また電車がホームに入ってきた。喧騒、音楽、そして警笛。ぼわぼわとしたざわめきはやがて潮が引くように消えてゆく。それでもここは無音にはならない。だってここはこの小さな町の心臓部、行き交う人の多さだけなら人口さえも凌駕すると言われるほどの駅なのだから。 ――こんな情報(こと)、誰に聞いたのだったか。 遠くまたたく家の灯を眺めながら、ガクはとりとめのない思いに耽る。 《生きている》頃は縁のない場所だった。地理的にはごく近いところに住まっていたはずだが、あの頃の自分にとって用のある建物など周辺には何もなかったから、考えてみれば駅の名前すら記憶していなかった。いつもただぼんやりとしている間に通り過ぎてしまう、漂う大気よりも存在感の薄かった駅。 ――コイツなら知っているか。 目だけ動かし、隣に佇む女を見る。ガクとそっくり同じ姿勢で陸橋の手すりにもたれている彼女(ただしガクの方がずいぶんとリーチに余裕がある)は、どうやら視線に気づいていない。 まるで魔法か何かのようにガクの目の前に現れて数十分、従兄妹は一言も喋ろうとしなかった。それでいて帰るそぶりも見せない。かすかな緊張は伝わってくるが、それ以上の感情がさっぱり掴めないだけに、ガクはひそかに困惑していた。 ――たとえば、 もう帰ろうと手を取るか、はたまた辛かったねと背中を撫ぜるか。失恋した友人の元に駆けつけた経験など元よりないし、ガクはドラマや漫画などのいわゆる《現実を適度にデフォルメしたフィクション》にはほとんど触れずに育ってきたから、どれが正解かはわからないけれども、 ――もう少し何かあるだろう。 ただ隣にいるということにどれほどの勇気がいるものか、土気色の頬をした青年はまだ知らない。 と、闇の果てにまた二つの光が現れた。今度の電車は止まらない。特急か、通勤快速か。地鳴りに似た音、吹き抜ける風。出会った頃より幾分か伸びた女の髪が後ろに流れる。黒を背景にした黒なのに、どうしてか毛先までよく見えた。そして不揃いなそれはそこだけ拡大するならば、愛しい少女が持つものによく似ていた。 フラッシュが焚かれた時のように幾つものシーンが明滅する。夕陽、白髪(シロガミ)、華奢な肩、そして、震える唇。 突如、体ごと後ろに引き戻され、ガクは左足、右足の順にたたらを踏む。のけぞった頭をようやく戻し、原因と思われる傍らの人影――おのが従兄妹を強く睨む。 「……何をする」 「こっちの台詞です」 固いままの声で告げられ、ようやくガクは自分が《何をし》ようとしていたかに思い至った。そう、今はしっかり地に着いている両足は、一瞬は橋の手すりの上にあったのだ。 「……死のうかと思って」 できるだけ陰鬱な声を出したのは、やけっぱちの冗談のつもりだった。けれど。 「……なぜ笑わない?」 瞳を大きく見開いた従兄妹は泣きそうな顔で、コートの裾を掴む手に力を入れるばかりだ。かすかに震える右手を左手で押さえた彼女はゴクリと唾を飲み込むと、二、三度、口を開け閉めした。 「……真剣に恋している人を笑う理由がありません」 絞り出すような声に息を呑んだ。 沈黙を切り裂いたのは警笛。尾を引いたそれが消えるのと入れ替わりに、足場が束の間ゴトゴトと揺れ、ガクは大きくよろめいた。何しろ彼は霊なので咄嗟に掴まれるものがなく(何故か自分の《属性》を意識してしまうと駄目だった)、思わず長い腕をみっともなくバタつかせてしまう。 だからきっと、そのせいだ。 気づけば拘束具のように自分の上半身を締め付ける二本の温かい感触があった。分厚いコートの上からだから質感まではわからない。ただ、その温度がガクの中の何かと共鳴し、 「……っ」 鼻の奥がツンと痛んだかと思うと、もう頬の上を滑り落ちたのは熱くて大きな水の塊。体の芯で燃える行き場のない恋情が、どんどんとそれの温度を上げる。吹き出す水は最早火傷しそうな熱を持ち、実際、触れた肌にはヒリヒリと擦り剥いたような刺激が残った。 なのにそれを浴びる従兄妹は痛くも痒くもないらしい。身じろぎ一つしない彼女は、傍らを通り過ぎる《見えない》人間たちから不審な眼差しを向けられることにも全く頓着する様子を見せず、今や駆け抜ける列車が立てる轟音よりも激しく咆哮するガクを、ひたすらに強く、優しく、抱擁するのだった。 *** 「ほら、ここならいいでしょう」 そう言って従兄妹がゴロリと寝転んだ場所はなるほど、木々の生い茂る周囲に比してまるで広場のように開けていたけれど、短くまばらな草は既に若干の夜露に濡れていた。光る草の葉の先を視認したガクは思わず頬を引き攣らせたのだけど、ゆかりはと言えば鼻歌でも歌いだしそうな様子だ。 「暗いから星がよく見えるねえ」 某国民的アニメの主人公たる少々年寄りくさい小学生(静岡県清水市在住)のように、しみじみとした調子で呟く彼女の髪にそっと触れた。 「何かね?」 「……濡れるだろう」 「平気だよ、このくらい」 「馬鹿者、女性は体を冷やしてはいけないのだぞ」 幾分語調を強めると、彼女は目をパチクリさせた後に破顔した。 「ガクさんがオンナ扱いしてくれるなんて珍しい」 「な、」 「明日、雪でも降るんじゃないかねえ」 そう言ってまた夜空に顔を戻す彼女を強引に引き起こした。 「……せめて座れ」 今度は素直に従った彼女は、膝を抱えるといわゆる体育座りの姿勢になる。膝と膝の間に顎を埋め、深く息を吸うとゆっくり吐いた。 そうして二人の間には再び沈黙が落ち、ガクは座ったまま空を見上げる。まばらに光る白い点は《降るような》という形容とはほど遠かったし、19年の生涯とそこから5年の新たな霊(?)涯で見慣れているものだったから、すぐに視線を地上に下げた。触れるか触れないかの距離を置いて座っている従兄妹は、けれどやっぱり触れてはいない。それでも彼女の命から発せられる熱のようなものが肘のあたりにをじんわりと暖めるので、きゅうと胸を締め付けるその感触を振り払うように、ガクは重い口を開く。 「……いつまでここにいるつもりだ」 従兄妹はわざとらしいほどに眉を上げ、 「いいんだよ、一晩くらい帰らなくったって」 肩をすくめるとそっぽを向きながらニコリと笑った。器用なことだ、とガクは内心で感心しかけ、 「待て待て待て待て」 ガバリと彼女の前に躍り出た。酸素を求める魚(うお)のように、呼吸は速く、荒くなる。 「ひ、一晩て、おまえ」 「だーいじょうぶ、誰も変な勘違いなんかしやしないよ」 明るく笑い、彼女はさりげなく身を引いた。拳一つ分の距離が倍になる。 「……そんな心配、してるわけじゃないわ!!」 血が逆流するのに似た感覚を覚え、ガクはゆかりの手首を掴む。2倍だったそれは俄かに半分以下になり、従兄妹の頬に赤みが差した。 弾かれたように手を離す。じんじんと痛むこめかみを遠くに感じながら、ガクは尻餅をついたままゆかりと対峙する。と、意外なことに先に顔をそらしたのはゆかりだった。 「……おい」 「ごめん。違うの」 「何が」 「ごめん」 制するように右手を伸ばし、顔を俯ける彼女の細腕などガクには何の障害にもならない。 「泣いてるのか」 下から強引に覗き込めば、従兄妹は何とも奇妙な表情になった後、いかにも仕方なさそうに笑み崩れる。その目元にも頬にも光るものがなかったので、ガクはこっそり安堵する。 「……なんで私が泣くの」 「お前の行動はいつもおかしい」 「ひどいなあ」 「俺にはさっぱり理解不能だ」 「私だって全然わかんないよ、ガクさんのことは」 「威張るな」 腕を組み、胸を張った彼女の背後は暗く、ひどく静かだった。にも関わらず、何かがじっと息をひそめているような夜の森に特有の雰囲気が彼をゆかりに寄り添わせる。 「怖くないのか」 愚問とわかりつつ問えば、案の定彼女は目を丸くした。 「悪いモノじゃないでしょう」 「お前、やっぱりおかしい」 「そんなことないよ」 「ひめのんの時は大変だったぞ」 「そりゃそうさ、だって姫乃ちゃんはオバケ苦手な子じゃない」 「それはそうだが」 「ていうか何、《ひめのんの時》って。みんなで肝試しでもしたの?」 「馬鹿、あれはあのバ管理人が――」 明神が、因縁の宿敵――もうガクは名前も忘れてしまったが――に挑んだ夜。 動きを止めたガクを気づかわしげに見上げる瞳は闇よりも深い色をしていた。吸い込まれそうな気がして、ガクは一瞬、何もかも忘れて見とれてしまう。呆けたような自分の顔が左右反転して丸い水晶玉に映っている。 「……ガクさん?」 「…………聞いてくれるか」 「……いいよ」 彼女はいつだって、脈絡が一切ない彼の発言を拒否しない。その姿勢は徹底していて、たとえば何を、とかどうして、とか問うことすらないのだ。 その優しさがいつか命取りになるのではないか。 ふと過ぎった不吉な考えにガクはつい黙り込んでしまったが、そんな彼の手の甲を、励ますようにポンと叩く掌は命の温かみに溢れていた。だから、 「…………あれは、今日のように月の綺麗な夜だった」 今夜だけはそれに甘えていたかった。触れた手を除けずに、ガクは小さく息を吸う。 この夜を乗り越えたら、今度は自分が彼女を護ってやればいい。そう思った。 *** 月の位置が大分高くなっている。最初はずいぶん遠慮がちにガクの傍らに腰を下ろしていたゆかりだったが、時間の経過につれてぴったりと体を寄せるようになっていた。自分に体温がないことを申し訳なく思いながらも、ガクは言葉を紡ぐのをやめることができない。 「……ということもあった」 「可愛いね、姫乃ちゃん」 「そうだろうそうだろう」 「お菓子作りが趣味なんて、女の子の理想そのものだよ」 「ああ、スウィートは俺が今まで好きになった女性の中でも一番女らしい――」 「あ」 「……何だ」 ポカンと口を開けたゆかりの反応の理由がガクにはさっぱりわからない。 「や、そうだよね」 「だから何が」 「ガクさん、…………言っちゃなんだけど結構惚れっぽい人なんだよね」 「ほ!!!」 れっぽいとは何事だ、ガクとしては心底そう続けたかったのだが、自覚があるだけにその言葉はもごもごと口の中で団子になるばかりだ。 「あー……じゃあだいじょぶだよ、って言うのもあれだけど」 「馬鹿を言うな!!」 しかし続く六文字は無事、鮮明な音を獲得した。エージがいたら逆ギレすんなと怒鳴りかえされたかもしれない。けれどここにいるのは彼の従兄妹だ。 「大丈夫なわけないだろう!!そうじゃなきゃこんなとこにいないわ!!!だいたい!!!」 そこで息が切れたので、ガクはしばし酸素を肺に送り込むことに専念した。本当はそんなこと必要ないのだけれど、気分の問題だ。 「いつも、いつもいつもいつもいつもアイツばかりが俺の欲しいものをかっさらっていきやがって……生きてる!!だけで!!ムカつくのに!!!俺のやりたいことも、俺が一生を捧げたい人も、どうして、どうしてアイツばっかりが」 「お、落ち着いて」 「これが落ち着いていられるか!!!」 大地に拳をめり込ませ、ガクは全身で吠えた。 「ゆかりだって思うだろう、人生とはなんて不公平なのだと」 「うーん……でも明神さんにはツキタケ君がいないよ?」 衒いのない声はガクの心にまっすぐ届いた。さながら今、この場所に降り注いでいる月の光のように。 「それに、私は詳しく知らないけど、あの人も大切な人を亡くしているんでしょう?」 「……それは、」 急速に勢いをなくすガクを見ながら、ゆかりは淡々と言葉を続けた。 「姫乃ちゃんのことは残念だったけど、でもそれは、これからガクさんの運命の人に会えるってことでもあるじゃない」 「……何だと?」 街灯がなくともくっきり見える小さな顔は、不思議な確信に満ちて笑っていた。ガクは今にも死にそうな心持ちだというのに。 「探してるんでしょ、世界でたった一人のマイ・スウィート」 「……ああ」 「見つかるよ」 「……お前に何がわかる」 「わかるよ。信じる者は救われる。叩けよさらば開かれん」 「……俺はキリスト教徒じゃないぞ」 「命短し恋せよ乙女」 「……おい、適当に言ってるだろ」 「バレた?」 「この、」 ゆらりと立ち上がりかけたガクの頭のてっぺんを、柔らかな手がぐしゃぐしゃとかき回す。 「大丈夫だよ」 あまりに楽天的な態度を罵りたいのに、それでガクの体からはすっかり怒りが抜けてしまう。怒りも、かなしみも。 「……お前の間抜け面を見ていると怒る気も失せる」 「そりゃ重畳」 穏やかに目を細めた彼女はその姿勢を変えぬまま、 「じゃあ、ケジメつけよっか」 教師が生徒に言うようにサラリと、しかし有無を言わせぬ調子で言った。 「…………何だと?」 「姫乃ちゃんに言ってないんでしょ。ガクさんの気持ち」 「それはっ……」 言ったか言わないかで言えば、言った。というか、言い続けてきた。けれど、 「ちゃんと伝えないと」 うたかた荘の姫君は決してそれを本気にしなかった。そのくらいはわかっているつもりだ。だから、 「何を今さら」 負けが確定しているのにわざわざ新たな傷を負いに行く意味がわからない。そう言おうとして口を開くと、思いの外真剣な彼女と目が合った。 「伝えられる時に伝えておかないと、絶対後悔するから」 ざわざわと梢が鳴る。けれど嫌な感じはしなかった。暗闇に潜むモノたちのひそやかな息遣い。ここに彼を連れてきたのはゆかりだった、だからもしも励まされているような感じがするとすれば、それは彼女を通じてのことなのだろう。たぶんこの土地自体が彼女を近しく思っている。なぜかしらそんな気がした。 目に見えないモノを疎外しない、稀有な生者の真剣な瞳がふと和む。 「大丈夫、泣くときはまた肩貸してあげるから」 「……!!」 一瞬、それも悪くないと思ってしまった自分にカッと頭が熱くなる。 「やだ何してんの!!」 ボコボコと地面を繰り返し殴るガクの足元は見る間に穴だらけになった。きゃあきゃあと悲鳴を上げながら土を戻そうとする従兄妹のことは頭から無視する。 もう少ししたら、帰ろうと言おうと思った。戸外で一晩過ごすにはやや季節外れだし、夜行性の彼女が今夜のうちにするべき仕事を抱えていることをガクは知っている。飛び出した時はそれこそ死んでしまいそうな気持ちだったし、今だってあの光景を思い出すと息ができないくらいに胸が苦しくなる。けれども、 「やめてよここ一応公園なんだから!!後で問題になるよ!!」 あの家にはツキタケがいた。そして、認めるのはかなり癪だがこの女も。味方が二人もいるならば、愛の男にとって恐れるものなど何もない。 黒髪をなびかせて笑う少女のことを想う。 自分は本当にケジメなんてつけられるのだろうか。 自分が真剣な気持ちを告げた時、心に違う男を想う彼女はなんと応えてくれるのだろうか。 不安とほんの少しの期待に、ガクの胸は一層騒ぐ。 そんな自分を知ってか知らずか、少し前まで怒っていた従兄妹は今はもう笑っている。 (2013.04.01) モドル |