犬塚ガクは苛立っていた。
台所では何かを刻むリズミカルな音が響いている。愛しいスウィートの母が立てるその音はいついかなる時でも住人たちの気持ちを落ち着かせる穏やかさに満ちていた、にもかかわらず腹の中で渦巻く何かは収まりそうになかった。こんな気持ちにさせるのは他でもない、彼の従兄妹その人だ。
ぐいと顎を上げて天井を見る。ガクが今立ち尽くしているのはオンボロアパートの一階に位置する共同リビング、つまり彼女の部屋はこの薄い天井板の向こうにあることになる。正午に向けて徐々に強さを増す陽光が視界の隅を白く染めた。宵っ張りの彼女がこんな昼日中に寝ているのは珍しいことでもなかったけれど、今日は少し事情が違った。
熱を出したのだ。それはガクの実家から帰宅し、ほどなくして起きた出来事。
「病弱者が」
ため息と共に文句を吐き出し、ガクははてなと首を傾げた。言いたかったのはたしかにそのようなことだったが、何かが違う。それはテストで正しい熟語を書けなかった時のような違和感――
そうだ、そんな単語はない。正しくは俺はこう言いたかったのだ。
「軟弱者が」
もう一度呟き、満足したようにうん、と頷く兄貴分をツキタケが不思議そうな顔で見上げた。

「だからね、ガクリンに傍についていてあげてほしいの」
上目遣いにお願いをするスウィートは、それはもう可愛かった。可愛すぎた。この可愛さで発電とかできるのではないだろうか。太陽光発電ならぬ、ひめのん発電。究極のエコだ。夢の技術だ。
「ガクリン?」
妄想に耽っていたガクは目を瞬かせ、次いで直視するには眩しすぎる太陽のような笑顔をおそるおそる見返した。今なら空だって飛べそうな気がする。けれど、
「いくらひめのんの頼みとはいえそれは承服しかねる」
絞り出した言葉は思いの外重苦しく、ガクは自分でも意外に感じた。だが元来彼は表情の変化に乏しい男だったから、身の内の小さな戸惑いなど他者に気づかれようはずもない。案の定姫乃は困ったように眉を下げた。
「そんなにイヤ?」
「……ああ」
「……ほら、従兄妹、だし」
従兄妹!その言葉をガクは胸の内で繰り返す。従兄妹!
あるかなきかのかそけき血の縁(えにし)を、姫乃をはじめとする住人たちはずいぶん重く見ているようだった。もちろん、ガクだってそれが判明した時に嬉しくなかったといえば嘘になる。それは決して相手が彼女だからではなく、単純に生物としての本能だろう。自分に繋がる人間がまだ存在している、という感覚。家族からも世界からも切り離され、弟分と共に狭間を漂う彼は、だからそれで十分に満足だったのだ。彼女が、そこに、いるだけで。
彼自身が《本当に》全ての物から切り離される時はたぶんそう遠くない。その日のことを想像するたび、心の中では黒い火が燃える(本物の憎しみは赤でなく黒だとガクは思う)。悲しみも苦しみも追いついてこないその場所に、一人で行くことはとっくに決めていた。そんな自分が望むことなど至ってささやか――大切な弟分と愛しい人、そして彼に連なる血を持つ彼女、それからあのムカつく管理人やお転婆な少女たち。彼らとあと少しだけ、このぬるま湯のような日常を過ごしたいということくらいだったのに。
5年ぶりに再会した母の顔が頭の中のスクリーンに大写しになる。ドクン、と大きく心臓が跳ねた。もうとうに動きを止めたはずの心臓が。
どれほど老いているかと覚悟した。けれどあっけないほど母はあの頃のままで、その変わらなさが逆にガクの背すじを冷やした。母の――犬塚百合の時は止まっている。おそらく《あの日》からずっと。
自分が死んでいるのをこれほど歯がゆく思ったこともなかった。あの時、本当は、ゆかりの手を引いて家を飛び出してしまいたかったのだ。あんな顔を見ることになるなんて。母があんな顔をするなんて。
彼女は明らかに、静かな狂気に蝕まれていた。
そういう前提の下にあらためて周りを見渡せば、家の中の奇妙にちぐはぐな雰囲気も納得できた。蛇口は磨かれているのに、布巾は黒ずんでいる。質の良い調度たちは一見以前のままだったが、その上にはうっすら埃が溜まっていた。そもそもそこには生活感というものがなく、ガクは、おそらく父は長いこと帰っていないのではないかと何となく思った。思った瞬間、鋭く胸が痛んだ。
その原因は俺なのだ。
俺が、死んでしまったから。
「ガクリン、ガクリン」
「アニキ、大丈夫っすか」
ハッと下を向けば心配そうな4つの瞳。
「すまん」
ツキタケの頭の上にはそっと手を乗せ、姫乃のことはただ見つめる。そうだ、ここはうたかた荘で、決して俺の家ではない。亡霊のように纏わりつく昨日のイメージを懸命に振り払い、ガクは現在(いま)に集中しようと努める。
「寝ていれば治るだろう」
「でも、心細いと思うの」
どこまでも真摯なスウィートの強情さすらもガクはもちろん愛していたが、こういう場合は考えものだ。何と説得したものかと青年は口を開きかけ、
「ゆかり姉、寝言でアニキの名前呼んでましたし」
ツキタケの言葉に固まった。
「…………何だと?」
「そうそう、さっき、ねえ」
「ひめのんも聞いたのか!?」
「うん、ちょっと様子見に行ったら寝てて」
「ね」
「うん」
頷き合う子供たちを横目にガクは頭を抱えた。何てことをしてくれる、あの女。それではまるで彼女と自分が――
「アニキ!!危ないっす!!!」
「家の中でピコピコハンマーを振り回すのはダメって言ったでしょガクリン!!」
またずいぶん近くで風の唸る音がしたな、と思ったがどうやらそれは自分の仕業だったらしい。
「……わかった行こうただしツキタケおまえもだ」
顔を伏せたままボソボソと呟いた。対する弟分は心得たもので、聞き取りにくかったであろうその単語を逐一拾い、黙ってピタリとガクの横についた。

***

漆黒の闇の中にゆかりはいる。手足は縛められていて動かない。倒れたままの身をくねらせるとパシャパシャとゆるく飛沫が上がった。それでどうやら水のあるところらしいとわかった。
いくら目を見開いても何も見えない。代わりに記憶に映るのは断片的な映像だった。八重桜。せせらぎ。しんしんと降り積もる雪。鮮血。血痕。はだけた裾から覗く白い脚。
突然、気が狂いそうになるほどの衝動が頭のてっぺんから足の先までを雷のように貫き、ゆかりはのたうちまわって暴れた。伸びた身体で水面を打つ。バシャリバシャリと波立つそこは、しかしそれ以上の何ものをもゆかりにもたらさない。
縛められた全身が痛む。針のようなものが無数に刺さっていることに今さら気づく。
ああ、これは結び直された呪縛だ。永遠に続く封印だ。
憎しみの炎が全身を灼く。それでも水はそこにあり、闇は――
そこで場面が変わる。夕暮れに近い金色に染まった、がさがさした藪の途切れたようなところにゆかりはいて、目の前で微笑んでいる女性は百合――先日会ってきたばかりのガクの母だった。年の割に若く見える彼女だったが、佇む姿は本当に若い。ゆかりとそう変わらなさそうにさえ見える。
百合は優しい手つきで鱗に覆われたゆかりの身体を恐れずに撫ぜ、後ろ手に持っていたものをゆっくり差し出した。それはよく手入れされていそうな裁ち鋏。銀色に光る刃が眩しい。でもそんなものでは、この呪縛は――
シャキン、と小気味よい音がして一気にゆかりの手足は自由になる。次の瞬間、もう百合は豆粒のような大きさになっている。
体中を駆け巡る歓喜がゆかりを先へ、先へと急がせる。耳元でびゅうびゅうと風が鳴った。ああ、懐かしいこの感覚。翼もないのにゆかりは自在に空を飛ぶ、それはそういう生き物だから。
ごちゃまぜになった喜びと憎しみを糧に、ただ一身に果てを目指した。あの土地に呪いを、あいつらに悲劇を。血の雨を降らせてやるのだ、彼女をあんな目に合わせたあいつらを、同じ目に――
そこでまた場面が変わった。今度の色は白と藍。窓から差し込む月の光が闇を少しだけ薄めているのだ。ゆかりはもう人の形になっていて、けれど視界に入る腕が随分ほっそりしていることを不審に思う。まるで女性のもののような細腕は、すっくり伸びて何かを掴んでいた。徐々に手指の感覚が戻ってくる。触れているのは陶器のように滑らかな肌。ゆかりの小さな掌でも十分掴んでしまえるくらいに細い頸。
途端にぞわりと総毛立った。
それは、出るぞ、出るぞと思いながら怪談小説のページをめくる感覚に似ていた。その先はわかっているのに止められない。壊れたからくり人形のようにゆかりはゆっくりと顔を上げ――
その人の顔を認めて悲鳴をあげた。
死んだように眠っているのは、彼女が恋焦がれてやまない幽霊の従兄妹。

「……り。ゆかり!!」
「ゆかり姉!!」
「……ガクリン。ツキタケ君」
まるで妖怪が嘗めたような痕の残る天井と、ひとつ屋根の下に住まう同居人たち。必死の形相で彼らが自分を揺さぶっていたのだ、と気づいてゆかりは暫し呆然とした。
「大丈夫っすか!?」
「ゆめ」
「え?」
「怖い、夢を、見たみたいで」
「……みたい?」
「わからない。もう、忘れちゃった」
子供のように単語だけを連ねると、ガクが深く嘆息した。
「よかった、うなされてたから」
兄貴分とそっくりの仕草でため息をついた子供の頭に触れる。サラサラした髪の感触が手に心地良い。
「ごめんね、ありがとう」
そこでゆかりはパジャマがびっしょり濡れていることに気づく。さながら水をかぶったよう、代わりについ先ほどまでとは打って変わって思考は明晰だった。しつこく纏わりついていた頭痛もない。
「あの、」
「着替え終わったら呼べ」
ゆかりの言葉が終わらぬうちにガクはコートを翻す。状況をわかっていないらしいツキタケが何度か振り返ったけれど、少年が言葉を発する前に幽霊たちは扉をすり抜けてしまう。
「なーんで、こういう時だけ察しがいいかなあ……」
期待は厳禁、期待は厳禁。いつか読んだ小説を真似て、ゆかりはえいと立ち上がる。

熱が下がってしまえば後は手持ち無沙汰だった。けれど、姫乃から看病を命じられたという二人組は彼女が起き上がることを許さない。
「ヤミアガリが肝心だって雪乃サンが言ってたっす」
「でもそもそも病気じゃないしさあ」
未練がましく卓袱台の上のノートパソコンを見やれば、ガクに頭をはたかれた。
「な、」
「おまえは」
従兄妹はそこで言葉を切り、ぐっとゆかりの瞳を睨んだ。悔しいので睨み返す。
「何よ」
「もう少し自分の体を労わることを学べ」
「……労わってます」
「嘘つけ」
ヤレヤレとでも言いたげにガクは大きく首を振る。外国人のように掌を上に向けたまま。
「いつだって人のことしか気にしない、自分のことを聞かれれば《大丈夫です》としか言わない」
「そんなことないよ!」
「あるわ、ボケ。それでどれだけ周りが心配してると思ってるんだ」
パン、と手を腿に打ちつけ、この話はこれで終わりだとでも言うかのように立ち上がる彼を見つめた。
「……ごめん、ね?」
「……な、んだ、その顔、」
「ガクさんがそんなに心配してくれてるとは思わなかっ」
「してないわ!!!」
一気に距離を詰めた彼の白目は若干血走っている。
「俺はあくまでひめのんが言うからここに来ただけで、」
「うん」
「だからアレだ、俺はおまえの」
「うん」
「なんだ……その」
「うん」
「まあそういうことだ!!!」
「うん、そこでまた叩くのはやめようか!!」
額の前で十字に組んだ腕で、はっしとガクのハンマーを受け止める。口より先に手が出るなんて子供と一緒だ、と思いながら。
「アネキ!!」
「ほらツキタケ君が混乱しちゃってるじゃない!!もう、」
受け止めた手ごと柔らかに押しやり、無意味に肩を払いながら言うゆかりは、自分もまた今の彼の言葉に動揺していることに気づけずにいる。
「ガクさんはさ」
「……なんだ」
「その、さ」
「……」
「私、の……」
「……」
「まあそういうことだから」
「真似をするな!!!」
――エージ、オイラには荷が重いよ。
春先の猫のようにじゃれ合う二人を尻目に、ツキタケは心の中で友人にSOSを送る。しかし彼はただ霊であるというだけで特にテレパシーのようなものは使えなかったから、孤立無援の状況に依然変わりはないのだった。
――まったく。
色恋沙汰には縁のない、というより興味も持てないツキタケだけれど、敬愛する兄貴分となぜか気になる同居人が、本人たちの主張するように《イマイチ仲良くなれない》間柄だとは到底思えなかった。
――アニキは、
口角泡を飛ばして何かを言い張るガクをそっと見上げる(その言い分はもはやツキタケの思考の内に入り込まない)。彼が恋い慕っているのは長い黒髪を持つ生者の少女だということは、うたかた荘の住人にとって自明の理であったが、
――ネーチャンは、
その少女が白髪の管理人に想いを寄せているのもまた明白なのだった。
そして、聡いガクがそれに気づかぬはずもなく、
――アニキ、は、
いつからか一歩引いて《愛しいスウィート》に接するようになっていた。彼女が頬を紅潮させて、また瞳を輝かせてかの人に寄り添おうとしている時、兄貴分はいつでもそこにいないのだ。
だからこそツキタケはあの夏の日、思い切って新入りの生者に思いのたけを告げてみた。しかし、彼女はやんわりとそれを拒み、わけのわからぬままにツキタケはそれ以上を聞けずにいる。
――でも。
大丈夫なんじゃないだろうか、と思うのは楽天的にすぎるだろうか。
――だって、
アニキがこんなにポンポン物を言える女の人はオイラの知る限りでは一人もいないし、
ゆかり姉の眼差しに時折混じる熱いモノは、説明のできない痒さをオイラの心に掻き立てる。
――だから、
どうか、神様、この二人が。
願わくば、アニキが。
「ツキタケ」
「ツキタケ君?どうしたの?」
同時にこちらを向いた二人の大人に、ツキタケはふにゃりと笑いかけた。
「仲、いいなって思って」
「それはない!!!」
「ちょっと待ってガクリンそれはひどいんじゃないかな」
再びぎゃあぎゃあと言い合う彼らの足元には影が長くながく伸びている。夜が近いことを示すサインも、今のツキタケには恐るるに足らぬもののように思えてしまう。だって、彼らが、ここにいるから。

***

「作家先生!!お元気そうで何よりです!!」
「……雨生さん、頭を上げてください」
いかつい体を隠すほど大きなバスケットを抱えて直角に頭を下げたヤクザの幹部に、ゆかりはひたすら恐縮する。盛られた果物は電灯の安っぽい光を跳ね返し、ツヤツヤといかにも美味しそうに輝いている。ことにメロンなどは今まで見たことのないような大きさで、やっぱりゆかりは身を縮めた。
「いえいえ、ウチの若いモンが大変なご迷惑をおかけしまして」
「それいつの話ですか!!」
「ははは、冗談ですよ。これは純粋なお見舞いです。お熱、下がったみたいですね」
あくまで朗らかなサングラスの男の、瞳の奥をあえてゆかりは見つめ返す。
「……何かありましたか」
「さすがは先生、慧眼だ」
「そのセンセイってのやめてください。あなたのとこの《若いモン》とほとんど変わらないんですから、私」
「いやいや、あの対応を見ちゃあ先生と呼ばずにはおれません」
ふっと真面目な顔になった彼を茶化すようにゆかりは笑ってみせ、
「で、何が」
先を促せば雨生虎次郎は唇をへの字に曲げた。
「××の廃寺をご存知ですか」
「ああ、明神さんとガクさんがいつだか妖怪退治に行ったっていう……たしか、十味さん経由で建物そのものを撤去してもらうように行政に頼んだって」
「お上はすぐに動いちゃくれませんからね。なんだかんだで結局未だに手つかずで、だからウチの組が定期的にパトロールに行っていたんですが」
頬の傷をひくりと歪め、
「あそこから霊魂がいなくなりました」
告げた言葉は、一見、状況の解決を示すようなものだったけれども、
「綺麗さっぱり、まるで喰われたかのように」
その表情からゆかりは事の深刻さを推察する。
「……《喰われた》?」
「そうとしか言い様がない」
それはとても清浄などとは呼べぬ有様だったのだという。
「《無》です。いいも悪いもない、あそこは今、完全な空白だ。もう少ししたらたぶん、人の手なんかじゃ介入できない無法地帯が出来上がる」
「それは」
「可能性の一つとしては、強力な霊魂――陰魄が、食い荒らしたということが考えられます」
「……あの、」
「おそらく先生が考えていらっしゃることと同じですよ」
雨生はそこで腕を組んだ。
「《お嬢を狙った奴らが力をつけるためにあそこを餌場にした》」
彼は姫乃のことをそんな古風な呼び名で呼んでいる。
「……形跡は」
「追えませんでした。が、一橋組の沽券にかけて探し出してみせます」
爛々と光る瞳は、しかし不審げに細められる。
「……先生?」
「いえ、今、何かを思い出せそうな気がしたんですが」
触れることの叶わなかった手がかりのことはひとまず忘れる。ゆかりは小さく息を吸い、
「わかりました。知らせてくれてありがとう」
わざと対等な言葉を使った。一気に雨生の口元が緩む。
「先生も、どうか身辺お気を付けなさってください」
「雨生さんも、どうか」
「俺は大丈夫です」
大きく手を振り、照れたように俯いた彼をゆかりは初めて可愛いな、と思う。逆立つ黒髪はきっと、ワックスやら何やらで厳重に固めてあるのだろう。存外素直そうなこの人と、飲みに行く日も近いかもしれない。


(2013.03.18)

モドル