袖を鳥のように広げた彼女から、ゆかりは目を離すことができない。
「さて、貴様はどうする?」
ふ、と陰った日の光に瞳を細めたその刹那、
さながらクルリと回した万華鏡の中身のように、小柄な少女は《増殖した》。
天井のすぐ下、テーブルの脇、蹴り上げられたままの掛け布団の上、
幾人もの同じ顔をした彼女が寸分違わぬ表情で闖入者たちを鋭く睨む。
「……おいガク、」
「……心の目で見る」
そして目を瞑った青年は心のままに木槌を振るい、
「ちょ、おま!!俺だよ、俺!!!」
「あ、すまん」
「わざとやってんだろ!!!」
「ふざけるな俺はいつでも真剣だ」
危うく首の骨をへし折られかけた案内屋は、目の前の敵を忘れたかのように顔色の悪い青年に詰め寄った。
「あーはいはい、そういうのはうたかた荘でやってね」
悪餓鬼同士がじゃれ合うような一部始終を横目で見ていたゆかりは、素早く両の瞳を動かし、
「……ああ」
やがて一つの答えに至る。
「な!!!」
「はーい、一名様ご案内」
ふくら雀の帯を掴めば、二頭身の少女は細い目を見開いて手足をジタバタと動かした。それをポカンと見つめる大きな子供の二人組も、何が起きたか俄かにはわからぬ様子である。
「おのれ、なぜ、」
「合わせが逆だもの」
極めて冷静に指摘すれば少女は息を呑んだ。和服の衿をどう重ねるかは、着物を嗜む人間が最初に覚えなければならないもの。《左前は死者》――ホンモノの彼女の出で立ちはまさにそれだった。
「アナタ、鏡の付喪神だものね。あなたの幻影はみんな右前よ」
「……キサマッ……なぜ触れられる」
「見習いなの」
簡潔な答えを返すと、おかっぱ頭の少女は大きく口を開いて固まった。
「ねえ、この人が何かした?」
「……」
「維継があなたに許されないことをしたのなら、どうか教えて」
答えは返らなかった。だからゆかりはさらに身を乗り出して尋ねる。
「私はこの人を助けた」
その両目から火花が飛んだ。叩かれた右頬を押さえることも忘れて立ち尽くすゆかりに、
「ふざけるな!!!」
少女は喉が潰れるほどに叫ぶ。
「この偽善者!!おまえ、が、どれほど、コレツグに、」
怒りのあまりか途切れ途切れにしか言葉を継ぐことのできない少女は、
「……っ」
紅葉のようなその手を押さえる、大きな掌によって口を閉じた。
「……やめ、て、くれ」
いや、骨ばった手は彼女に触れてはいない。あくまで軽くかぶさるように添えられているだけ。なぜなら彼は彼女に触れられない――生者であるがゆえに。
それでも部屋の主――田中維継は、苦しそうに顔を歪めながら必死で唇を動かす。
「あだしの、は、わるくない」
「……コレツグ」
切なげに揺れる瞳を見据える彼が、目に映しているのはきっと別の物だった。
だからダラリと垂れ下がった華奢な両腕は、とっくに戦意を手放していて、
けれど小さく震えるその細い肩に触れたものがある。
「……ガクさん!?」
「そなた、陽……魂……?」
「おまえ、ムカツク」
言葉とは裏腹に、伸べられた手は静かな慈愛に溢れている。
「コイツがおまえを《好き》でないのは、これのせいじゃないだろう」
長い親指で棒立ちの作家を示し、
「ちゃんと認めろ」
あくまでも真摯なその言葉に、小柄な少女はますますうなだれた。
「え?何、ガクさん」
「おまえ……説明しろ、」
目を白黒させる生者たちを見やり、背の高い死者は鼻を鳴らした。
「ンだよ、その態度は!!」
「そうだそうだ、馬鹿にしないで!!」
「これを見てわからない奴は馬鹿でしかないな」
ぐるり、と大きな半円を描くように示された指の先を見てゆかりと明神は首を傾げる。皿、椀、箸、紙束、鞄、歯ブラシ、コップ、ゴミ、ゴミ、ゴミ――
「いくつずつある」
さらなるヒントにゆかりは目を見開いた。
「いくつって」
「……二つ、だね」
「ゆかりん?」
「……そう。そうだったの、鏡の精さん」
「……鏡子」
「え」
「きょうこ」
俯いたまま、少女は同じ音を繰り返した。
「……鏡子、ちゃん」
そんな彼女にゆかりは、いつの間にか隣に佇んでいた顔色の悪い死者のように手を伸ばす。餅のように白い頬にその指先が触れた瞬間、少女の瞳はみるみる潤み――
「どうしてこんな女がいいのじゃ!!!」
叫んだ台詞に、ガクを除く全員が硬直したのは言うまでもない。
「ちょ、ま、キミ、」
「ちょっと顔がいいだけの!!無神経極まりない女!!どうしてコレツグは」
「やめ」
「こんな馬鹿女に懸想しておるのじゃー!!!!」
維継が顔を覆った。ゆかりは息を止めた。
唖然とする明神の横で、ガクが忌々しげに舌打ちをする。

「ゆかりん俺たち外にいるから、何かあったら呼んでください」
「おい待て明神」
「バカお前、俺たち完全にお邪魔虫だろ!!!」
ガクはその大きな手からするりと逃げ、部屋の隅にあぐらをかいた。どうあっても動かぬつもりのようである。
「修羅場には第三者がいたほうがいい。常識だろう」
「お前の常識は世間の非常識だよ!!」
「世間知らずの元ヤンに言われたくないな」
「な、」
「ゆかり」
「はい!!?」
彼が自分を初めて名前で呼んだのだということに、混乱の渦中にあるゆかりは気づけずにいる。
ガクは無言で《親友》を指す、けれどゆかりはそちらを見ることができない。
「おい、青ビョータン」
「……それ、俺のこと?」
「無論だ」
「アンタ、何なの。さっきまでどこにいたの?」
「見えなかったのはオマエだ」
「……アンタ、化野の、何なの」
「ゆかりに聞け」
「……っ」
唇を噛み締めた維継は、そこでようやくゆかりを見る。
「…………化野」
「…………はい」
澱んだ空気の中で彼は喘ぐように二、三度呼吸をし、
「案内屋」
音になりかけた言葉は、やや上ずった少女の声にかき消された。
「……何?鏡子ちゃん」
「わらわを壊せ」
ピシリと指差すその先には、明神が掴んだままのコンパクト。鏡子――付喪神の、本体。
「は、」
「おい女」
「はい」
「わらわはそなたに贈られるためにコレツグに買われた」
コクリと細い喉が鳴る。それを見つめる付喪神は、やけに人間くさい表情をした。
「この世に生まれ落ちて以来、初めての主様じゃ。あるじの意向に従うのが買われたモノの運命だが――わらわにとって、それは無理な相談じゃった」
「それは」
「そなたがもう少しイイ女であれば、わらわも納得できたのだが」
少女はキッとゆかりを睨んだ。
「コレツグの気持ち、そなた、見て見ぬふりをしてきたな?」
沈黙は肯定と受け取られたようだった。
「あの店からコレツグの元に引き取られる前日、夢を見た」
怒りを隠そうともしない彼女の肩が大きく揺れる。
「茶色い髪をした男との顛末。その後、コレツグとそなたがどんな時間を過ごしたか。わらわの意識はコレツグのほうにあった、だから、気持ちが、手に取るようにわかった」
糸のように細い目尻にじんわりと透明な液体が滲む。
「そなたのような小娘にやるくらいなら、わらわが連れて行ってしまおうと思った」
けれど。握った拳を一度振り、儚い想いすら振り切るように少女は言う。
「お前様があくまでこの女を好くというなら、わらわは消える」
相変わらず眉をしかめながら、唇だけはあくまでにこやかに。
「すまんな、主様。コイツには何か別のものを贈ってやってくれ」
「はいはーい、クライマックスのところ申し訳ないけど」
しれっと口を挟んだ案内屋は(結局、部屋を出るタイミングを逃していたらしい)、右手をゆっくり突き出すと、未だ硬直したままの男の前でそっと掌を開いた。繊細なタッチで描かれた薔薇の模様が、カーテンの隙間から薄く差し込む午後の日差しを反射して輝く。
「ほい、君のでしょ、メガネ君」
「……貴様っ……」
「人様のモノを勝手に壊すような野蛮な真似、案内屋はいたしません」
ニコリと笑った明神は、無言で男に決断を促した。
数秒ののち、ためらいがちに、けれど確かに彼はそれを手に取る。
「っ、コレツグ」
「えっと……なんて言っていいかわかんないけど……ありがとう、こんな俺を好きになってくれて」
ボソボソと呟くような声を、少女は全身で受け止めようとする。
「ただごめん、君の気持ちには応えられないけど…………壊すってのは、違うだろ」
「コレ、ツグ」
「……化野に渡さ……贈らない代わりに、俺が持ち続けることもできないけど、でも」
「コレツグ」
ハッと顔を上げた維継の前で、容姿だけは幼い付喪神が微笑む。
「ありがとう。……それはわらわには身に余るほどの光栄じゃ」

ヒラリ、と光の粒子が彼女の着物の裾から剥がれた。よく似た光景をゆかりはつい最近目にしている。山深いあの村の時が止まったような神殿で。
「――鏡子、ちゃん」
「情けは無用」
ゆかりに向けられた視線に燃えるような嫉妬はもうない。床に着くほど長い振袖の端がシャボンのように溶けてゆき、それは上を目指してまっすぐに昇る。
――これは、
あの神様の時とは違う。案内屋が《悪霊》を《分解する》ときとは、明らかに。
「わらわは所詮、この世への執着が凝ったモノ。それが消えれば、――消えるのだろうよ」
「キミ!」
慌てたように空を掻く愛しい人の右手を見やり、少女はほんの僅か、目元を歪めた。
「……あるじはわらわが《見える》ようになってしまったのよな」
「へ、」
「申し訳ない」
深々と頭を下げたまま、蚊の泣くような声で続ける。
「願わくば、わらわの最初で最後のあるじが、こちら側の厄介事に巻き込まれることなどないよう」
緩やかな風が起きた。発信源はもちろん彼女。9月のそれとは思えない、甘やかな香りを含んだ空気にゆかりは大きく目を見開く。
「女、案内屋、それに陽魂モドキ。業腹だが後を頼めるのはそなたたちのみじゃ。……よしなに」
「心得た。……だがモドキは余計だ」
「なんと、そなたがそれを言うか」
コロコロと笑う付喪神に、ガクが嫌そうな顔を見せ、
「……おまえ」
「何、なんなの!?俺を、蚊帳の、外にして」
何か言おうとしたところに維継の必死の声がかぶさる。
「キミ、消えるって、……俺の、せいで?」
「違う、主様。これはきっと、そう、言うなれば運命(さだめ)」
柔らかく微んだ鏡子は、大人びた表情で維継の髪を撫ぜた。――撫ぜるような手ぶりをした。
悪しき想いを失った彼女は、きっともう生者に触れることができないのだろう。
どこかが痛むかのように目を細め、中空で手を止めた彼女に維継は噛み付くように問う。
「なんだよサダメって!!自分が消えるってのに、何でそんなに冷静な顔してられんだよ!!!」
「主様」
「違うだろ、よくわかんないけどそんなん違うだろ!!おまえ、もっと俺を憎めよ、俺のせいで、俺の」
「主様よ」
触れられない両手で想い人の頬を挟むように持った少女に、興奮した青年は黙った。
「女」
振り向きはしない。その姿勢のまま、ゆかりの胸を突くような鋭さで鏡子は彼女を呼んだ。
「はい」
意図するところは何となくわかったから、ゆかりも背すじを正してそれに応える。
「そなたと主様は話し合いが必要なようじゃ」
「……はい」
「逃げるようなら承知せぬ」
「そんなことするものですか」
震えそうになる声を必死で支え、ゆかりは言う。
「あなたには何と思われるかわかりませんが……私は、この人を大切に想っています」
「……そうか」
ポーカーフェイスを保ったまま、鏡子はすっと肘を曲げると、
触れられない頬に口付けを一つ、落とした。
「!!?」
「主様、信じておくれ」
喉を鳴らしてくつろぐ猫のように細めた目が伝えるのは、真っ直ぐな愛情。
異類であることをものともせずに抱いたそれは、たとえば目に見えるならば金色に輝く光のようだったろう。
「僅かな間でも、わらわはあるじを持てて幸せだった。たとえ主様がわらわに同じ気持ちを返してはくれないのだとしても」
その横でそよぐ黒髪ももう、煌く光に覆われてよくは見えない。
「主様も、どうか幸せに」
「きみ――」
最後の最後まで残ったのは、温かな頬に触れられない掌。
しかしそれももはや無い。瞳の奥に残像のように白く焼き付いた輪郭を、1人の死者と3人の生者は声もなく見つめた。
「成仏した……か」
床に落ちたピンク色の箸の片方をテーブルに戻しながら明神が呟く。それを横目で見ていたガクは、
「ん」
ピコピコハンマーを逆さに持つと、南向きの大きな窓を指した。
「……ガクさん、あんまり言葉を惜しむのはよくないよ」
立ち上がったゆかりは小さく深呼吸すると、濃い青色のカーテンを思い切り開けた。眩しさに目を閉じたのはほんの一瞬。ひんやりと冷たい窓枠に触れ、右手で引く。侵入する熱気は、夏の生命の匂いに満ちていた。振り返る。眉をしかめたままの親友がこちらを見ている。
「まず掃除しよう。話はそれから」
目をそらしそうになるのをぐっとこらえた。さすがに笑顔を作ることはできなかったけれど、たぶんそれでよかった。彼はゆかりにとって何にも代え難い友人だ。嘘は、吐けない。
ぐるりと見渡す。シンクに落ちていた四角い盆を取り、散らばった食器を丁寧に集めた。皿。椀。箸。全て綺麗に二組ずつのそれらを甘い痛みを覚えながら拾う。
――もしも私が、維継を。
好きになっていられれば、良かったのだろうか。
吹き込んだ新鮮な空気がバラバラの紙束を舞い上げる。それは何かの原稿のようで、細かな文字で埋められた内容が何なのかまではわからなかった。


(2013.02.18)

モドル