広がる空は青かった。
ゆったりと流れる川は、ゆかりの住む町にも繋がっているものだ。ゆかりや維継、そして依が通った大学の学生は、この川と平行に伸びる路線沿いに4年間の居を求めることが多かった。実際、キャンパスは近いとは言い難かったが、乗り換え一度でそこまでたどり着ける利便性と家賃を含めた物価の安さは地方から出てきた学生にとって大変な魅力。彼ら3人も例外でなく、各々最寄駅こそ違ったものの生活圏はほとんど近所と言ってよかった、ただしゆかりと維継より数駅分だけ都の中心部に近い場所に住んでいた依は何かと言うと彼らの住まい周辺の鄙びた様をからかいの種にし、その度に知り合ったばかりの彼らはややはしゃぎがちに、それは五十歩百歩だドングリの背比べだと言い合ったものだった。
まるで昨日のことのように思い出せる。
憤る(ふりをする)親友と、笑いながら逃げるもう一人の大切な親友。彼らの頭越しに見えた夕焼けが怖いくらいに紅かったこと。
またある時は、ほの白い都会の闇の中で目を射る火花を振り回してふざけ合ったこと。
――そういえば。
「花火、したね。ここで」
ポツリと零せば、数歩先に立って向こう岸を眺めていた維継の肩がピクリと跳ねた。
「ああ……うん……」
歯切れの悪さは自身の行いをしっかり認識しているものと見えたから、ゆかりはあえて先を続ける。
「維継、相当酔っ払ったよね」
「……ごめん……あれは」
「三刀流はないと思うわ」
「え、何それ」
思わず、といった様子で振り向いた彼の丸い瞳。驚きのためか先ほどまで二人の間に漂っていた緊張感はそこになく、
「ちょっと待って覚えてないの!!?」
つられてゆかりも普段の調子で言葉を返してしまう。
「やったじゃん!!危ないよって私と依でさんざん言ったのに!!!」
「は?何、何をしたの俺は」
「だから三刀流よ、花火。こう、両手に一本ずつ持って、口に一つ咥えて」
ジェスチャーを交えて語りかければ、思い出を共有するかつての少年(ただし《その時》の記憶は一切ないらしい)は目を剥いて唸った。
「まじか」
「マジよ」
「よりによってそれか」
「あんた好きすぎ、ワンピース」
「仕方ないだろあれは男のロマンだ……」
うなだれて呟く彼の頭部を見上げ、ああ、ガクより低い位置にあるな、とゆかりは思う。それが残酷な感慨であることはよくわかっていた。
そう、《修羅場》の続きについてきたそうな雰囲気を全身から発しながら、けれど彼女の従兄妹は結局、白髪の案内屋に半ば無理やり引きずられていったのだった。半時間ほど前、3人がかりでゴミをまとめ、洗い物を済ませ、部屋中に掃除機をかけてついでに薄い塩水で拭き清めた後のことだ。
最後まで彼を維継に紹介することはできなかった。今にも倒れそうな顔色をしているものの、小気味よく明神とやり合う彼が掃除に一切参加しなかったことを親友はいささか不審に思っていたようだったが、まさかその正体が幽霊だとは思うまい。
――維継、怖い話苦手だからなあ。
親友の苦手分野に思いを馳せ、ゆかりは小さくため息をつく。
依とゆかりという、歩くオカルト大事典のような二人の間に挟まれて過ごしながら、維継自身はそちらの世界に関わることを強く拒んでいた。そもそも彼が依と知り合うきっかけになったのが、別れた彼女に呪いまがいのストーカー行為をされたところを助けてもらったとかで、だから《そういう世界》があることは十分に承知していたけれども、よほどのことがないかぎりそこから遠くにいたいと考えているようだ、とはいつかゆかりが依から聞いたもの。
――にしても、きっちり見えてるんだなあ。
ほう、と感嘆のため息をつき、いやいやそれはとりあえずいいだろうと自分で自分に突っ込みを入れる。何にせよ、ガクはゆかりにとって大切な人間だ。どうにか話をしたいはしたい、だが何と説明したらいいのだろう――考えあぐねる彼女の前で、維継はそっと顔を上げた。途端にゆかりの心臓が大きく鳴る。
目をそらしたら負けだ。なぜかそんなことを思った。人間関係においては勝ちも負けもないだろうに。
と、不意にくしゃりと親友が笑った。泣いている子供を見るような、いかにも仕方なさそうな、それでいて身を切られるように切なげなその瞳。
「……こ、」
「俺、化野は怖くなかったんだよな」
「え?」
予想外の言葉にゆかりは口を小さく開けた。それを一瞬だけ見つめた維継はクルリと後ろを向くと、手持ち無沙汰であったか、窮屈そうな両のポケットに骨ばった手を突っ込んだ。
「俺の高校の時の話、聞いたろ」
「……その、元カノがどうのっての?」
「そう。正直、あれは参った」
苦々しい口調の奥に潜むかすかな罪悪感をゆかりは敏感にキャッチする。
元々は彼の別れの切り出し方に問題があったらしい、とはこれも依づてに得た情報だ。それ以上は聞いていないし、また邪法にすがる方もすがる方という感じがするが、ともかく彼にも責任の一端はあり、だからこそ今に至るまで維継は女性に苦手意識を抱き続けているのだろう。
否、正確には《彼に恋愛感情を向ける》女性を。
「だから俺以外の男を好きなおまえは、ほとんど唯一安心して一緒にいられる女だった」
「……それ、結構イラッとする発言だって気づいてる?」
「事実だろ」
「……そうだけど」
彼の《ファン》にされた幾つかの浅い嫌がらせを思い出しながら、ゆかりは大きく足を踏み出すと維継の横に並んだ。瞳は前を見据えたままだ。一瞬遅れて、緩い風が髪を揺らす。視界の上半分を満たすのは空。ジリジリと肌を灼く日差しとはちぐはぐな印象を与える澄み切った秋の空。
と、遮るもののない視界の右から左へ、小さな模型飛行機が横切った。対岸だ。飛ばしたのは初老の男性、楽しげに後を追いかけるのはちょうど年の頃がアズミと同じくらいの華奢な少年。
「だからさ」
と、何かに躓いたか、少年は絵に描いたようなフォームで転んだ。やがて響き渡る渾身の泣き声を、もう大人になったゆかりは薄く微笑んでただ聴く。あんなふうな泣き方はずいぶん昔に忘れてしまった。子供と大人の境目は案外そんなところにあるのかもしれない。
「あの日、俺はアイツを怒れば良かったんだと思う」
見知らぬ少年は全身の力を振り絞って泣いている。まるでこの世の終わりのように。
「……何て言ったの、依は」
たとえば命の全てをかけて世界を憎めなくなったとき、もしかしたら人は大人と呼ばれる生き物になるのかもしれない。世界にも言い分があるのだと、知ってしまったその時に。
「……それは言えない」
けど。
ポケットから長い指を引き抜き、維継はジーンズの腿をパンと叩いた。
「くだらないことに囚われてた俺も、ゴジュッポヒャッポだったんだな」
呪文のような響きを持つその単語が、いつか彼らの間で言い交わされていた合言葉だと気づくには少しだけ時間がかかった。
「俺は化野が好きだよ」
囁くような声は、ともすれば風にさらわれてしまいそうだった。
そしていくら待ってもその先は続けられなかったから、続けられる人ではないと知っていたから、ゆかりは口を、開く。
「わたし、は」
対岸の少年は不意に差し伸べられた手にキョトンと目を見張った。彼の周りに漂う時間だけが今この時、一時停止ボタンを押されたかのようだ。
「好きな人が――います」
「うん……うん!?」
「依じゃ、なくて」
「え、そ、ま」
「依のことも、好きだったのは本当だけど」
パクパクと口を開け閉めする親友はめったに見られない顔をしており、
「でも、今は」
「それは……アイツ、よりも、その」
やっとのことで紡がれた言葉は、やはり最初に聞かれるだろうと思っていたこと。
「えっと……その質問には答えづらいな……」
だからゆかりは言い淀む。視線を宙に泳がせて。
犬塚我区、通称Mr.ガラスのハート。(駆け出し)作家の眼で冷徹に評するならば、間違いなく彼よりも依のほうが女性の支持を得られるだろう。
身近な人間に対して嘘をつくのが下手な自分をこんなに歯がゆく思ったことは、少なくともここ5年ほどでは一度もなかった。しかし途端に維継が不安そうな顔になるので、ゆかりは慌てて両手を振る。
「違う、ちがうの。……ちょっと情緒不安定気味なところはあるけど……」
出会ってしばらくは口をきくことさえ叶わなかった。ゆかりのピンチに駆けつけた時は、喜びより恐怖が先立つ活躍ぶりを披露してくれた。けれど。
「すごく愛情深い、優しい人」
《その日》がくれば、彼は弟分のために躊躇なく全てを捨てるだろう。居場所も、仲間も、愛する少女さえも。もちろん、死んでから発覚した従兄妹のことなど言わずもがなだ。
思いがけず突かれるように胸が痛んだ。咄嗟に強く拳を握る。
「……それはあの管理人サン?」
「やだ!!維継までそんなこと言わないで!!!」
力が抜けた。ふにゃりと開いた掌で思わず芸人のように親友の肩をはたけば、ノリに反して彼は息を呑む。
「……」
「……維継?」
「……いや、」
まじまじとゆかりを見つめ、維継は再び笑顔になった。少し前のそれとは違う。瞳の奥に宿るのは――
「?維継、どしたの、」
「よかった」
「え?」
「こっちの話だ、バーカ」
固めた拳はほんのわずか、かするようにゆかりの肩に触れ、
「で?告白は?」
大きく弧を描いて彼の逆の掌に包まれるように収まった。
「し、しないよ!!そんな!!」
「しろよ」
「なんで、そんな、維継に」
「人にはなあ、今しかないんだぞ」
ピッチャーが次に投げる球を考えているようなポーズで、失恋したばかりの親友は真面目くさって言った。
予想外に真剣な言葉にゆかりは返す言葉を見つけられない。
それを見た親友は大きく肩をすくめるとドサリ、とその場に座り込んだ。今にも口笛でも吹き出しそうなその軽やかさ。
「フラれたら慰めてやるからさ」
「……なっ!!!失礼な!!!」
「おお、その意気だ」
斜め上から、意地悪そうに口の端を上げる彼を見下ろした。午後の日差しを受けてキラキラと光る川面の反射がセルフレームの眼鏡に当たって、小さな虹色が踊っている。
向こう岸では、転んだ少年が眼前の大きな手を取ってゆっくり立ち上がるところだった。膝を払い、服を払い、頬のあたりをゴシゴシと擦って、幼い彼はそれでもシャンと前を向く。
「玉砕してもそうでなくても、紹介してくれよ」
「なんで悪い方のことばっかり言うわけ!!?」
一方、手の主はよくは見えないけれども、どうやら微笑んだようだった。血の繋がりがあるのかないのか、額が大分後退しているその男性は少年に二言、三言言葉をかけると、また手に持った飛行機をいじり始めた。いつしかそれを見守っていたゆかりと維継は、言葉を止めてただ時を待つ。
準備が整ったようだ。やり投げの選手のように綺麗なフォームで男性の右肩が引かれた。
日に焼けた腕が伸びる。飛行機が手から離れる。そして、
それは穏やかな風の過ぎる残暑の土手の上の空を一直線に飛んだ。ぐんぐんと、飛んだ。
「飛んだね」
「飛んだな」
「維継」
「うん?」
「私、依を探そうと思うの」
「……それは」
見上げる瞳は一転、困惑の色に染まっている。維継はゆかりではないのだから、きっと突然ゆかりがこんなことを言い出した真意などわからないだろう。彼女の《呪い》のことも、《案内屋》に《弟子入り》した今の生活も、知らないのだから当然だ。
「ケジメつけようと思って」
「……その、好きなやつのために?でもおまえ、」
「あれは私の一部になってるって依は言ってた」
《施術》の後の虚しさは、波が引いていく砂浜に佇むときの感覚に似ていた。足の裏から砂が浚われていくあの感じ。みぞおちのあたりがキュッと縮むような、あの。
「自分の嫌なところだけ人に押し付けて、忘れたふりして、私だけ幸せになるのはずるいでしょ」
「……っ、でも、よくわかんないけど、それは、死……」
「最近ツテができたから。闘う方法が見つかるかもしれないの」
「へ?」
「詳しくはまだ言えないけど」
白金と澪、どちらかが帰ってきたら全てを打ち明けるつもりだった。信頼という点でも実力という点でも、彼らは申し分ないくらいに適役だ。
「全部繋がってるのかもしれないと思うのよ。私がうたかた荘を見つけたことも、その……好きな、人が、できた、ことも……あといろいろ」
「…………化野」
維継はゆっくり立ち上がり、ガクほどではないにせよ、少し上になる位置からゆかりを覗き込む。
「《かもしれない》じゃ困る」
「え?」
「アイツが命かけて護ったおまえに、助かる《かもしれない》って程度の可能性だけで危険に踏み込まれるのは正直、困る。……託された俺が」
「維継」
「そういう意味じゃないけどな!自分で言ってて虚しくなるけどな!!」
「え、こ」
「冗談はさておき」
天を仰いでヤケ気味に叫んだ親友は、打って変わって真剣な眼差しになった。
ひやりとした水滴がゆかりのうなじのあたりで生まれ、それはに背中心を一直線に滑り落ちる。
「あの《月宮依》が全てを捨てないといけなかったくらいのノロイなんだろ」
「維継、どこまで知って」
「ほとんど知らねえよ。家のことも、おまえが抱えてたモノのことも。ただ、京都にいた頃、俺がどんなに頼んでもアイツの家には上げてもらえなかったこと、場所すら教えてもらえなかったこと、それから《家》のこと知らないはずのクラスメートがアイツにあんまり近寄らなかったこと、は知ってる。それから」
「……なに?」
「おまえのソレに意味があるかもしれないってこと」
日が陰った。途端にのどかな河畔は寂しげなグレーを帯びる。唾を飲み込む音が耳の奥でやけに響いた。
「割印ってわかるか」
「あの……書類とかにまたがって押す……」
「そう。依は、ソレがあれに見えるって言ってた。……あくまで可能性、らしかったが」
頬を撫でる風さえも冷たくなったように感じられる。
「どういう……こと?」
「おまえのノロイとセットになるノロイを持ってるやつがこの世のどこかにいるかもしれないってことだよ。いや、アイツはそんな言い方をしてなかったな」
「は……?」
「祈り、だと」
ますます深い混乱に陥るゆかりを、維継はただ真摯に見つめている。
「そこに悪い意志が《見えない》んだと。結果的に不幸を、それも甚大なやつを齎すものにはなってしまってるけどって……おい、大丈夫か」
遠慮がちに肘に触れた手は、すぐに離れた。
「や、だいじょぶ……ごめんね」
「いや俺もごめん、ちょっと急すぎたな。……ちょっと座るか」
「うん」
維継に倣い、ゆかりも土手に腰を下ろす。彼には申し訳ないが、告白された時の比ではない速さで心臓が全身に血を送り続けている。
「その……ほかには」
「いや、俺が聞いたのはここまでだ」
「……そう」
ことさらにゆっくり息を吐き、どうにか呼吸を整えた。太陽はまだ厚い雲に覆われたままだ。上空では風が吹いていないのか。それとも雲が大きすぎるのか。
「聞いたのはあの日。……いや、前日の、夜」
「依が全部持って行ってくれた、その後ね」
「ああ」
こんな表情をいつか見たと思った。こんな屋外でなく、どこかもっと薄暗いところで――
「おまえには言うなって言われた。これからのおまえには必要ない情報だって」
ああ、それは、依の部屋だ。二人で初めて訪ねたそこには家財と言えば卓袱台しかなく、古びたそれの上にポツンと真っ白な封筒が置いてあったのだった。目に痛いようだった、あの白。
「化野、俺がおまえの問題に口出すなんてできないけど、よく考えて決めてくれ」
眼鏡の奥の瞳はこの上もなく真剣だった。彼の言葉が嘘ならいいと、どうしてかゆかりは思ったのだけれど、その可能性はなさそうだった。
「ツテってあの管理人サンか」
「うん、まあ……そんなとこ」
「いい人そうではあるし、なんかさっきさりげに凄いことしてたけど、霊能者とかそういうのなのか?」
「えっと、まあ……そんなとこ、かな」
奥歯にものの挟まったようなゆかりの様子を、維継は呆れたように眺めた。
「……おまえが俺のこと心配してくれてるんなら、大丈夫だから。ことこの件に関しては、隠し事されるほうが困る」
いつになく押しが強い彼にゆかりは諦めて両手を上げる。
「わかった、もう少しちゃんと話せるようになったら話すから」
「頼むぞ、親友」
「……これつぐ」
ニヤリと笑った維継はもう普段の顔になっている。
「いいんだよ、きっと。よかったんだ、これで」
「……何が?」
「男の秘密だよ」
不意に雲間から一条の光が差した。外国では天使の梯子などというロマンチックな呼び名を持つそれが、ゆかりの中で結びつくものといったら一つしかない。否、一人しかいない。
「よーし、帰るか!」
「え、ちょっと、待って」
草を蹴散らしながらずんずんと進む親友の背中を慌てて追う。彼はけっして振り返ろうとしなかったから、考えるより先に口が動いた。
「もうちょっと外にいなよ、あんた三日ぶりなんでしょ、この引きこもり、」
「馬鹿、飲むんだよ。やけ酒だよ」
「は?」
「俺フラれたばっかなんだぞ。ほら、しっしっ」
「……何かそれムカつくなあ!!」
笑って再び身を翻す彼めがけて、ゆかりはたまらず声を放つ。
「さっきの、依を探すっての」
「んだよ」
「維継に一番に言いたかったの!!」
「知ってるよ!!!」
ポカン、と立ちすくむゆかりのことがまるで見えているかのように、親友はヒラヒラと手を振る。
「次の校了終わったらひさびさに飲み行こうなー」
「……おう!!」
拳を突き出して答えれば、やはり彼は背中に目がついてでもいるように笑うのだった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、ゆかりは動かなかった。高いところをアキアカネが群れて飛ぶのが視界の隅に映るのを少しだけ煩わしく思った。
今だけは、彼だけを見ていたかった。


(2013.02.25)

モドル