「ん……風が強いね」
バラバラとはためく髪をそっと押さえて姫乃は呟く。
うたかた荘からほど近い、夏には皆で花火見物に興じたこともある小高い丘の上に着いたのはついさっきで、釣瓶落としの秋の陽は幸いまだ山の西の端に留まってくれていた。文化祭準備の忙しさがピークを迎えるこの時期、二日連続でそこを抜け出すのは非常に心苦しかったけれど、何しろ姫乃のクラスの委員長は大変な人格者であったので、誰に咎められることもなく無事に指定の待ち合わせ場所に赴くことができたのだった。
――放課後、正門前で待っててくれ。
朝の清らかな光の下、そう言って足早に姫乃の横をすり抜けたガクが、昨夜帰ってきたのは丑三つ時に近い頃合だった。ゴウメイの報告により家出は確実と判定された彼を、けれど姫乃は探しに行かなかった。止められたのだ。
――姫乃ちゃんはうたかた荘で待ってて。
ニコリと笑った年上の同居人は、小柄な姫乃に目線の高さを合わせるようにちょっと屈んだ。
――たぶん、明日、姫乃ちゃんにしかできないことがあるから。今日のところは私たちを信じて、待ってて。
そう言ってツキタケやエージと共に颯爽と身を翻した彼女が、結局彼の捕獲者となった。手柄を讃える隙もあらばこそ、すぐに部屋に篭ってしまったゆかりとあらためて顔を合わせたのは、ガクからの一方的な約束にどうにか了承の意を示した後のこと。
予言通りになりそうだと表情を固くした姫乃をゆかりは朗らかに笑い飛ばし、心配することなど何もないと励ますように背中を叩いた。なぜかその手の感触で、彼女が何を思っているかがわかったから、姫乃はそれ以上弱音を吐くのをやめたのだった。
とはいえ傍若無人な彼のこと。もしもそこから体育館裏か屋上に誘われるようだったら少し困るなと思ったのだけれど(この時期、残念ながらそのどちらの場所も人で溢れている)、六時間目が終わる前から忠犬のように《待って》いたガクは(何しろ彼は門柱よりも背が高いので、窓際にある姫乃の席からはその後ろ姿がすっかり見えてしまったのだ)、姫乃が走り寄ると幽かに微笑んで歩き出した。それはアパートに帰る道と途中までは同じで、けれど駅の近くで逆の方向にふいと逸れ、そうして連れてこられたこの場所は実は裏手が墓地である。姫乃にとってはある意味校内よりも厄介なところだったが、ここでワガママを言うわけにもいくまい。
ギュッと拳を握りしめ、隣に立つ青年の様子を伺う。普段、自分の顔を見た途端にきらびやかな言葉で二人の間を埋め尽くそうとする彼は、この間、まだ一言も喋っていない。
しばらく沈黙の突破口を探したが、それは容易に見つかりそうにはなかったので、ひとまず何も気にしていないようなふりで姫乃は目の前の景色に意識を移す。
眼下に広がる町並みは金色がかった光に彩られてキラキラと輝いて見えた。家、家、学校、郊外型の大きなスーパー、家、家、工場、家、家、家。その向こうには紅葉の錦を裾野に纏わせた山が悠然と横たわっていて、故郷の風景とよく似ていた。だからこんなに安心するのかな、と姫乃は思い、もちろんそれだけが理由じゃないこともよくわかっているよと誰に向けているのか自分でもわからない弁解を心の中だけでひっそりとする。
専門家ではない姫乃にはさっぱりだが、先日帰国した火(ラ)の案内屋こと火神楽正宗は、明神を一目見るなり、
――よくやった。
と、それだけ言って手土産らしい大きな包みを半ば無理矢理に押し付け、彼とあまり言葉を交わしたことがないという若き空(キャ)の後継者を思うさま混乱させた(中には奇妙な形をした名も知れぬ果物が数え切れないほど入っており、姫乃は美味しいと思ったのだけれど母以外の生者にはあまり評判がよろしくなかったのは別の話。どうやって税関通ったんじゃ!と十味が叫んだのもまた別の話)。
どうやら火神楽は、姫乃達が雪乃を取り戻してこの町に戻ってきた後、白金が中心となって張った結界の、ごく初期の状態しか見ていないらしかった(彼が海外に発ったのこそついこの間だったが、言われてみればそれ以前も彼は日本全国を転々とする生活を送っていたのだった)。あれからおよそ一年半、幾つかの事件を経て、二人の無縁断世を護る《ホームグラウンド》は《確実に進化している》のだそうだ。ただし、事件が収束するごとに行われる《アフターケア》と称した補修の全貌を把握していたのは今はここにいない澪と白金だったから、そう言われたところで俺にはわからねえよと明神は困ったような顔をしていたのだけれど。
とまれ、自分はいつも護られてばかりだ。仕方のないこととはいえ、その事実はいつも姫乃の心をほんの少し重くさせる。
せめて秘められた力が皆の役に立つようなものだったらよいのにと何度思ったかしれないけれど、あいにくと現実はそうでない。
だから姫乃は一所懸命、たくさんの人に護られてようやく成立している《普通の生活》を謳歌しているのだった。そのくらいしか彼女に出来る恩返しはなかったから。そしてまたそうすれば、いつでも明神が嬉しそうにしてくれたから。
――明神さん。
たちまち頬には血が上り、全身がカッと熱くなる。昨日の出来事はまだ記憶に新しい、もっと言えば生々しい。姫乃の言葉の意味を理解した時の彼の顔は、一生忘れられないだろうと思う。……おとといの晩は、まさかこんなことになるとは思わなかった。
真夜中、想い人とひとつ屋根の下に住まう生者の住人が彼の部屋で親しげに寄り添っているのを垣間見た時、大袈裟でなく姫乃の世界は一度崩壊したのだ。
たぶん、明神に悪気はなくて、ゆかりにも彼への恋心はなかった。
わかっているからこそ、あまりにも辛かった。
――ゆかりさん。
そう、別の人を想う彼女を一方的にライバル視しているのは自分の方だと姫乃は重々承知している。
けれど、ゆかりには大人の女性の落ち着きがあった、また明神と年が近いために、ツーと言えばカーと答えられる共通の理解の土台のようなものがあった。たったそれだけのことが、断崖の絶壁を前にして立ちすくんでいるような思いを姫乃にさせる。誰も悪くないからこそ、それは深い絶望だった。
しかしだからこそ、姫乃は勇気を振り絞って《それ》を伝えることができて、
辺りを染める夕陽よりも顔を赤くさせた明神は、時折呼吸困難になりながらも真摯に気持ちに答えてくれて、
その結果としての今がある。
――ガクリン。
一際強く吹き抜けた風によって、姫乃の意識は現在に引き戻された。反射的に髪を束ねる手に力をいれ、横に立つ彼を振り仰ぐ。
姫乃の大切な(そして出来たてほやほやの)恋人よりも、ガクは幾分背が高かった。今日は珍しく猫背になっていないから尚更だ。こんな角度で見上げるのはたぶん初めてだな、と姫乃は思い、コクリと唾を飲み込んだ。決して彼女の方を見ようとしない青ざめた横顔は自分の発声を待っているのでなく、彼自身の言葉を発するタイミングを窺っているように見えたから。
果たして彼は息を吸う。吐く。そしてまた吸う。――何度か同じことを繰り返した後、震える音が姫乃の鼓膜にようやく届く。
「ひめのん」
「……なあに」
その呼称を使うのは卑怯かもしれない。そう思いながら、けれど彼がそれを待っている気がしたのも確かだったから、
「ガクリン」
慣れ親しんだ4文字を唇に乗せれば、ガクは安堵したように肩を落とした。
「ひめのんは」
「うん」
「今、幸せか?」
唐突な質問に一瞬、肩が震えたのも事実だったけれど、
「……うん」
思い切って肯定を返すと、後はすらすらと言葉が口をついて出た。
「お母さんがいるし……学校は楽しいし……うたかた荘にはみんながいるし、」
「アイツもいるし……か?」
「…………うん」
「そうか」
ガクの横顔は穏やかだった。いっそ信じられないほどに。コートの衿元に付いたベージュの毛束が風にそよぐ。男性にしては長めの髪も。
「ひめのんは、俺を見つけてくれたんだよな」
「……え?」
決して姫乃の方を見ないまま、ガクは続ける。だから姫乃ももう一度前を向いた。
「まだ早春の風が冷たかったあの日。無視される悲しみにこの身をすり減らしていた俺に声をかけてくれた君は、まごうことなく天使に見えた」
「……うん……」
姫乃の側の言い分としては、そこに何らの意図もなかった。ただ妙な来訪者がいたから声をかけただけ。しかし、運命の歯車というものはそういうところから勝手に回りだすものなのかもしれない。少なくとも彼は、自分で歯車を回してしまったのだった。
「あれからもう一年以上経つのか」
「うん」
「月日が経つのは早いな」
「うん」
「ひめのんは……とても綺麗になった」
「!!?」
思わず首をぐるりと回せば、切なそうに瞳を細める彼と目が合う。ドキン、と心臓が跳ねた。
「地下水道から地上に上がる出口を見つけた君は、太陽よりも輝いて見えた。君がいるなら俺は一生ここにいても構わないと思った」
「……うん」
「倚門島でアイツらを倒した時、雪乃さんの腕の中で泣きじゃくる君の姿は映画のワンシーンのようだった。古今東西、どの女優よりも遥かに美しいと俺は思った」
「……うん」
「ハイパーウルトラ鳥頭ド阿呆の誕生日というクソつまらないイベントの時も、やっぱり君は天使のようで」
「……うん?」
「こっそり仕込んでいたクラッカーを鳴らす時も、ババ抜きでうっかりババを持っていることを表情に出してしまった時も、早朝、アイツとこっそり部屋を抜け出した時も」
「……知ってたの?」
「寝たふりをしていた」
あくまでも飄々と言葉を重ねる彼を、姫乃は信じられない気持ちで眺める。こんな表情もできる人だったのか、と。いつの間に彼はこんなに変わってしまったのだろう。それともこんな一面があることに、姫乃が気づけなかっただけなのだろうか。
「くやしかった」
慨嘆は子供のそれのようだった。
「かなしかった。やりきれなかった」
「……ガ、」
「俺が死んでいるから、ならまだ良かった。でもそうじゃなかった」
「ガクリン、」
名前を呼ぶ以外、姫乃に何ができたろう。言葉を続けられずに唇を噛む彼女をおや、という感じでガクは見、長い指を伸ばしてそっとその端に触れるようにした。
触れるように、した。
「よしてくれ。俺の大切なひめのんを傷つけることは」
「ガクリン」
青年はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。それが腑に落ちない気がして、そんな自分を姫乃は恥じる。彼の気持ちに応えられないのにそんなことを思うなど、傲慢以外の何者でもない。
謝罪が口をついて出そうだったから、どうにかそれは飲み込んだ。それだけは言ってはいけないということはわかった。今自分がするべきなのは、彼の言葉を待つことだ。
恐る恐る見返した瞳を、ガクは正面から受け止めた。長い前髪がサラリと流れ、その奥に光る右目が見えたような気がしたのは一瞬のこと。
「俺はひめのんのことを愛している」
何百回と言われ続けた言葉なのに、それは初めて姫乃の心臓を震わせた。
「結婚を前提にお付き合いしてください」
普段なら笑ってしまったかもしれない。
今はとても無理だった。
知らず顔は俯いてしまう。
「…………ごめんなさい」
高校に入学してから一年半、いわゆる《告白》には何度か遭遇していた。目を伏せて、あるいはいっそ堂々と、姫乃に好意を伝える男子に申し訳なさを感じなかったことはなかったけれども、今ほどのことはなかったし、きっとこれからもないだろう。
死者と生者という垣根を越えて、姫乃のことを好きになってくれた人。たぶん始まりは勘違いだったし、彼の行動はいつだってどこかずれていた。姫乃自身、その言葉を冗談と同様に受け取ってしまっていた一面もなかったとは言えない。
それでもこの一瞬の真剣さに、どうしてか姫乃は泣きたくなる。
「…………恋人がいるので」
吐息のような声で答えると、ふっと柔らかく空気がほどけた。弾かれたように顔を上げる。
ガクは微笑んでいた。
「ひめのんは、今、幸せか?」
さっきも聞いたよと姫乃は言えない。そして、
「しあわせだよ」
ガクリンにこんなに想われて、とも言えなかった。
ガクの顔がくしゃりと崩れた。
泣き出すかと思われた彼は、けれどやっぱり痛みをこらえるように笑うのだ。
「これからもひめのんって呼んでいいか?」
「もちろん!」
勢い込んで答えたら、むせてしまった。あたふたと背中を撫ぜようとする彼に今日初めての笑顔を見せる、そこで彼の手が止まったことには気づかないふりをする。しかし気づかれたことに気づいたのだろう、ガクもすぐに動揺を奥深く引っ込めた。
本当に、いつの間にこんなことができるようになったんだろう。
姫乃は心の中で訝しんで、でも本当はとっくに自分がその答えを見つけていることも知っている。
――ゆかりさん。
彼が死者であることを物ともせずに恋をしている彼の従兄妹。その、存在。
叶えばいい、と思う。心から。それは彼の気持ちに応えられない罪悪感のためではない。
彼女が来てから確実に彼は変わったと思う。どこがどう、とハッキリとは言えないけれど、そんな彼でなければ自分は今こんな気持ちにならなかったろうし、彼の恋の結末はもっと別の形になったはずだ。もちろん、これが最善だったかどうかは、もっともっと先にならなければわからないだろうけれども。
「帰ろうか」
「うん」
ようやく咳き込みが収まった頃、背の高い死者はいつも通りの声音で姫乃に声をかける。コクリと頷いて隣にちょこんと並んだ姫乃を横目で確認し、ガクはゆっくり一歩を踏み出す。彼の歩みにしては小さな一歩を。リーチの差を勘案してくれているのは、彼にとって自然な行動のようだった。
この先もこんなふうに歩けることがあるだろうか。あればいいのに、と姫乃は祈る。

***

のそりと屋根の上に現れたガクは、存外普通の顔をしていた。そうは言っても普段が普段だ、暗い顔には変わりない。
「何だ、何か言え」
「いきなり無茶ぶりですな」
「失恋した従兄弟を慰めるんだろ」
「ああ、やっぱそうだよね」
言えば従兄弟は顔をしかめる。
「いや、ごめん、わりと普通の顔してたから」
あたふたと言い訳を並べる彼女を彼はキツく睨むのだ。
「恋人がいるひめのんが俺の告白を受け入れるわけがなかろう」
「あー……うん」
「何だその反応」
「や、ちゃんと確認してるわけじゃなかったから。そっか、そうなのね」
「当たり前だ」
「何でそこで威張るの!?」
ふんぞり返ったガクは、そのまま上空を見上げてちょっと止まると、
「え、何、大丈夫!!?」
思い切りよく後ろに倒れた。何しろ霊なので、どれほどボロとは言えどアパートに実害は出なかったのだが、驚いたのはゆかりだ。
「ガク、ガクさん」
「うるさい」
目元を隠すように両腕を交差させたガクは、やはり変わらぬ声で言う。
「慰めろ」
「ええー……命令形……」
「俺は傷ついている」
「そりゃそうだろうけど……」
思案し、ゆかりはそっと手ざわりのいい髪に手を載せる。ガクはピクリと反応したが、その後は借りてきた猫のように動かない。
「……ねんねーん、ころーりーよ、」
「却下」
「ちょっとした冗談じゃん……」
どのみちその先の歌詞はよくわからなかったので、これ幸いと子守唄作戦は中止する。そっと手を離し、固く握りこまれた大きな拳を上から覆うように包んだ。ガクは少しだけ身じろぎしたが、されるがままに任せている。
「頑張ったね」
沈黙は肯定と捉えた。たぶん間違ってはいないはずだ。
「偉いよ」
本心だった。かつての自分には出来なかったことだ。
「えらいえらい」
「他に言うことはないのか、鳥頭」
「!?違うもん、三歩歩いても忘れないもん……」
「どうだか」
鼻で笑われるのが癪だったので、尖ったその先を抓んでやった。
「!!?」
「お口の悪い人はこうです」
ガクは勢いよく腕を解く、ゆかりは笑いながら身をよじらせて逃げる。しばしの攻防の後、やはり横たわったガクの今はあらわになった目元を、ゆかりは掌で優しく覆った。
「ガクさんにいつか最高の恋人ができますように」
ツンと鼻の奥が痛む。胸の奥がどうしようもなくかき乱される。
それでも今は、ただ純粋に彼の幸せだけを願っていたかった。
「……?何をする」
「お祈りだよ」
「手をどかせ」
「やだよ」
しびれを切らしたガクがその手をくすぐりにかかり、全てが有耶無耶になってしまうまであと30秒。


(2013.04.08)


モドル