服の下まで染み入るようなひんやりとした夜気に、ゆかりはぶるりと身を震わせた。興奮した神経とは裏腹に重たくなりつつあった瞼がパチリと開く。けれども、
「諦めたらそこで試合終了だぞ」
「諦めではありません、戦略的撤退です」
右手で左の肩を揉みながら言い返せば、隣に座る従兄妹は鼻で笑った。
「だって!今これ以上粘っても良くなりそうにないんだもん!!」
「わかったわかった、大声を出すな」
口を塞がれて頬を染めた彼女を、彼は呼吸がしづらいのだと判断したらしい。大きな掌はすぐに離れた。
だからケホン、と咳払いの真似事をして、ゆかりは跳ねる鼓動を鎮めようと努める。そんな二人を見守るのは、暗い空にちりばめられた宝石のような無数の星々。今宵は新月、草木も眠る丑三つ時に屋根の上で天体観測に興じる酔狂な輩は、ぐるり見渡すかぎりでは他にいそうもない。
「里帰りはまたお預けか」
「仕方ないよ、仕事だもん」
数日前に陽の当たる川原でこねくり回した皮算用は、やはり現実にならなかった。現在ゆかりが取り組んでいる掌編は、一応、規定の字数に達したとは言えまだまだブラッシュアップが必要で、締切までの日数は今日を含めてたったの4日。帰省に新幹線が必要な維継などとは比べ物にならないが、バイトやら何やらを勘案するとやはり実家まで行って帰ってくるだけの時間は取れそうになかった。
「一通りは書けたんだろ?」
「まだ人様に見せられるレベルじゃないもの」
しかし妥協するくらいならば、家族に会えない寂しさなど涙を飲んで我慢しようというもの。それはゆかりの理想でも、また現実でもあった。
仕事において一番大切なのは《信用》だと、ゆかりはとある女優のインタビューで読んだことがある。
――この人ならばきっと良いモノを見せてくれるだろう、と信じていただける結果を出し続けることで、私たちはご飯を食べられるんです。
昭和を代表する大女優と言ってよいその人のあまりに謙虚な言葉に、当時まだ学生だったゆかりはいたく感動し、以来、ひそかに座右の銘としているくらいである。
そしてまたそのことは、作家・化野龍彦の娘という色眼鏡をはねのけて文の世界で生きていくために不可欠な、実際的な知恵でもあった。一つ一つの仕事に全力を尽くすこと。それがゆかりにできる全てで、その先のことは神のみぞ知る、だ。
しかし、新米作家のちっぽけなプライドは愛に生きる幽霊の琴線には触れなかったらしい。不興げに顔をしかめて両脇に手をついた彼は、やや背を反らし、無言のまま星空を眺める体勢になった。
むくれている、と表現するのは可愛すぎる。拗ねている、とも違った。一体何が気に障ったのだろう、とゆかりは小さな頭を傾げ――
「後悔するぞ、いつか」
「なにを」
「会いに行ける時に行かなかったことを」
表情を変えずに言う青年の青白い頬をじっと見つめた。
すぐ隣にいるのに、今この瞬間、ゆかりと彼を隔てるものはあまりに大きく深かった。生者と死者。
「ガクさんは後悔してるの?」
するりと口から滑り落ちた言葉に、日頃から三白眼ぎみの従兄妹は瞳がこぼれ落ちてしまいそうなほど目を見開き、そして黙り込む。
「……今も?」
「……」
「あの時、」
「……目が覚めて、死んでるとわかって、……復讐を誓った」
「帰ってないのね?」
沈黙。
ややあって、かすかに鼓膜を震わせた音がある。囁くような声で中空に吐き出されたそれは、
コワイ
と聞こえた。
互いの間に横たわる深い河を、だからゆかりは悠々と(少なくとも、そう見えるように)一足で越える。
温度のない左手に、冷え性とは無縁な己の右手をそっと重ねた。途端に肩をいからせた彼の反応には少しだけ傷つくけれども、
「こないだ維継のアパートに行った日、《ここからわりと近い》って言ってた、よね」
「は?」
「じゃあもう面倒だからタクシーで行こっか。案内ヨロシク」
伸びていた五指を柔らかく丸める。ゆかりの唐突な、けれど確かな決意を従兄妹はその仕草から汲み取ったものと見えた。さあっと、通わないはずの血の気が引く音が聞こえた気がした。
「ちょっ……締切、」
「私、誰かのためなら結構ガンバれる女だから」
「待て待て待て待て」
「夜が明けたらすぐにでも……って言いたいところだけど、朝っぱらからじゃ迷惑だろうしね。私、ちょっと寝るけど逃げちゃダメよ」
「馬鹿かお前は、」
「一応、電話してから行こうか。お留守だったら困るものね」
「人の話を、」
「思い立ったが吉日!」
さっと立ち上がり、腰に手を当てて酸欠の金魚のように口を開け閉めさせるガクを見下ろす。ニッコリと笑いかければ、対照的に彼はガックリと肩を落とした。

***

張り巡らされたレンガ塀は歩いても歩いても果てが見えず、ゆかりはただ呆気にとられた。京都で寺院巡りをした時の感覚に似ている。しかしこれは一般住宅のはずだ。
「ガクさん、お坊ちゃまだったんだね」
「言うな」
素っ気なく遮られ、気分を害したかと見上げれば別段いつもと変わらぬ様子だったので、ゆかりは気が楽になったついでにこの場に全く関係のないことを考える。たとえば、彼と生前から付き合いがあったというツキタケも、やはりそれなりの家柄の子供だったのだろうか、とか。
ガクの家に行くということはツキタケにだけは伝えてあった。一緒に来るかと問いかければ、少し硬直して考え込んだ後、ゆっくり首を横に振られた。
――家族水入らずで。
難しい言葉を知っているねと褒めた後、ゆかりはやっとそのことに思い至った。つまり、ガクの母は自分の叔母なのだということに。俄かにそわそわしだした彼女を、ガクは小さな子供を見るような目で眺めていた。
そして、今。
「ガクさん、インターホンがない」
「こっちだ」
ようやく仰々しい正面玄関(ギリシャあたりの神殿遺跡に使われているような太い円柱が印象的だ)に辿り着き、途方に暮れたゆかりに、ガクが指で門扉の内側を示す。なるほど、玄関扉のすぐ脇にそれらしい小さな機械が付いていた。しかし石造りの壁にはいかにも不似合いだ。
「え、でもココ勝手に開けていいの」
「開いてるだろう」
おそるおそる金属製の取っ手に触れると、艶のあるそれは滑らかに動いた。
「ちゃんと閉めろよ」
「言われなくとも」
建ててから何年が経過しているのだろう。良い具合に古びた白い扉の前に立ち、まさにボタンを押そうとした瞬間、音もなくそれは開いた。
「……あ」
呆然と見つめ合う。ドアノブを握ったままの小柄な女性は、ゆかりが肌身離さず付けているロケットの中で微笑む少女と同じ顔をしていた。違うのは眼鏡をかけていることくらいだ。ゆかりの母と双子ならば、達彦よりも幾分か年上のはずだったが、驚くほどに若く見えるひとだった。
「……はじめまして、化野ゆかり、です」
女性はゆっくり笑み崩れた。泣いているような顔にも見えた。
「初めまして、犬塚百合です。どうぞ、散らかってますが」
それは謙遜だ、と思った。ことさらにキョロキョロ見回すようなことはもちろんしなかったが、視界に入るどの調度も質の良い、落ち着いた雰囲気を醸し出していて、ゆかりは今さらに母と叔母の辿った運命の違いを噛み締めるのだった。もちろん、母は幸せだったろうと思うのだけれども。
隣に立つ人の手をぎゅっと握ったまま玄関に踏み入り、靴を脱ぐ。踵を揃えた紺色のパンプスをまたぐようにして、《見えない》客は5年ぶりにその家の敷居を越えた。

「驚いたわ、蘭ちゃんそっくりで」
「……そうですか?」
首を傾げたゆかりに、百合は微笑みながらティーカップを差し出す。
「お砂糖とミルクはお好みでどうぞ」
「あ、ありがとうございます。でもどちらも大丈夫です」
「ふふ、本当に蘭ちゃんみたい」
向かいの席に腰かけた彼女は、品の良い仕草でシュガーポットの蓋を開けると角砂糖を一つ、透き通った赤茶色の水面に落とした。ゆっくりかき混ぜる。
「《そんなことしたら紅茶の香りがわからなくなっちゃうじゃない》っていうのが、蘭ちゃんの言い分だったの」
「そうなんですか」
「私はね、お砂糖がないとダメだった。今もそう」
手を止め、ゆかりを見た眼差しは穏やかで、ガクの面影を探そうと試みるけれどもせいぜいそれは長い黒髪にしか求められそうもない。それもまた、彼女は幾分くせがあり、その子たる彼は絹糸のようにまっすぐな髪質の人だったから、ガクは全体に父親似なのかもしれなかった。
「……母は」
「亡くなっていたのね。……どこかでそんな気はしていたのよ」
俯いた拍子に、ゆかりは真っ白なテーブルクロスの端に小さな小さなシミを見つけてしまう。赤紫色のそれはワインかもしれないと思った。飲み物の中で最も取れにくいシミだ。
「出産した時、ハガキを送ったの」
あらぬことを考えていたから、その言葉を理解するまでには時間がかかった。
「……え?母に、ですか?」
「ええ。……どこに住んでるかなんて皆目わからなかったから、……興信所に頼んで」
息を呑むゆかりに、百合はすまなさそうに微笑んだ。
「どうしても伝えたかったの。夫もそれは望んでいて」
「……そうですか」
幼馴染で許嫁だった彼と彼女。二人が結ばれる前に姿を消した母がどんな想いを持っていたのか、百合は全く知らないのだろうなとゆかりは思う。斬られるように胸が痛んだ。
「返事が来なかったら、もう二度と連絡はしないって決めていたんだけど」
「……母は」
叔母は無言で、一層深い笑みを見せた。ゆかりは小さく頭を下げる。
「やだ、顔を上げてちょうだい」
「でも」
「いいの、……私は、たぶん、何もわかっていなかったんだと思う」
痛みをこらえるような、また過ぎ去った思い出を懐かしむような表情を、いつかどこかで見たと思う。あるいはそれは予感なのかもしれなかった。
「今なら話せる気がするの。でも、これはお墓まで持って行くわね」
「……ありがとうございます」
「ゆかりちゃんはいい子ね」
「え、」
「蘭ちゃんにそっくり」
キッチンの磨き上げられた蛇口を、整然と調味料が並ぶ棚を背景にして、初対面の叔母はそんなことを言うのだ。この光景を忘れることは生涯ないだろうとゆかりは思った。
「……母は、百合さんにとってどんな人でしたか」
従兄妹のために訪れると決めていたのに、気づけば自分の話ばかりしている。目を伏せたまま問うたゆかりに、百合は小首を傾げたようだった。
「理想そのもの、かしら」
「り、そう、」
「私は手先も不器用だし、ぼんやりしているし、学校では叱られることばかりだったわ。でも蘭ちゃんはいつもかばってくれて」
ティーカップを静かに持ち上げ、一口飲むとまた戻す。添えられた左手にある指輪が、差し込む午後の日差しを反射して輝いた。
「そう、夫もね、小さい頃は体が弱かったものだから、私たち二人して蘭ちゃんの子供みたいだった。どこへ行くにも蘭ちゃん、蘭ちゃんって……甘えてばっかり」
「……母はそれが嬉しかったんじゃないでしょうか」
「え?」
「百合さんと仁志さんに、頼られることが」
「そうかしら」
「そうですよ」
「そうだといいわ」
「きっとそうです」
勢いこんで言うゆかりを、百合は目を細めて眺めた。
「……女性に年齢なんて聞いちゃってごめんなさいね、ゆかりちゃんはお幾つなの?」
「えっ……と、24です」
「あら」
百合は軽く顎を引き、目を見開く。
「息子と同じね。あ、一つ年下になるのかしら」
(仕方のないこととはいえ)この家に上がってから一言も発していなかったガクの肩先が瘧にかかったように大きく震えた。もちろん立ったままの彼と手を繋ぐことはできなかったから、ゆかりは反射的にテーブルの下で彼のコートの裾をぎゅっと掴む。
「…………あの」
「知ってるのね」
「…………はい」
泣いている子供をあやすように、背を撫でるように少しだけその手を動かす。今の彼は全部が魂で出来ているから、ゆかりの気持ちは伝わるはずだった。果たして震えはだんだんに収まってゆく。その事実にゆかりもまた救われていた。けれど、
「私は、信じてるの」
その一言はトドメだった。
不意に喉元からせり上がった熱い塊を飲み下すために、ゆかりは急いで紅茶を含む。ハーブのような香りがした。たとえば心を落ち着かせるような、そういう効果があるお茶なのかもしれなかった。
何を、などと問えるはずもない。それほどに叔母の口調は確信に満ちていた。
「事件の後、しばらくは随分いろいろな人が家に来て……引っ越そうかっていう話も出たの。でも、息子が帰ってきた時に知らない人が住んでいたら吃驚しちゃうでしょう。だから」
「はい、」
「ああでもそうなのね、ゆかりちゃんはじゃあ、年齢的にもちょうどいいわね」
「え?」
「ちょっと待ってちょうだい」
パタパタと部屋の奥に消えた百合はすぐに戻った。手に持っているのは最近見なくなった、分厚く重いタイプのアルバム。
「家族で撮った写真って、あの子が大きくなってからは少なくなっちゃうんだけど」
手を切りそうに鋭く固いページを忙しなくめくっていた手がふと止まった。
「ああ、そう!ちょっと待って」
譫言のように同じ言葉を繰り返した彼女が再びダイニングの扉を開けた時、部屋の隅でフワリと埃の塊が宙を舞うのが見えて、ゆかりは慌てて目をそらす。今度も間をおかずに戻った百合の手にあるのは、クリーム色をした薄い冊子のようなものだった。うっすら背筋の寒くなるような予感が、した。
「行方不明になる直前のお正月に撮ったものなの。だからやっぱり、今よりは幼いかもしれないけど、我が家ではこれが一番新しいということなのよ」
穏やかな口調を初めて怖いと思った。写真の中のガクは、《今》と寸分違わぬ顔つきで、まっすぐこちらを睨んでいる。
「蘭ちゃんとね、話したことがあるの」
「なにを……ですか」
「私がお嫁に行っちゃったら、蘭ちゃんとは家族でなくなっちゃうじゃない。女は苗字が変わるから。そんなの嫌だって言ったら、蘭ちゃん、言ってくれたのよ。《私の子供と百合の子供が結婚したら、また家族になれる》って」
「え?」
「蘭ちゃんはやっぱり頭がいいのね、新しい繋がりを作ればいいなんて私は思いつきもしなかった」
「そ、」
「我区が生まれた時は嬉しかった。あの子はもちろんとても可愛かったけれど、これでやっと約束が叶うって思ったから」
「それは」
「ハガキの返事がないのは悲しかったけど、どうしてかこれで終わりって感じはしなかった。その通り、こうしてゆかりちゃんに会えたのだもの。ねえ、我区が帰ってきたらぜひ会ってあげて。無口でちょっと感情がわかりづらいところがあるけど、根はとっても素直でいい子なのよ」
「百合さ」
「蘭ちゃんもきっと喜んでくれるは」

「おかあさん」

かすれた声は、空気を振動させることなくゆかりの耳に吸い込まれるように落ちた。
それきり言葉を続けられない彼の心中はいかばかりか。思わずゆかりは椅子を蹴って立ち上がろうとし――
「あら?」
不思議そうに辺りを見回す叔母の姿に動きを止めた。
己を凝視しているゆかりに気づき、百合は小さく眉をひそめ――
「今、ゆかりちゃん、私のこと、呼んだ?」
絶句するゆかりに畳み掛けるように、
「確かに呼ばれた気がしたんだけど……ゆかりちゃん?」
顔を覗き込んだ彼女は少女のように口を開いて固まった。理由はとっくにわかっている、彼女の姿が水に溶けるように見えなくなっていた時点で。
「ど、どうしたの急に」
「いえ、ごめんなさい」
「ああ、ごめんなさいね、私が急に変なこと言い出しちゃったから」
「違うんです、ごめんなさい」
「いいのよ嫌だ、ごめんなさい」
謝罪の応酬は不出来なコントのようだった。けれど笑う者はその場に誰もいなかったので、どうにも落ちの付きようがないのだった。

***

最後は笑って手を振った。そうすることができて良かったと、ゆかりは心から安堵の息をつく。先に立って歩く従兄妹は気づいたのか気づかないのか、歩調が変わることはなかった。
夕暮れが近づきつつある道を、少し歩こうと提案したのはゆかりだ。目の腫れはもう引いていたが、気持ちの整理の時間が必要だった。いっそ今夜はうたかた荘に帰らなくてもいいとすら思ったが、《スウィート》以外の人間と二人きりで外泊だなんて、誰よりもガク本人が許さないだろう。
「ガクさん」
応えが返らなかったから、小走りで追いつく。体の脇にだらりとぶら下げられた骨ばった手を、迷子になった子供のような性急さで握る。
「……どうしておまえが泣いた」
「……だってガクさんが泣かないから」
隠さずに答えると、従兄妹は不服そうに顔をしかめた。眉根の寄せ方が母親にそっくりだった。
「どのツラ下げて俺が泣けるか」
「馬鹿」
どうして男という生き物はこんなに馬鹿なのだろう、と知ったふうなことを思ってしまう。ほどに、鼻の奥がツンと痛んだ。握った手をぶん、と振る。
「馬鹿はおまえだ」
「ガクさんよ」
「おまえ」
「ガクさん」
ガクは死者だから、その手にゆかりの温度が移って暖まるということは未来永劫なかった。けれどそれは、ゆかりの体温が奪われるわけでもないというのと同義だった。
「痛いよ」
珍しく、吐き捨てるようにでなく言葉を発した従兄妹の力が抜けたままの手を、
「痛くしてるんだから当然よ」
ゆかりは尚も強く握った。やがて諦めたようにきゅう、と握られたのを確認して力を抜いてやる。
「本当に馬鹿な奴だおまえは」
「馬鹿で結構コケコッコウ」
徐々にオレンジ色に染まる景色の中、ゆかりはわざと大きな音を立てて歩くようにする。痛みも、悲しみも、苦しみも、恐れも、彼と彼女を脅かすものを全て踏みにじることができるように。
その先に、二人で行けるように。
「何か言ったか」
「なんにも」
行き場を失った熱が身の内でくすぶるようだった。そうしてその夜、ゆかりはやっぱり発熱した。


(2013.03.11)

モドル