愛しい少女が泣いている。なのにガクは金縛りに遭ったように動けない。
小さく唇を開き、何かを口にしようと試みた姫乃は、結局それも嗚咽に変えた。そんな彼女の髪にそっと触れるのは、もちろん自分の手ではない。
「明神さんはッ……明神さん……」
「うんうん、どうした」
世界一、いやさ宇宙一愛らしい少女と、今日も今日とて寝癖が全開のむさくるしい管理人は今、夕陽を背景に優しく寄り添っていた。その姿はまるで番いの鴛鴦のよう。二人との距離は見たところほんの数メートルしかなかったが、ガクはアパートの壁に隠れるように立っていたから、きっと彼らは彼の存在になど気づかないだろう。永遠に。
「おお?なんだ、どうしたんだヒメノは」
と、ガクの背後、且つ少し上空で誰かがのんびりと呟いた。この声はゴウメイ――先ほどまで喧嘩という名の破壊行為を共に繰り広げていた雷猿(ライエン)の奴に違いない。状況を鑑みるならばあまりに無神経なその言葉、普段のガクであったら殴りつけて黙らせていたところだが、生憎とそんな余裕はどこにもなかった。あるいはそうやって騒ぎを起こせばこの先の展開を止められたのかもしれなかったが、彼がそれに気づくのは全てが終わった後の話である。
「えっと」だの「あのね」だの、幼子のごとくに一所懸命、言葉を紡ごうとしている少女をガクはただひたすらに見つめた。けっして戻らぬ視線の先、紅潮した頬がかつての彼女にオーバーラップする。
姫乃が泣いたところをガクは二度しか見たことがない。一度目はパラノイドサーカスから逃げる途上、廃屋の屋上で明神にこれからどうしたいかと尋ねられた時。二度目は倚門島(イモントウ)での激闘の末、《最大の強敵》から無事に取り戻した母にぎゅっと抱きしめられた時。
しかし三度目があのクソ案内屋の腕の中だなんて全くひどい冗談だ。居候のバフォメットがしばしば繰り出すアメリカンジョークより笑えない。それでいてあまりに滑稽なこの状況に、ガクは唇が引き攣るのを感じた。
――これではまるで俺が道化ではないか。
と、ようやく息を整えたらしい姫乃は、それでもやはり顔を赤らめたまま明神を見た。透明な涙を湛えた漆黒の瞳は、さながら闇に浮かぶ湖のよう。
――ああ、また一つスウィートを讃える語彙が増えてしまった。
ふらつく体を木槌一本でどうにか支えながら、ガクは夢の中のようにぼんやりとした心地で思う。
――こと恋の道に関して俺は何という天才なのだろう、バ管理人にはない知性にきっと彼女もイチコロのはずだ――
「私、わたしね、」
出会ってから今までのどの時よりも、黒髪の乙女は美しかった。たまらず顔をそむけた時、
「×××××××」
その言葉は発される。
認識はできなかった。
にも関わらず頭の中では終わりだ、という四文字がぐるぐる回る。世界は急速に色を失い、のみならずなけなしの平衡感覚さえもその指先を難なくすり抜け――
「おい、どうしたガク」
厚く冷たい掌を思い切り払い除けたところまでは覚えている。
犬塚ガクの長い一日の、ここがクライマックスだった。

***

事の始まりは、きっかり8時間前のこと。

チュンチュンと穏やかに鳴き交わす雀のさえずりも、前庭に差し込む朝の光も全くいつも通りだった。しかし、
「スウィートはどこに行った」
「だからもう出たんだって、何回言わせんだよ」
迷惑そうに顔をしかめる野球少年の胸ぐらを、ガクは思い切り掴んで引いた。
「こらやめろ!伸びちまうじゃねえか!」
「伸びんわ!!霊だろ!!!」
お決まりの突っ込みを入れてから、彼の瞳をまっすぐ見据える。
「お前は嘘をついている顔をしている」
中空高く吊り上げられ、もがくエージの表情が変わった。ほんの一瞬視線が揺れ、
「あらあらガクさん、本当よ」
おっとりと差し挟まれた言葉にガクは少年をぶら下げたまま振り向いた。そこには麗しの少女の面影を宿す(いや、理論上は逆なのか)ほっそりした女性がニコニコと微笑んでいた。
「お義母様っ……」
「離せよ!離してから話せよ!!」
要望通りにしてやると、エージは痛いだとか急に落とすなだとかさらにうるさく喚いたが、既に彼はガクの興味の範疇にはない。当然である。未来の義母と通りすがりのちびすけ、どちらがより重要かなど火を見るより明らかだ。
「しかし、スウィートは俺が朝の散歩に出るまではまだよく眠っていたはず」
「ガクさんが出て行ってすぐだったわ、何だか文化祭の準備があるのに寝坊しちゃったみたいで」
「なるほどそうでしたか」
「お前な!!なんだよその対応の差はよ!!」
「アニキ」
そこで状況を見守っていたツキタケが、くいとコートの裾を引く。絶妙のタイミングだった。
「天気もいいし、オイラの修行に付き合ってもらえませんか」
どこかガク自身のそれにも似ている三白眼を見つめ返したのに他意はない。しかし、少年はわずかに身を震わせ、小さなズックに包まれた左足をすっと引いた。
「……?ツキタケ、」
「あら、じゃあお昼ご飯はスタミナの付くものがいいわね」
「ハイお願いしますお義母様!!」
最敬礼で答えれば雪乃はおかしそうに笑い、食卓の上を片付け始める。
「アニキ、」
「ああそう急かすな」
体を反転させる直前、目に入ったダイニングテーブル。姫乃の席の前にはなるほど、もう何も残ってはいなかった。塵一つなく拭き清められているそこを見、あらためてガクは雪乃の仕事の速さに感服する。
そうこうしているうちにツキタケはもうたたきの上に降り立っていて、
「じゃあ、いってきます」
弟分の先導でガクは難なく玄関扉をすり抜けた(10月に入り、さすがに開け放しでは寒いという生者の意見を鑑み、先日から扉は閉じられることになっていた)。まだ朝日と呼んでいい光の下、ふと見れば向かいの家の金木犀がずいぶん花を付けていた。今朝は顔を見られなかったスウィートが、昨日だか一昨日、いい香りがし始めたとはしゃいでいた原因はこれであったか。踊るように跳ねる彼女が可愛くて目を細めたガクは、本当はもうその匂いを思い出せない。
と、視界の下、隅の隅を黒い何かが高速で駆け抜けた。
「なっ!!?」
一つ先の路地からはみ出ているのは長くふさふさとした尻尾。それもすぐに塀に隠れた。
「ヤダー、黒猫」
「やー!前、横切られなかった?」
「セーフセーフ」
門の手前で硬直するガクとツキタケのことなど見向きもせず、姫乃と同じ制服を着た三人組が賑やかに喋り散らしながら歩いていく。短い後ろ髪の生え際から覗くうなじが妙に眩しい。
「……アニキ、気にしないで行きましょう」
控えめな弟分の声がなぜか癪に障ったが、ガクは懸命にそれをなだめて再び歩き出した。ツキタケはすぐに横に並んだ。
通り過ぎる民家から切れ切れに今日のニュースが聴こえてくる。関西のどこだかで不発弾が見つかった、というような内容を男性アナウンサーが淡々と伝えていた。ガクには何の関係もない話だった。

***

ヒントが出されたのは、おおよそ4時間前のこと。

「どうした阿呆」
「デカイ声出すなっつってんだろ……」
陸に打ち上げられた魚のようにグッタリした管理人を目の前にし、ガクはふむ、と首を傾げる。
「これは千載一遇のチャン」
「スじゃないから!!そっとしといたげて!!!」
台所ののれんを潜り、高い悲鳴を上げたゆかりは自らが事態を悪化させたことにすぐ気づいたようだった。ひくりと唇の端を上げ、何とも言えない顔になる。
「……ゆかりん……頼むから」
「うん、ごめん、ごめん、ホントごめん」
三重に重ねがけした謝罪を息のような声で呟き、ゆかりはコトリと湯呑を置く。さみどりの温かそうな水に沈む赤紫色の小さな塊。
「……おまえ……料理が下手なのは知っていたが」
「ガッ……違います、梅干茶は二日酔いに効くんです」
最初の一音以外は、やはり囁くようにひそやかな声。効くんです、の語尾は、実際は拗ねているように伸ばされた。その響きが、ガクの心臓のあった位置の内側をカリカリと引っ掻く。全身の毛が逆立つような心持ちが、何とも不快だった。だからガクは拳を振り、
「お前、酒なんて飲めたのか」
さも馬鹿にしたように俯せの管理人に言い放つ。不遜であろうと心がければ、いつだって波立つ気持ちは落ち着いた。
「……」
「でもね、だから言ったでしょう」
ため息をつき、ゆかりは明神の隣に腰を下ろした。
「《酒の味がし》てイヤなら、無理に飲むことなかったのに」
「……だって、オッサンが……」
「はいはい、明神さんが師匠さんを大好きなことはよっくわかりましたから」
「違っ……あ痛て……」
「ちょっと待った何の話だ」
会話に体ごと割り込むと、従兄妹は小さく肩をすくめた。
「昨夜、ちょっと飲んだんですよ。ね」
「……そう……」
「何だっけ、ジュースと間違えてチューハイ買っちゃったんですよね。で、すぐ酔っぱらっちゃった感じだったから監視も兼ねて一緒にいたんですけど」
「ゆうべ?」
「そう、例の件の帰り道で、えっと、いつもの自販機が壊れてた?んですっけ?」
昨日、明神が《例の件》から帰ってくる前にガクは眠りについてしまった(霊だって眠る時は眠るのだ)。近頃めっきり依頼の少なくなった陰魄退治に管理人が意気揚々と出かけていったのは、たしか日付の変わる少し前だったと思う。夜が更けないと出てこないタイプの奴らなんだ、とか言って。
「……チューハイとは、そんなにアルコール度数の強いものなのか」
「違う違う」
派手に手を振るゆかりは、不思議と普段よりも大きく見えた。
「あんなのジュースと変わんないですよ。でも、だからすぐ飲んじゃって、付き合った私がいただいていた日本酒の方に興味を示してしまったんですね、この人は」
「にほんしゅ?」
「師匠さんの秘蔵だったんですって。私も聞いたことない銘柄で、つい、その……進んじゃって」
見た目からは想像もつかないことだが、ガクの従兄妹(結局、ほんの数ヶ月だけガクの方が年上らしい)はアルコールの類に非常に強いのだ。彼女のような人間をザル、と言うのだと思う。
「惜しくなったか、バ管理人」
「いや、師匠が好きだった味を自分も好きになりたいみたいな、そういう何ていうか乙女チックなアレなんじゃないかとは思うんですが……え、ばかんりにん?って何ですか?」
ゆかりとガクの暴言にも明神は一切反応しない。
「あれ、寝ちゃった?おーい、明神さん」
控えめに肩を叩いた、というよりはTシャツの表面のそのまた上の空気をそっと撫でるようにしたゆかりは、ややあって大きく眉を下げた。
「そっとしときましょう」
そして彼女はテーブルを離れ、テレビに面したソファにガクを誘う。ソファはそれなりに大きかったが、ガクもまたそれなりに体が大きかった。だからもちろんガクは躊躇い、
「どうしました?」
それでも彼女が心底無邪気な顔でこちらを見るので、余計なことを考えるのをやめた。その方が良いような気がしたからだ。何に対して《良い》のかは当然考えない。
「お前、止めろよ」
「何を」
「監視してたんだろ」
「アルコールの恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんです」
アンニュイぶった眼差しがうっとおしかったから、デコピンを食らわせてみた。
「いっ……だから、しずかに、しましょうって、いってるでしょ」
「恐ろしいなら触れるな」
一音一音を区切るように発語する彼女はいつも通りに子供のような顔をしていたから、ガクはどこかで安心する。
「そこが魅力なんですってば」
「かっこつけても言ってることはダメな大人だぞ」
「ほっといてください。……にしても、ホント、あの人は飲ませちゃ駄目だなあ……」
ことんと首を傾けたゆかりは、そのままソファの背に頭を預けるようにする。
「理性、完全に吹っ飛んでましたからね……」
「裸踊りでも始めたか」
「あー、その方がある意味穏やかかも……」
「……なにを、したんだ?」
不穏な言葉にガクは座りなおし、珍しくピンと背すじを伸ばした。
「あ、えっと……そんな大したことはしてませんよ、全然」
立ち上がりかけた彼女の肩を両腕で掴み、こちらを向かせる。
「……ホントに」
「そういう言い草ではなかったが」
「や、ガクさんが心配するようなことは何もないの。……ただ、何ていうか、たとえば姫乃ちゃんが……」
そこでゆかりの顔がさっと青ざめた。忙しなく背後の管理人と窓の外を見比べ、口を開ける。
「……まさか……」
「どうした」
「ガクさんごめん、ちょっと急用ができた」
普段は触れるだけで固まるくせに、こういう時の彼女は躊躇いというものが一切ない。ガクの掌を柔らかくどけると勢いよく立ち上がり、決然と階段を登っていく。小さな後ろ姿はすぐに見えなくなった。一人残されたガクはなすすべもなく立ち尽くす。
午後の日差しが共同リビングの床に丸い輪を作っている。それが揺れた、と思ったらバサバサと鳥の飛び立つ音。庭の木にはよくいろいろなものが訪れるのだ。訪れて、すぐに去っていく。
ぷかりと、ガクの胸に不安が湧き上がった。言葉にならないその想いは泥のように沈殿するばかりだ。

***

とうとう崩壊を示すベルが鳴ったのは、10分前――つまり悪夢のような現在の、直前のこと。

「なんで!!明神じゃ!!ないんだ!!!」
「しょーがねーだろ、何か忙しいってんだから」
ニヤリと笑う雷猿の全身からバチバチと火花が迸る。
「ヒョロ男、喧嘩しようぜ」
「ウサギとかコウモリとかいるだろ!!!あと俺はヒョロくない!!!」
「グレイもコクテンも相手なんかしてくんねえよ」
「じゃああれだ、ヤギ!!!」
「キヨイはもっとダメだ、まあアイツが本気でかかってきたらココなんか完全に吹っ飛ぶからな」
言葉の終わらぬうちに飛んできた拳を、ガクはギリギりのところで避けた。なんとなれば、彼の方には完全に戦意などないからだ。
「どけゴリラ!!」
「嫌だね」
「俺はひめのんの帰りを誰よりも早く迎えねばならないのだ!!」
「何だそれ」
「俺とスウィートは今日、まだ言葉を交わしてすらいないんだぞ!!!」
「知るか。俺は今日、まだ誰とも喧嘩してねーんだ」
「それこそ知るか!!!」
ぷつん、と彼の心の奥で何かの切れる音がした。
「おお、いいパンチだ」
不敵に笑い、一歩下がったゴウメイは次の瞬間、強烈な足払いをかける。つんのめったガクはしかし、長い腕でその胴体を捕らえ、思い切り体を捻った。耳元で風が鳴る。土埃を立てて転がったゴウメイは素早く体勢を立て直し、体ごとガクに突っ込んだ。躱しきれない。猛スピードの車に撥ねられたようにガクの体は宙を舞い――
「おいおいどうしたひめのん!」
言葉とは裏腹に余裕たっぷりの男の声を捉え、すんでのところで地面への激突及びそれによる失神を避けたガクは、砂にまみれた視界の中でカッと左目を見開いた。思い切り擦れた膝と肘には強烈な痛み、けれどそんなことに頓着している暇はない。フラフラと立ち上がり、壁にもたれる。耳を澄ませ、のち、顔だけをそっとそこから出す。

視界を覆うのは、一枚の絵画のように神聖な風景。
タイトルを付けるならば、それはきっと――

***

ゴオオ、という音に我に返る。未来永劫、決して今より伸びることの髪が風にさらわれて大きく靡く。
猫の目のように光る二つのライトが足元に消えた。連なる長い胴体が何両編成なのか、すっかり陽の落ちたこの時刻ではよくわからない。
西咲良町の最寄り、西咲良山駅。その北と南の出口を繋ぐ橋の上にガクはいた。列車の発着時に鳴り渡るのどかな音楽。
特に思い入れのある場所ではない。むしろ、もっと遠くに行きたかった。姫乃も明神もいない、誰もガクのことを知らない場所に、父のことも母のことも忘れてしまうような土地に――
「ガクさん」
断じて待ってなどいなかった。なのにその声は潮騒のように耳に馴染む。
寄せては返す海鳴りが、いつの間にか思考をすっかり侵食してしまうように、ガクはその声に絡め取られる。そうして動けなくなってしまう。
血のせいだ、と思う。俺のせいではない、と思う。
声の主が隣に立つ気配がした。


(2013.03.25)


モドル