草木も眠る丑三つ時。共同リビングを照らし出す白熱電球は夜空に穿たれた穴のごとくに皓皓と冴え渡っていた、しかし、その下に集う大人たちの表情はお世辞にも芳しいとは言えないものだった。
本日の会議の面子は3名――明神、正宗、そしてゆかり。議題は言うまでもない、未だ近辺に潜んでいるはずの姿を見せない敵についてだった。
カチカチと秒針が時を刻む。重い沈黙を破ったのはゆかりだ。
「雨生さんが追えたのはじゃあ、機川(はたがわ)までだったと」
明神が頷く。
「そこから先はどうにも気配が消えたそうだ」
「獣じゃあるまいし。そのウリュウとかいう奴は信用できるのか?」
皮肉げに口を開いた正宗を、年若な案内屋はたしなめるように見た。
「虎次郎さんの腕は確かだ。川は境界になる。何かの術をかけているのかもしれない」
「となると、とりあえず危険なのは川向こうですか」
話題を引き取ったゆかりを正宗は睨めつけ、
「行ってみるか?」
発された台詞に明神は唸り声で応え、そのままくしゃくしゃと髪をかきむしった。
「川向こうって言っても広すぎるからなあ」
「結界を張れるような場所となると限られてくるだろう」
「仮にだけど、川のこっちと向こうを区切れるようなヤツだよ?遮蔽物が必要とも思えない」
「あの」
ベテラン二人のやり取りに、ゆかりは小さく挙手しておそるおそる割り込む。幸い、彼らはすぐに口を閉じてこちらを見た。
「《もう死んでいる》――っていう可能性はないんですか」
「へ?」
「は?」
間の抜けた二重奏に鈴虫の綺麗な聲が重なった。りーん。りーん。りーん。りーん。
「いや、あまりに何もしてこないのは物理的にできないからじゃないかって」
あ、死んでるってのは言葉の綾です、たぶん、奴ら、霊ですもんね。言い添えれば、今度は正宗が、元々大きな三白眼をさらに一回り見開いて呻き声をこぼす。
「お前、ときどき突拍子もないことを言うよな……」
「いや、案外イイとこ突いてるかもよ」
腕を組み直した明神が言った。対する正宗は一瞬天井を仰ぎ、すぐに向き直る。
「しかし根こそぎ浚われた雑霊の件はどう説明する。全部喰えば相当なんだろ?」
「それは……それだけ弱ってたってこと、かも」
「じゃあ喰うだけ喰ったが足りずにくたばったとでも言うのか」
「う……」
「一つの可能性だよ、正宗サン」
ゆかりをかばうように身を乗り出した明神を、火の案内屋は眼帯に隠れていない方の瞳で鋭く見据える。
「気に入らんな。楽観的にすぎる。俺たちは常に最悪の事態に備えるべきだ」
「いろんなパターンを想定しとくのも大事だろ、」
やや不機嫌そうになった彼を軽くあしらい、空の後継者は左手を顎に当てた。
「そうなると盆に攻撃してきた理由も頷ける」
「弱っているから――土地の力を借りた?」
「土地というか時というか」
タイミングだよな、と思案深げに白髪の案内屋は言う。
「地上の霊的なエネルギーが高まる日っていうのは年に何回かある。日本の場合、その最たるものが夏のお盆で……ただ現代の場合、それは八月の方のはずなんだよな、それは……」
「旧の――八月のお盆はほら、姫乃ちゃん、帰省してたから」
「ああそっか」
「じゃあ……次は、」
意味もなく明神の頭の後ろあたりに視線をさまよわせつつ、ゆかりは己の記憶の蔵を検索する。日本において、古来から節目になるとされてきた日。春分、秋分、盆、そして――
「大晦日から新年にかけて、もしくは事八日(ことようか)……一応、節分も可能性はあるかな」
「……事八日ですか」
随分と予想外だったその言葉に、ゆかり思わず目を瞬かせる。
「意外?」
「いえ、でも現代人の大多数は知らないでしょう、そんな風習。忘れられた習俗にも効果ってあるんですか?」
「結構ね」
事八日という行事の成り立ちについては諸説あり、またその内容も地域によって様々だ。正月を中心として12月8日を事始め、2月8日を事納めと称するところと、逆に、一年の農事を中心として2月8日を事始め、12月8日を事納めと称するところがある。その日は厄神が外を通るから家から出てはいけないとか、目印を付けられるから衣類を干してはいけないだとか、
「一つ目小僧が山から降りてくるから目籠を軒先に吊るして魔除けにするとか、でしたっけ」
「そうそう。結局、悪いモノが下界を通り過ぎるから家に籠っとけっていう日なんだよな。特に2月の方は冬から春になる時の禊の意味合いもあるから、結構なヤツがウロウロしてると思っていい」
「それは……本当に?」
「ああ、ホントウだよ」
明神は困ったように笑うと、ウンと伸びをして窓の外を見るようにした。もしかしたら、かつてその日に戦った陰魄のことを思い出しているのかもしれなかった。
「魔物が力を発揮しやすいのは、何かの境目が明確になる時だ。その意味ではどの節目にも可能性はある」
「ということは、いずれにしても――冬」
「なんて油断してると足元を掬われるぞ」
よく研いだ刃のような言の葉を受け、しゅんとした明神をちらりと見やり、
「たとえば今だって《神無月》だろ」
ダメ押しのように先を続けた正宗はしかし、
「え、神様……いないんですか、今」
一瞬にして慄いたゆかりの表情がよほど面白かったらしく、小さく吹き出すと誤魔化すように横を向いた。もちろん彼より少し年下で、且つあくまでも《見習い》であるところのゆかりは、礼儀として気づかないふりを決め込む。
「完全にいなくなるってことはないけどね。当番で残ってるのもいるし」
「……なんか、すごく軽いんですけど」
「日本の神様なんてそんなもんだよ。泣く、笑う、怒る、喚く。人間と同じだ」
「はあ」
「というわけで、俺たちはまだまだ厳戒態勢を解けないわけだ」
ひとまずといった感じで話をまとめ、ため息をついた案内屋の横顔にはいつしか薄く陰が差している。
《宣戦布告》から早3ヶ月、日々ジリジリとエネルギーを削られるような戦い方は、猪突猛進型の彼の性には合わないのだろう。あるいは敵の狙いはそこにあるのかもしれない、ともゆかりは思う。
世間には、ある一点に滴り続ける水の粒が巌に穴を開けた例もあるという。もしも自分が陰魄で、己の手には余る敵を相手にしようとするならば、そのような方法を採る場合もあるかもしれない――
そんな思考などどこ吹く風と言わんばかりに、若き案内屋はすっかり冷めてしまったコーヒーを啜った。
彼の好みはブラックだ。ミルクも砂糖も入れないそれを、飲めたものじゃないといつだったかこぼしたのは姫乃で、けれどもちろん彼女はそんな言葉の陰で、愛しい人に美味しいコーヒーを入れてあげるための猛特訓をこっそり行っていたのだった。そのエピソードは思い出すだに微笑ましく、
「……何笑ってんの、ゆかりん」
「いえいえ、こっちの話です」
含み笑いのまま答えを返し、その語尾にかぶせるようにパン、と手を打ち鳴らしたゆかりを、正宗が驚いたように見た。まさに《鳩が豆鉄砲を食らったような》という形容が似合う彼にゆるりと微笑みかけ、ゆかりは厳かに口を開く。
「そこに、《祭り》。確かに危ないですね」
「ああ……だろう、」
「いやでもそれは」
と、俄かに明神が慌て出し、ゆかりはといえば首を傾げる。そもそもこの会議とてそのために開かれたようなものではないか、という意図を込めて眼差しを返せば、彼もぐっと口を噤んだ。
《祭り》――すなわち、咲良山高校文化祭。
何でも、校内で催される行事の中では最も盛り上がるものだそうで、可哀想に姫乃は、目の下に薄いクマを作りながらも連日遅くまで準備に奔走していた。
そう、まるまる二日、学校が浮かれムードと慌ただしさに包まれるその日は明後日に迫っている。
――もしかして彼は、姫乃(かのじょ)がそこで何をやるかを承知しているがゆえに自分たちを連れて行きたくないとでも言うのだろうか――
勘繰りかけたゆかりは、《彼》の表情を見て考えを改めた。これは、
「これはみんなで護衛に行かなきゃですね」
「ほら、空、こいつだってそう言ってるじゃないか」
「でもほらひめのんは、何かあんまり来て欲しくないみたいな」
「明神さん、そもそも姫乃ちゃんのクラスが何やるか知ってるんですか?」
「え、いや……」
途端に勢いのなくなった彼を、ゆかりは腕を組んで見上げた。
やはりか。ならば尚更、連れていかないわけにもゆかない。
ここ一ヶ月ほど、うたかた荘の可愛い姫君が針と糸とミシンを駆使して何に取り組んできたかを、すぐ近くで見てきたゆかりはよく知っている(あくまで見ていただけだ。ゆかりは裁縫が不得手である)。手先が非常に器用な彼女が一所懸命に量産していたのは、クラシックな型の黒いワンピースと白いエプロン(ちなみに丈の長さについてはゆかりの強い要望が取り入れられていた。たとえたった2日のイベントごととは言え、クオリティを追求するのは大切である)。昨日やっと全員分が完成したという大量の衣裳に思いを馳せつつ、ゆかりは小さく息を吸い込んだ。さて、俗世に疎いヒーローたちはどんな反応を返してくれるか――
「メイド喫茶ですよ」
「冥土――喫茶?」
やはりそうきたか。
虫の声が途切れた。静寂の中、ゆかりはこみ上げる笑いを必死に堪えている。

***

「おかえりなさいませご主人さ、え、みょ、明神さん!!?」
「ふおおおおひめのんんんん何て愛らしいんだああああ流石マイスウィートハニ」
「ガクさんうるさい」
げし、と興奮状態の従兄弟の向こう脛を蹴って黙らせると、ゆかりは棒立ちの案内屋の横からヒョイと顔を出した。
「来ちゃった」
硬直したまま言葉も出ない姫乃は、どこからどう見ても完璧なメイドだった。艶やかな白い肌にはめったにしない薄化粧。長い黒髪はシニヨンにまとめ、露わになったうなじが眩しい。華奢な身体を覆う優美なワンピースのラインは例えようもなく愛らしく、やっぱり丈を長くしたのは正解だったとゆかりは思いつつ、満面の笑みで隣に立つ男(ひと)を見上げた。
「すっごく可愛いよ、ねえ明神さん」
「……あ、ああ……」
絞り出すような声の先に言葉の出てくる気配がないので、ゆかりは見えない角度で鋭く彼の脇腹を突き、
「こういう時はちゃんと褒めてください」
吐息のような声で恋愛初心者に指導を施す。
「えっと、うん……か、可愛い……よ」
「……!!?」
「ホラ何してんの姫乃、ご主人様が入れないでしょ」
みるみるうちに頬を朱に染める少女の後ろから、これまたヒョコリと顔を出したのは、
「ああ、エッちゃん!」
「お久しぶりです」
まだ庭の桜が若葉を茂らせていた頃、臆することなく幽霊屋敷を訪問したショートカットの少女だった。
「何、エッちゃんはフットマンなの?」
「まあ、私は姫乃と違ってこんなですし」
「何言ってんの、もったいない!絶対似合うよメイド服!!」
「ユカリ、おっさんくさいぞ」
背後から放たれる小声の突っ込みは、広い心で受け流す。
「ええと、3名様……ではないですか?」
と、気づかわしげに周囲を見渡した《見えない》少女の心遣いを嬉しく思いながらも、ゆかりは緩く手を振った。
「ああ、いいの、この人だけで」
「え、な、ゆかりん!?」
「私たちは適当に回ってくるから。じゃあよろしくね、可愛いメイドさんたち」
オイちょっと待てよだとか、聞いてねえぞだとかいうような言葉が聞こえたような気がしたが、ゆかりはもちろん気にしない。それに、歩き出せばそんなものはすぐ喧騒に紛れてしまった。
「さて、と」
教室が見えなくなったところで立ち止まり、ワラワラと付いてきていた死者たちと雪乃を振り向く。
「じゃあ、一時間後にまた2-Aでね。解散!」
短い号令に、勿体ぶって頷いたのはバットを担いだ少年だ。
「リョーカイ。ほら行くぞ、アズミ、ツキタケ」
「オマエに指図される謂れはないわ!ほらアズミ、はぐれるから手ぇ繋ごうな」
「みょーじんはー?」
「姫乃とデートだ」
「!でーと!!」
わらわらと遠くなる子供たちを眺めながら、
「いいの?ツキタケ君」
ゆかりは傍らに立つ青年を気にするが、
「おまえが気にすることじゃない」
背の高い死者はそっぽを向くだけでそこから動こうとはしなかった。代わりにつと前に出たのは小柄な人影。
「じゃあ私も行くわね」
「え、雪乃さん、よかったら一緒に周りましょうよ」
普段通り穏やかに微笑みながらも、雪乃は緩やかに首を振る。
「ごめんね、コクテンと約束しちゃったのよ。今頃、昇降口のあたりで待ってるはずだから」
「あー、コクテンちゃんそろそろ非番かあ」
「ごめんね、そちらもごゆっくり」
ニコニコ笑いながら手を振る雪乃を見送り、ゆかりははたと我に返った。
――そちら?
俄かに左半身が緊張する。隣にいる、その人は。
「えっと……ガクさんは行かないのかな?」
「おまえはどこに行くつもりだ」
面倒そうな返答は、けれどゆかりの質問に答えてはいない。
「……文芸部と漫研で部誌買って、あとはお化け屋敷とお化け屋敷と……」
しどろもどろで俯きかけるゆかりを、従兄妹は呆れ顔で見やり、
「つまらんルートだな。しかしまあ、逆に脅かすのも悪くない」
さっさと先に立って歩き出す。
「ほら、何してる」
「……ハイ……」
おぼつかない足取りで後を追う自分の顔が、先ほど別れた少女のように徐々に温度を上げていることを意識せずにはおれなかった。ゆかりは懸命に頭を振って、熱を逃がそうと試みる。

***

「あー、意外と時間余っちゃったね」
腕時計で確認すると、集合時刻までにはまだ若干の余裕があった。
「それもこれもガクさんのせいだよ」
「いやお前のせいだ」
「心外な!」
「お化け屋敷に一人でブツブツ言ってる客が来たら怖いだろう」
「でもガクさんのこと見えてた子もいたじゃん!」
「お前にビビってた奴らの方が多かった……っと」
すっと辺りを見回したガクは、ゆかりの腕を掴むとそのままぐいぐいと歩き、廊下の端まで来たところでようやく足を止めた。あたりにほとんど人気はない。それもそのはず、展示に使われている教室自体が2つほどしかなく、またどちらもそれほど盛況とは言い難いようだった。一つは書道部の作品展示、もう一つは入口が暗幕で覆われており、どんな内容か一見したところではわからない。
「……!……!?」
「お前は人目を気にしなさすぎる」
馬鹿め。口の中で呟かれた言葉に、ゆかりはどうしていいかわからなくなり、忙しなく周囲を見回す。と、ふと目にとまったのは。
「ねえ、あそこ……何だと思う?」
「何?」
目を細めたガクは、
「ああ、《占い》だ」
暗幕の手前に立てかけられていた小さな看板の文字を読み取ってゆかりに告げる。
「へえ……人、いないのかな」
「よろしければどうぞ、今は空いておりますし」
「!!?」
大袈裟でなく、数十センチは跳ね上がったゆかりとガクの背後にいつの間にか立っていたのは小柄な少年だった。目元は色素の薄い髪に覆われていてよく見えない。ただし鼻筋が通っており、薄い唇もそれは綺麗な形をしていたので、たぶん美形と呼ばれる類の子だろうなとゆかりは思う。と、少年はニッと口の端を上げた。
「そんなことはないですよ、女みたいだなどと言われるばかりで」
「え」
「ああいえ、こちらの話です。どうぞ、」
そうして示された腕の先、音もなく引き戸が開く。導かれるように足を踏み入れたゆかりとガクは、明かりを落とされ、黒い布で隙間なく窓も覆われているその教室がぼんやりと明るいのに戸惑った。
――光源は?
「星占い、タロットカード、水晶に手相です。お好きなものをどうぞ」
言って、立ち去るかと思われた少年はしかし、その場に留まっている。部屋の正面には小さなブースが4つ並んでいた。それぞれはやはり布で覆われており、幾重にも重ねられたカーテンのようなそこをめくって中に入る仕掛けになっているようだ。
「……どうする?」
「……陰魄の気配はしない」
「…………じゃ、行ってみよっか」
ゴクリと喉を鳴らし、それでも笑ってみせるゆかりの後頭部をガクは軽く叩いた。そのまま真っ直ぐ左端のブースに向かって歩いていく。ゆかりは後を追おうとし、
「ごめんなさい、一種類につきお一人様までなんです」
少年の柔らかな、しかし有無を言わせぬ調子の声音にビクリとしたところで背を押され、気づけば右端のブースに至っており、
「え、あの、ひとり……って」
「それではどうぞごゆっくり」
トン、と肩に軽い衝撃を感じたところで、厚いカーテンの内部に頭から突っ込んだ。

***

「ハイじゃあ坊や、手を見せて」
「……貴様、何者だ」
すらりと左手を差し出した女性をガクはキッと睨み返した。顔の半分ほどまで覆ってしまう暗緑色のローブを被った彼女は口元だけでふわりと微笑み、
「手相占いだからさ」
華奢な白い手をなおも伸ばした。反射的にガクは身を引く。
「……アラ」
「……」
「触られたくはないってやつ?」
「……」
「なら、ま、いいけど」
素直に腕を引っ込めた相手の顔をガクは正面から見返した。が、いかんせん目を見られない相手と向き合うのはどうにも居心地が悪い。
「そんなに警戒しないでよ」
「貴様、何者、だ」
物腰といい、醸し出される雰囲気といい、仮に霊ではないとしたって、とても生徒には見えない。口元にはあどけなさが残るが、それはたとえば彼の従兄妹がそうであるように、単に年齢にそぐわない童顔の持ち主である可能性があった。
「……アナタのことが見える人間。じゃ。ダメ?」
「……霊、なのか」
「男の悪い癖ね、結論を急ぐのは」
人形のように肌理細かい肌に知らず目眩を覚えかけ、ぐっと堪える。華やかな笑みに見覚えはなかったけれど、ほんの一瞬、何かがガクの琴線に触れ――
「君、最近失恋したね」
「んなっ!!?」
それが言葉になる前に、彼がこれまで必死に保ってきた冷静さは粉々に砕かれる。
「顔見ればわかるわよ。傷ついたーってオーラがむんむんに出てるもの」
「な、おま、手相見だろう!!」
「手相も人相も基本は同じ、人間観察。覚えときなさい、坊や」
女性は行儀悪く脚を組み替え、さらに片膝を立てると頬杖をついた。
「でも、良かったと思ってるでしょう」
「……お前に何がわかる?」
体中の血が冷めていく感覚。しかし絶対零度の声音にも、女性は全く怯まなかった。
「罪悪感を覚えていたね。その子に」
「……は?」
「好きな人が変わるのなんて、よくあることよ」
「……ひめのんは!!俺の!!!」
「運命なんてのは人が決めるものじゃない」
激昂しかけたガクを止めたのは、あまりに冷え冷えとしたその声。
掴まれかけた肩をすうと引き、女性はまた脚を組み替えた。
「でもいつだって選ぶのはあなた」
「……何が言いたい?」
いつの間にか真剣な面持ちになっていた女性は、そこでふっと微笑んだ。たとえば春の野に吹きすぎるそよ風のような、そんな優しい笑みだった。
そして彼女はローブを除ける。
光の下にさらけ出されたその顔に、ガクは二度、驚愕した。彼女によく似た女性を彼は少なくとも二人知っている。一人との絆は既に絶たれ、けれどもう一人との縁(えにし)は――
「ああ、ダメ」
艶やかな黒髪をかき上げ、彼女はガクの唇に触れるか触れないかのところで人差し指を立てた。
「こういう時は名前を呼んじゃいけないの。魔法が解けちゃうからね」
「ま、ほう?」
「人が集まる賑やかな場所には、いつでも隙間が生まれるものよ。これも覚えておきなさい」
「あ、いつ、は」
やっとのことでカーテンの外を示したガクに、女性は小首を傾げてみせる。
「彼は――そうね、遠い遠い親戚というか」
「違う」
その一言で、言いたいことは十分伝わったようだった。
女性はゆっくり首を振った。
「どうして」
「それが私の罰だから」
意味がわからなかった。
「本当はあなたに会うのだって……でも、もう動き出してしまったから」
「何が」
「私には見届ける義務がある」
「何を」
「ああ、でも、罪悪感とか義務感とかそういうのじゃなくて――そう、ねえ、あなた」
瞳をくるりと回して、童女のように無垢な声音で、
「全ての命の義務ってなんだか知ってる?」
それまで託宣ばかりを降していた女性は、唐突に一つの謎かけをする。
答えられないガクに向かって、ダメ押しのように《彼女》によく似た笑顔を見せる。
「宿題ね」
言って再びローブを深く纏ったかと思うと、ガクの視界が急速に揺らいだ。
「本当はずっと会いたかった」
夢から覚める時のように、五感がごっちゃになった状態のガクの耳にかろうじて届いたのは、
「ありがとう」
震えるような祈りの言葉。

***

気がつけばゆかりは、人気のない廊下の隅にガクと二人、立ち尽くしている。目の前の教室はどうやら書道部の展示に使われているようで、その隣は空き教室だった。
「ガクさん……?」
零れた声は思いの外ぼんやりとしていて、ゆかりはひそかに驚く。しかし振り向いたガクも、どこか瞳の焦点があっていなかった。
「あれ、今何時?」
腕時計に目をやれば、2年A組に戻らなければいけない刻限には、まだ若干の余裕があった。どこか一つの展示を見るくらいならできそうだ。
「えっと……ここ、見てく?」
所在無い右手を真っ直ぐ伸ばせば、ガクはゆっくり首を振った。
「いや」
「……だよね、何で私たち、こんなとこ来たんだろうね」
「いや……何か」
「え?」
「何か、忘れているような」
彼の言葉が耳に届いたその刹那、ゆかりの脳裏を何かがよぎる。けれど流星のようなそれは、甘く切ない調べを残してすぐに、あたたかな闇に呑まれてしまう。
「……気のせいだな」
ブン、と軽く頭を振り、青年はゆかりの方を見た。
「少しくらい早くてもいいだろう。俺だってひめのんの晴れ姿をもっとじっくり見たい」
「……邪魔しないでよ?」
「するもんか。陰からそっと見守るだけだ。そしてあの馬鹿は叩き潰す」
「それが邪魔って言うんです!」
言い合いながら遠ざかる二人の後ろ姿を、ゆらゆらと燃える幾つかの白い火が見送る。
真昼の太陽の下ではほとんど透明にしか見えないそれらは、視界から影が消えたところでふっと蒸発するように見えなくなった。


(2013.04.15)


モドル