水色の空にゆったり浮かぶひつじ雲の群れ。照りつける太陽も夏の盛りの勢いはなく、どこか清々しい空気は季節の移り変わりを確実に伝えていた。
そういえば来週はもう秋の彼岸だ。先月しそびれた墓参りに行くには、今抱えている原稿をあと3日で仕上げる必要があったが、そう簡単にいくものだろうか。物思いという名の皮算用に耽るゆかりを現実に引き戻したのは、味方チームの四番打者が放った長打の乾いた音。ホームランかと思われたそれは、しかしロップイヤーの長い耳に阻まれる。
「チックショー、ハンデくれハンデ!!」
「これだけの範囲を二人で守れというほうがよほどハンデだ」
器用にもそのままボールをピッチャーに投げ返すと、グレイは人差し指で眼鏡を押し上げてニコリともせずに言う。
「しかもこの屁理屈コートと」
「なんだこのウサギ!!!キャベツよりニンジンが好きなくせに!!!」
噛み付くように詰め寄るガクを、彼は空いているほうの片手であしらった。
「……しゃーねーな。というわけでゆかりん、がんばってー」
二塁からエールを送る明神に軽く応え、ゆかりはさて、とバットを握る。金属製のそれよりもはるかに冷たい感触にはまだ慣れていなかった。道具は全て明神謹製、つまり彼の剄を具体的なイメージに置き換えたもの(従ってこの試合、姫乃と雪乃は自動的に見学組と相成った)。
死ねば魂はこのようなつめたさを宿すのだろうか。肉体という、いわば衣服を失ったというだけで。
それとも自分たちの皮膚の下一枚に通う命とやらは、それほどまでに熱さを秘めているのだろうか。
勝負の場にふさわしくない感傷を振り払い、ゆかりは不敵に笑う投手を睨んだ。対して視線の先の少年は、表情を変えることなく綺麗な投球フォームに入る。
指先にぐっと力を込める。ゆったりと振りかぶられる細い腕から目をそらさず、己が筋肉がひくりと収縮した瞬間、思い切り腕を降った。自分で言うのもなんだが幼い頃は野山を駆け回る野生児であった、運動神経だってそれほど悪くはないはずだ。けれど、
「ストライクゥ!!」
「速いよずるいよエージ君もうちょっと手加減して」
普段から姫乃の部屋で素振りにいそしむ筋金入りの野球少年に、ほとんど未経験のゆかりがかなうはずもなかった。エージは呆れたように肩をすくめる。
「そんなのこっちが言いたいぜ。案内屋二人もいるくせに、何がテカゲンだ」
「正宗さんはそんなにスポーツ得意じゃないって言ってたもん!!ね、正宗さん!!」
振り向いて呼びかければ、土手に寝転んでいる体格のいいチームメイトが片手を挙げた。口元から細く立ち上る紫煙。灰が口に入ることはないのだろうかとゆかりはいらぬ心配をしてしまう。
「ゆかり姉、あの人の反射神経ハンパないって知らないんすか」
バットを構えたゆかりの背後で低く呟いたツキタケは、彼の手にはやや大きめだったキャッチャーミットを構え直しながら遠い目をした。
「こないだキャッチボールに付き合ってもらったとき、めっちゃくちゃヤバかったっす」
「え、何そのハートフルな光景」
「ストライク2!!」
「は!!?」
間髪入れず高らかに審判を下したマフラーの少年は、大真面目な顔で言う。
「ハンデっす」
「いや今のは本気でずるい!!ずるいずるいずるーい!!!」
「だっておかしいだろ、明神に火神楽にゴウメイって!!ものすごく強そうじゃねえか!!」
地団駄を踏むゆかりに応えたのは、素早くツキタケと目配せを交わしたエージ。小さな子供の連携プレーは微笑ましいが、今この時ばかりは話が別だ。
「そりゃケンカならね!!でもこれは野球ですー」
「こっちなんかガクにグレイだぞ!!」
「ガクさん結構打ちそうじゃん、それにグレイさん鉄壁の守備じゃん!!!」
「エージ、アニキの悪口言うな!!!」
「あーハイハイ、喧嘩しないの」
と、うたかた荘一、肝の座った姫君が見かねたように割って入る。
「ツキタケ君、気持ちはわかるけどズルしない。エージ君も、ね!!わかった?」
どんな時でも場を収めるのは華奢な少女の一声で、
「了解マイスウィート!!!」
いの一番に従うのはもちろんコートの青年だった。今まですっかり話の外にいたくせに。ゆかりは誰にも見られないように唇を尖らせ、瞬時に平静な顔を作る。
姫乃がベンチ(よくバス停にあるような、限りなく白に近い水色のもの。なぜかこの河原に何年も前から打ち捨てられているそうだ)に戻ると同時に、ゆかりは金髪の投手に向けてまっすぐバットを突き出した。
「おう」
少年はやはりニヤリと笑い、ミットを胸のあたりに押し付けた。振りかぶる。
「わあ!!!」
甲高い歓声を背にゆかりは走る。一塁、二塁、そして少し前に明神がその上を走り抜けた念願のホームベースへと――
「ガクさん従兄妹じゃん!!手加減しようよ!!!」
「スポーツマンシップに反する発言を平然とするな」
いわゆる《投げ当て》を達成し、ガクはそれこそ平然とそっぽを向いた。

「ほい」
ペタリと頬に触れたつめたさは先ほどまで手の中にあったそれとは比べものにならないくらいだったけれども、ゆかりはやはり反射的に身を起こす。
「はは、冷たかった?」
朗らかに笑い、明神は伸ばした右手を動かさぬままゆかりの隣に腰を下ろした。
「もーう……びっくりさせないでください」
「ゆかりんがあんまりほけっとしてるからさ」
「なんですかそのゆるそうな擬音語は!」
一応、ビシリと突っ込みを入れたものの、ゆかりは素直に缶を受け取る。第一試合は思った以上にハードだった。
「何ですか49対42って」
「三角ベースは点入るよなー」
「そういう問題じゃないと思います……」
ため息をつき、プルトップを引く。アルコール度数のない炭酸飲料を口にすることはめったにないけれど、今は乾いた喉に心地よかった。
「だいじょぶ?次、休む?」
「いえ、いけます。というか私が出なきゃ人数足りなくなるでしょ」
「うーん、いや、キヨイかコクテンが出れば」
曖昧に空を仰ぐ明神を恨めしげに見上げてみせる。
「無理でしょう」
示した先の観戦組を見、明神も眉をハの字に下げた。無言でドサリと土手に寝転ぶ。思うさま手足を伸ばした後、脱力。
「湟神がいないと剄伝導できないしなあ……」
本日、昼の1時過ぎから始まった野球大会を主催したのは例によって明神だ。ただ、水(バ)の案内屋たる澪が不在のため、ホンモノのバットやボールを使うことができず(なぜかそういったおもちゃは管理人室の押し入れに潤沢にある)、こういう形になったのだ。
「んん、でもこれでいいと思いますよ」
自分の言葉が意味深な響きを持ってしまったことをゆかりはすぐに反省したが、こういう時だけ妙に聡い案内屋は不思議そうな顔をこちらに向けた。そのまま無言で続きを促す。
「えーと……私なんかが口出しすることじゃないかもしれませんが」
それはゆかりが常々気になっていたことだった。
剄伝導という、ある種、夢のような技術によって、《普通の》子供と同じようにお絵かきをして遊ぶアズミや、本来、触れられない存在であるはずの姫乃も交えてキャッチボールを楽しむエージを見ることによって。
「……子供って、素直でしょう」
本題とはかけ離れた地点からの切り出しになってしまったが、明神は真面目な顔で頷いた。もしかしたらゆかりの一言から、彼女が意味する以上のものを受け取ってくれたのかもしれなかった。
「この年になると……なんて言うと十味さんに怒られちゃうかもしれないですが、妙にキラキラして見えるんです。こども。もちろん、いろんな性格の子がいるけど、根本的なところではみんな等しく素直で、大人のことをかっこいい、すごいものみたいに思っていて……自分のことを思い出してもそうですよね。反発することはあっても、大人って絶対的な存在だったじゃないですか」
「うん」
ふとゆかりから目をそらした明神は、どこか遠くを見たまま呟くような肯定を返した。
「アズミちゃんもエージ君もツキタケ君も、もちろん忘れたりはしないでしょう。自分たちが霊だってこと」
けれど、ヒトは習慣の生き物だ。自分たちと生者との間に横たわる深い溝を、意識せずにすむような日常が当たり前になってしまえば。
「だからこそ、ちょっと心配で。《境界》を承知の上で踏み越えることと、その存在を忘れてしまうことは違うから」
彼らは霊だ。うたかた荘は所詮《うたかたの》宿り木、いつかは彼らも成仏という道を選ばなければならない。その決断をするために、必要な痛みもきっとある。
「……だから剄伝導を使っていいのは、特別な日――お誕生日とかクリスマスとか――に限るとかしたらいいんじゃないかな、って……ごめんなさい!!出過ぎたことを!!」
顎に手を当てて考え込んでしまった明神を見、ゆかりは慌てた。オロオロと両手を上下に動かせば、我に返ったらしい彼がこちらを向く。続く言葉は意外なものだった。
「いや、ありがとう。そうだな、なんか、俺ちょっと感覚マヒしてたかも」
「え?」
何かをこらえているような、それでいてどこまでも深い優しさの滲む笑顔で明神は言う。別人を見ているような気がしたのはほんの一瞬、すぐに彼は普段通りの明るい口調になった。
「湟神があげたペンでお絵かきしてるアズミがあんまり嬉しそうだったから、俺、もっとこの子を喜ばせなくちゃって思っちゃって」
小さな少女が家族から離れて一人きりで、このアパートに暮らす事情は聞いていた。《もっと世界のことを知ってほしかった、もっとたくさん遊んでほしかった》《明神さんたちとお腹いっぱい遊んだらいつでもおいで》――そう言って、交通事故で命を奪われたアズミの母は、一足先に天に昇っていったそうだ。
「でもたしかにそうだよな。《それ》が当たり前になるのは、よくない。案内屋(オレ)としたことが……」
「いや、でも、私」
「なんだよー」
そう言って小突くように肩からぶつかってくる彼を、ゆかりは混乱した頭のまま押し返す。
「だって、あの、新参のわたしなんかが」
「……あのね、ゆかりん」
明神は彼女の正面に顔を据えた。
「ゆかりんはもう立派なうたかた荘の一員だろ?」
飾りない言葉に急速に緩む涙腺を、ゆかりは必死に抑えようとし、
「何それ!!俺、今、ちょっといいこと言ったろ!?なのに何その仕打ち!!!」
厚い肩を渾身の力で突き飛ばした結果、明神はしたたかに後頭部をぶつけてしまったようだ。
「ごめ、ごめんなさい!!!」
「あーいて、俺、これ、次の試合出るの無理かも」
「!?それは困ります!!!」
「おー、珍しいなパニクってるゆかりん」
豪快に笑う彼を尻目に、ゆかりは懸命に呼吸を落ち着かせようと努力した。
いかにも秋らしい高い空に、秩序を保った鳥の群れが散開する。

「ああ、この澄んだ空に勝るとも劣らないマイスウィートの輝ける瞳」
「……」
「ダイヤモンドのようなそれをただ見つめているだけで、俺のちっぽけな疲労など雲散霧消だ」
「……」
とんとんとんとんとんとんとんとん、
止まる気配のない愛しい人のその場足踏みに、さしものガクも言葉を途切れさせた。小さな背中から立ち上る黒いオーラ。彼女が何に苛立っているのかなどわかりたくもなかった。
「エージ……お前、行ってこいよ……」
「いや、ツキタケ、行けよ……」
背後で囁き合う小さな声もカンに触った。ストレスは発散させるにかぎる。ずい、と立ち上がった彼は一歩踏み出したところでつんのめった。振り向けばコートの裾を掴んでいるのは、悪魔的な笑みを浮かべた悪魔の僕(しもべ)。実際、彼女の彼に対する愛はまさに盲目と言って良かった。
「なーにコワイ顔してんのよ、ヒョロ男」
「オマエには関係ない。あとおかしなあだ名を付けるのはやめろ発情コウモリ」
「アンタにだって関係ないでしょ?あの二人がいくらイチャついたって」
爛々と輝く大きな両目をいっそ潰してやろうかと思う。
「あいつらなんぞに興味はない。ただ俺は、マイスウィートが悲しそうにしているのが耐えられないだけだ」
ガクの言葉に、姫乃ははじかれたように顔を上げた。
「ち、違うよ!!そんな、悲しくなんて、」
頬を赤らめて反論する姿がひたすらに愛しくて、ガクは初めて出会った時のように彼女を抱きしめたい衝動を必死にこらえる。
「大丈夫だ何も心配することはないひめのん、今すぐに俺があいつら叩き潰してやるから」
「だから違うってば!!話を聞いてよガクリン!!!」
ああ、その特別な呼び名のなんと甘美なことだろう。うっとりと目を瞑り、感動に打ち震える彼を止められる者は誰もいなかったので、ガクはひとしきり大いなる恋の悦びを味わい、
「うん?どうした」
げっそりとした弟分に声をかける。
「……大丈夫っす」
「しかし随分顔色が悪いぞ、さっきの試合もハードだったし、少し休め」
「……アリガトウゴザイマス」
ロボットのようにぎくしゃくとした動きで土手に寝転んだツキタケは、その直前にエージを見、見られた方は訳知り顔で小さく首を横に振った。気に入らない。
「やっぱり行ってくるよマイスウィート、晩御飯は肉じゃががいいな」
「ちょ、だから待ってガクリ……ああ!!」
「ひめのん?」
「どうしたヒメノ」
「デコピン……」
不可解な四文字にガクは体ごと傾けて疑問の意を示すが、姫乃はそんな彼には頓着せず、食い入るように彼方の二人を見つめている。子供のようにじゃれ合う管理人とその店子。
「デコ……ああ、」
エージが何とも言えない顔で横を向く。
「明神(アイツ)は何にも考えてないと思うぜ」
愛しの姫君の瞳にうっすら膜がかかっているように見えた、瞬間、ガクの全身がカッと熱くなる。

散り散りになったと見せかけた小さな影たちは、号令も笛の音もないのに再び美しい菱形を水色のキャンバスに描き、やがて少しずつ小さくなってゆく。パレードみたいだ、とゆかりは思う。都会の空でよく見かける、あれは何という名の鳥なのだろう。
「そーいえば、さー」
年若い管理人が語尾を伸ばすのは、言いにくいことを言い出す時の癖だと4ヶ月も一緒に暮らしていればさすがにわかる。
「はいはい?」
だからできる限り軽い調子で応じた。そんな彼女に安心したように、明神は一つ息を吸い、
「メガネ君と付き合うの?」
ゆかりを凍りつかせる爆弾発言を落とす。
「…………今なんと?」
「え、と、だから、メガネ君と、その……」
「ないないないないです、てか、何ですかそのっ……それっ……」
「あ、そっか、よかった」
へにゃりと笑い、明神はハッと目を見開くと己が口を掌で塞いだ。
「ごめ、」
「私はどこから突っ込めばいいの!!?」
にわかに心臓が速いビートを刻み出す。ガクの顔、姫乃の顔、それからなぜか依の顔が頭の中をぐるぐると回った。
「や、あのな、師匠が言ってたんだよ」
照れくさそうに笑う彼は、けれど手垢の付いたつまらぬ展開にあるまじき言葉を紡ぐ。
「《冬悟、男同士の友情なんて脆いもんだぞ》って」
「……はあ?」
「《奴ら、カノジョができたら簡単にそっちのほうに寝返っちまう。飲みに行くのも、そのまま朝までバカ騒ぎするのも付き合ってくれなくなって、だんだん疎遠になっちまうんだ……だから冬悟、頼むからお前はそんなつまらない男にはなってくれるな》って」
「もしもーし」
「ゆかりんくらいじゃん、俺のバカに最初っから最後まで付き合ってくれるの」
「もしもーし、明神さん」
「もちろん、大切な人ができるのはいいことだと思うよ。でも俺としてはまだもう少し、こんなふうに遊んでいたいなって――」
「馬鹿ですかあなたは!!!」
今度のそれは完全に意志の下にあった。ビタン、と蛙のように這いつくばった姿勢から顔だけ上げて驚きを表す男を見ながら、ゆかりは震える拳を反対の手で押さえる。
「そこまで徹底されておりますと逆に清々しいですし、姫乃ちゃんの恋路を応援する私としては願ったり叶ったりなんですがね」
「ひめのん?の、何だって?」
「アンタそれじゃ私が男ってことになるじゃないですか!!!」
渾身の叫びに明神は二度、口を手で覆った。
「……ご」
「そこで謝られると逆に傷つきますわ!!!」
「う、あ、えっと」
尚も何かを言い募ろうとした形の良い唇は、
「ぐはあ!!?」
呻き声を残して貝のように閉じられる。
「スウィートを泣かせた罪、体で償え白髪男」
バットでもミットでもなく、見慣れた木槌を掲げたガクの瞳に映っているのは今、明神だけだ。
「ガ、ク、リ、」
「お前もお前だ!!!」
手の甲に筋が浮くほどきつく柄を握りしめ、子供のように叫ぶ彼をゆかりは呆然と見つめた。
「気安くデコピンなんかされてるんじゃない!!」
「え、そこ!?」
「男はみんな狼なんだぞ!!!」
「ごめん、あなたが何を言いたいのか私には皆目わからない」
「あー今のは効いたぁ」
ユラリ、と一度大きく上半身を揺らめかせ、勢いよく起き上がった明神は素早くガクの両肩を掴む。
「……っ」
「へっへ、石頭は折り紙付きだぜ」
鈍い音と共に今度はガクが蹲った。額を押さえながら得意げに胸を張る明神の足元の地面が、数秒の後、一気に崩れることをまだ彼は知らない。
「せっかくみんなで遊びに来たのになんでまた喧嘩してるのー!!」
仕方なく止めに入った姫乃が、
「野球してるんだから野球で決着つけなさい!!!」
またも見事な大岡裁きを披露するのは、そのさらに5分ほど後の話である。

***

互いの顔が夕焼け色に染まっていたが、第二ゲームはまだ終わらない。今日こそ息の根を止めてやると息巻くガクと、やれるもんならやってみろという明神の活躍によって、点差はほとんど開くことなく推移していた。
打順を待つゆかりは、少し後ずさって広場を眺める。もはや土まみれ、汗まみれの住人たちはそれでも楽しそうに走り回っていた。相変わらず火神楽正宗はほとんど喋らなかったが、調子よく打点を稼いでいる様子を見ると、嫌なわけではないのだろう。桶川母娘は夕食の準備をするため、護衛のキヨイとコクテンを伴って一足先に帰宅していた。そういうわけで今はもう、ゆかり以外にこの試合を観戦している人間はいない(時折、本当に時折、足を止める人間もいたが、今のところ100パーセントの確率で、見てはいけないものを見たような顔をしてそそくさとこちらに背を向けるのだった)。静かな土手にまた小気味いい音が響く。
大きく弧を描いて飛ぶボールをガクが全速力で追いかける。
長い指先がその端に触れた。彼が会心の笑みを浮かべるのが見えた気がした。
「ゆかり!出番だ!」
一塁で足止めされた正宗が叫んだのを機に、一歩踏み出す。
その足元に微かな違和感があった。気のせいかもしれないと思えば思えてしまうほどの、わずかな。
下を向く。赤茶けた土とぼうぼうと伸びる草の葉、特に異常は見られないが――
「なにこれ」
聞いている者は誰もいなかったが、つい独り言が口から漏れた。白く細い、糸くずのようなものがいつの間にか幾重にもゆかりの左の足首に絡みついていた。
もう一度あたりを見回すが、菌糸を吐き出すような植物はその場にない。もっとも、ゆかりが知らないだけかもしれなかった。
正体不明のそれに触れてみる。ほんの少しだけ、粘り気を指先に感じた。
「えい」
やはり意味はなかったが、小さな掛け声と共に手を引いてみた。糸(のようなもの)はあっけなくちぎれ、バラバラになった破片は瞬く間に緩やかな風に飛ばされる。
「ユカリ、どうした?」
「ううん、ごめんね、今行くー」
だからゆかりもすぐにそのことを忘れてしまった。
それが何だったのか、彼女にとってどういう意味を持つものだったのかに思い至るのは、もう少し先の話である。


(2013.03.02)

モドル