格子状に区切られた窓枠から差し込む光線が、空気中の埃をまるで美しいもののように浮かび上がらせるのを、ゆかりはただ見つめている。雪のような、はたまた粉砂糖のようなそれはキラキラと宙を舞い、そのダンスは永遠に終わることがないようにすら思える。 秋の太陽はいつでもどこか寂しげで、その下に手をかざすだけで妙にセンチメンタルな気分になってしまう。ゆかりが座っている座面が少し固めのソファは、ちょうど大きな観葉植物の陰に隠れてしまう位置にあったから、供された飲み物をだいぶ前に胃に収めてしまった身としては、いささか冷えを感じていた。ページをめくる手を止め、テーブルの中央よりも向こうに広がる日差しに向けて差し出す。と、携帯電話を折り畳みながら戻ってきた維継が、そんな彼女を訝しげに覗き込んだ。 「……何してんの?」 「手ぇ冷えちゃった」 「……ああ。すみませんマスター、ブレンドお代わり。と、俺も同じで」 「え、いいよ」 「馬鹿、そんだけ長居してコーヒー一杯で済ませるつもりかお前は」 長い指で示された単行本はたしかにずっしりと重く、またここに来てからかなりの量を消化することができたのも事実だったが。 「だってココ、居心地いいんだもん」 「ありがとうございます」 くたりと上半身を折り、テーブルに片頬を付けて見上げれば、ゆかりの父よりもやや若いくらいであろうと思われる店主は、ひっそりと微笑むと湯気の立つコーヒーをテーブルに置いた。絞ったヴォリウムで流れるクラシックに、ゆかりは先日訪れた正宗のバーを思い出す。 あそこでかかっていたのはジャズだった。ゆかりは音楽に明るくないので、それがどのくらい有名なものなのかはとんとわからなかったけれど、どれもこれも地下の薄暗いその場所によく似合っていた。 「待ち合わせここにすると、いっつも早く来るよな、化野は」 「せっかく都心まで来るんだから、いろいろ用事済ませたいじゃない」 「本屋巡りしかしないくせに」 引きこもり作家の主張を鼻で笑った編集者は、黒と言うには玄妙な色合いを醸している液体をいかにも美味そうに一口含んだ。のち、脇に置いた鞄を少し押しやり、本格的に話に入る態勢になったので、ゆかりもだらしなく伸ばしたままだった手を引っ込め、座り直して背すじを伸ばす。 「番号は変わってなかった。ま、本家ってことだし、よほどのことがなきゃ引越しなんかもしないんだろう」 それはゆかりの恩人にして初恋のひと――月宮依(つきみや・よる)の実家の話。 今日も今日とて南の島の山奥で案内屋稼業に勤しんでいる(であろう)白金とは、10日ほど前、ちょうど皆で姫乃の高校の文化祭を見に行ったあたりに一度連絡を取れたきりだった。 ――たぶん月が変わる頃には帰れると思う。 そう言った彼の声は幸い元気そうで、だからゆかりはかねての計画通り、彼が戻ってきた暁には依の捜索の手助けをしてもらおうと考えていた。しかしもちろん、それまで手をこまねいている道理もない。 そもそもこれはゆかりの個人的な問題であり、自分で出来ることは出来る限りやっておくべきだ。 ただし、それでどこまで行けるかはまた別の問題だった。 現在、そのあたりの事情はどうなっているのだか、現役バリバリの女子高生たる姫乃とそういう話をする機会もなかったのでゆかりにはさっぱりわからないけれども、少なくとも彼女や維継がスクールライフを送っていた頃、卒業アルバムには住所と電話番号が掲載されるのが当たり前だった――そう、今、彼がどこにいるかまではわからないにしても、繋がる糸だけは実は残されていたのだ。 「俺も家に上がったことはないから、声だけしか知らないんだけど、お袋さんが出て。……ずいぶん驚かれたけど」 そこで維継は言葉を切り、迷うように視線を揺らした。 「……ダメだったんだね」 だからゆかりは先回りをする、親友は観念したように頷く。そんなに申し訳なさそうな顔をしなくてもいいのに、と思いながら、 「まあそうだろうよ」 慰めるように労えば、 「お前が言うのは違うだろ」 維継はいかにも不服げに口を尖らせた。 「ごめんごめん。……で、」 「『元気でやっていますから、心配なさらないでください』の一点張り。元気なのはいいけども」 ため息混じりに維継は言い、ゆかりもそれに同調する。 「月宮が関係するお寺……いや、神社かな?なんて、調べようもないしなあ」 「どうして」 「うーん」 どんな表現を選べば《それ》が伝わるのか、ゆかりは体ごと傾けて思考する。 「……日本の精神的支柱の、穢れを肩代わりする一族だから。……彼らが管理する、いわば聖地は徹底的に秘されてしかるべき」 「精神的、って」 小さく頷けば、維継はゴクリと喉を鳴らして押し黙った。 横たわる沈黙の上を、穏やかな旋律が滑っていく。この曲はたしか、ゆかりの通った小学校で下校の音楽に使われていたものだ。不意に蘇った夕闇の迫る感じに胸のあたりが締め付けられる。 「……部署違うけど、そういうの、詳しい人がいるから」 「え?」 「正確にはその人が担当してる作家で、超詳しい人がいるから。……K先生、知ってるだろ?」 「……それはもう!」 その名前はオカルト愛好者でなくとも一度は耳にしたことがあるはずの、いわゆる《大御所》。ほんの数年前、まさに彗星のごとくデビューした彼の名を冠した新人賞が、その翌年には創設されてしまったほどの才能の塊だ。彼の筆が紡ぐ物語は妖怪小説という新しいジャンルを確立し、憧れてペンを執る若者は後を絶たない。 「アンタみたいな下っ端にお目通りが叶うの……?」 「馬鹿にすんな」 再びグイとカップを傾け、親友は勢いよく立ち上がる。 「そんじゃ、ごめん、もう行かないと」 「あ、ああ、こっちこそごめんね、忙しいのに」 「いんだよ。……校了までは飲みいけないけど」 「ん、わかった。じゃ、また連絡して」 「おう」 颯爽と身を翻す後ろ姿を眺めながら、ゆかりはまたぼんやりとしてしまう。 親友は、今も昔も文句なしに格好いい。外見はもちろん、中身もだ。 それでも彼を選ぶことはできなかった。 と、視界の端に滑り込んだのは白さも眩しいケーキ皿と、その上にちょこんと乗ったシフォンケーキ。 「サービスです」 微笑んだ店主は、何もかもを見透かすような深い色の瞳(め)をしている。 *** 馴染みのホームに降り立てば、剥き出しの首筋をひやりとした風が撫ぜた。ぶるりと身を震わせて、ゆかりは肩をそびやかせる。気温は徐々に下がっている、しかし日はまだ沈んでいない。だからまだもう少しだけ、帰りたくはない気分だった。 自然に足が向いたのは、アパートからものの5分もあれば行けてしまう川のほとり。《こちら側》ならば問題ないだろう、と乾いた土手に座り込む。水面は傾いた日に照らされてオレンジ色に染まっている。 光、というものについてゆかりはしばし思いを馳せる。 ひかり。 かつて自分の世界を照らしてくれた《彼》――依との思い出は、いつだって深い闇を背景にしたものだった。対して、今、自分が焦がれる従兄妹を想起するならば、その後ろにイメージされるのはどういうわけかこの橙だ。 ――黄昏。もしくは、彼誰(カワタレ)。 どうして彼を好きになってしまったのだろう。 かつて傍らにいてくれた、優しい、あまりにも優しい人。《彼》と彼との共通点はほとんどない。 ――いや、 従兄妹が元々備えている、どこか見当違いなほどの優しさは、いつだってゆかりを慰めてきた。 ――わかりにくいだけなんだ。 ぽっと心に灯がともる。震えるように儚い明かりは、初恋のひととは違うやり方でゆかりの行く手をたしかに照らす。 彼のそばにいたいと思う。 彼の支えになりたいと思う。 その先に待ち構えている昏い闇を見据える勇気はまだないかもしれないけれど―― 「オネーサン」 まだ声変わりもしていないような甲高い声にゆかりは我に返った。 「ひとり?」 やに下がった笑みを見返し、現状を把握するまでには幾ばくかの時間が必要だった。 *** 気持ちが言葉になる前に、ガクはその両手を動かす。 「アニキ!!」 なんとなれば、いつだって自分はそういうやり方で世界と戦ってきたからだ。 「やめろガク!!」 腕に追いすがったふたつの重みに、長身の死者はようやく足を止めた。 「……なんだ?」 「室内でハンマー振り回すなって姫乃に言われてたろ!!!」 言われてあらためて周囲を見渡す。ガランとした室内に、別段破損は見受けられな―― 「どうすんだよ、また怒られっぞ」 バットで示された先の壁は見事なまでにへこんでいた。 「……」 「誤魔化せてねえから!!!」 ガクは口笛が吹けない。 「アニキ、何かあったんすか?」 心配そうに見上げる弟分に、答える方法はきっと幾つかあった。けれど、ガクはくしゃりとその小さな頭を撫でただけで子供たちに背を向ける。 「……オマエなっ!!」 噛み付くような少年の勢いを止めたのは、ツキタケだとわかっていた。 信頼の証に足は止めない。 ゆるゆると遠ざかるエネルギー体2つを意識しながら、ガクは途方に暮れる。 心臓の内側を引っ掻くようなもどかしさは、誰よりも愛しい――愛しかった、少女の通う学舎に足を踏み入れた日から始まったものだ。 ――あれは、誰だ? 霞みがかった記憶の向こうで誰かが手を振っている。柔らかく微笑むその口元めがけて、自分は何かを言いたいのだと強く思う。しかし、それが何なのかがわからない。 小柄な従兄妹の姿を見れば、想いはたやすく増幅した。もはや引っ掻くなどという生やさしい表現では到底届かない、喉の奥から突き上げるような痛み。 津波のようなそれをなだめるため、ガクはしばしば彼女の横を走り抜けた。取り残された彼女が傷ついているのも手に取るようにわかったけれど、どうしようもなかった。そうでもしなければ死んでしまいそうで、 ――いや、もう死んでいるか。 クッと抑えた嗤いを漏らし、ガクは頭上を振り仰いだ。既にうたかた荘の玄関扉は背後にある。さらに数歩の歩みを進め、助走も付けずに塀の上に飛び乗る。 秋が深まるこの季節特有の白っぽい太陽は、どうやら少しずつ傾き始めていた。金色とオレンジ色、それに明るい水色の混ざった何とも言えない色彩が彼の視界を埋め尽くす。夕暮れが近い。 昔からこの時間帯が好きだった。感傷ではない。単なる好みだ。 しかし、もしかしたらそんな嗜好すら、このようなことになる運命を暗示していたのだったら―― ――くだらない。 思ったそばから、ガクは妄想を捨て去る。 今しか見ない、目の前のことしか考えない。 いつだってそういうふうに生きてきた。 だから後悔することなど欠片も―― ――ねえ、 薄い靄に覆われた記憶の中で、豊かな黒髪がこぼれ落ちる。 ――す…の……ちの…って、 深緑色のローブの奥で紅く艶やかに輝く唇。 「知らんわ!!!」 キンと耳鳴りがした。思いの外大きかった声が自分の腹の底から出されたものだということに、ガクは少し遅れて気づく。 振り切るようにぽん、と飛んだ。足の裏に伝わるアスファルトの感触。 蹴立てるように歩き出せば、背後で猫がにゃあと鳴いた。そのまま当てもなく、黙々と進む。 やがて耳に届くのは緩やかな、しかし途切れることのない水音。さやさやと流れる浅い川の名をガクは知らない。また、この川がどこから始まってどこで終わるのかもわからない。 ただ、水面がオレンジの光を反射するさまだけは少し気に入っていたから、ほとりで足を止めることは多かった。傍らにはいつでも小さな弟分がいて、二人、黙って川面を眺めていると、たいていはクソ案内屋か金髪ザルが呼びに来た。夕飯だから早く帰れと急かす声に、先ほどのように嗤いを噛み殺していたのは最初のうちだけ。切れ目のない環境音がいつしか思考を麻痺させるように、奇妙な日常はやがて当たり前のものとして彼の内に受け入れられ、 ――触れられる、生者。 そう、それは従兄妹(かのじょ)の存在も然り。 ありえないことだ、と心のどこかで常に思っていた。なのに彼女が笑うから、ガクはまた押し流されたふりをして、そっと小さな頭に手を置いてしまう。じんわりと伝わる命のあたたかみが一瞬だけ鋭く心臓を突く、けれどそれ以上に湧き上がるものがあったから。 不意に、初めて抱きしめられた時の柔らかな感触を思い出し、頬がカッと熱くなった。 強く拳を握りしめ、上から下に勢いよく落とす。同じ動作を二度、三度。 振り払っても振り払っても消えない指先の記憶を持て余し、いっそ全身水に浸かりでもするかと顔を上げた時、思いがけなく目に入ったのは当の従兄妹と、彼女の前に立ちはだかっているノッポとチビの二人組だった。 驚いたのは一瞬。 ――何をしている? 彼女たちとガクとの距離は、およそ10メートルといったところか。いずれも川のこちら側、一足飛びで行ける場所だ。 ――嫌がっている、のか? 表情まではよく見て取れない。ただ、不穏な空気は震えを帯びてガクに彼女の危急を告げる。 と、従兄妹はまた一歩後ずさり、 ガクの思考は白くなる。 *** 「夕飯の支度があるので」 「まだ夕方だよ」 「出汁から取るんです」 ピシャリと音が出そうなほどの勢いで言い返したのに、ニヤニヤと笑う彼らは一向に怯む様子を見せない。 「夕飯なんてまだいいだろ。お茶でもしよーよ」 「間に合ってます」 ゆかりの返答が可笑しかったのか、彼らは引き攣るような笑い声を立てた。目尻を拭う仕草さえ見せる子供たちにゆかりは内心でため息をつき、それは素早く背を向けたたのだが―― 「冷たいなあ」 強く手首を掴まれた。振り向く。笑いを引っ込めたチビの方が猫撫で声で言った。 「実は俺らの先輩が、こないだの文化祭でオネーサンに一目惚れしたんだって。だからさ、ちょっとだけ付き合ってよ」 「それならご本人がいらっしゃるのが筋というものではないですか?」 硬い声で言い返せば、今度はノッポが目を見開く。 「オネーサン、知らないの?咲良山高校の《月の輪》って言ったらこのへんじゃちょっと有名な」 な、の音の後に響いたのはグシャリとグワリがちょうど半分ずつ混ざったような鈍い音。 髪が逆立つほどの突風に、ゆかりは既視感と嫌な予感を同時に覚えた。 「え、お、ま」 パクパクと口を開け閉めさせるチビも、次の瞬間高く跳ぶ。 立ちはだかるのは長身のシルエット。 ゆらり、と体を傾けさせたその人は全身に怒りの炎をみなぎらせ、 「ガクさんありがとでもごめん!!」 と、そのやや高い位置にある白い顔の側面に、ゆかりは渾身の一撃をお見舞いした。 もちろんグーだ。 彼女のヒーローには申し訳ないと心の底から思いつつ、 「同じ轍は二度と踏まぬ!!!」 ゆかりは腰に手を当てて宣言した。頬を腫らしたガクがそんな彼女を呆然と見上げる。 「な、」 「いいかい少年たち」 今は二人抱き合いながらガクガク震えるナンパ者に、ゆかりは厳かに託宣を下す。 「実は、私には超強い守護霊が憑いてるの。月ナントカ君にも伝えておいて、《今度、乱暴な真似をするようなら命がないと思ってね》って」 「…………それはお前、さすがに」 「すみませんでしたぁ!!!」 脱兎のごとく駆け去る幼い背中を見守りながら、ガクは呆れ果てたとでもいうように首を振る。 「……何が《超強い守護霊》だ、馬鹿者が」 「どういたしまして。……ごめんね、痛かった?」 ようやく肩を下ろしたゆかりは立て膝をつくと、そっと変色し始めた膚に触れた。視覚情報のせいだろうか、そこはうっすら熱を持っているようにさえ感じられる。 「いいから、やめ……」 と、座り込んだ従兄妹はそこで唐突に動きを止めた。 大きく瞠った瞳はゆかりの顔を穴があくほど凝視している。 「え?」 零れた吐息がかかったか、鋭い肩が大きく揺れた。それでも彼は何も言わない。 「ガク、さん……?」 ただ、銅像のように動かない彼の内に激しい葛藤が渦巻いているらしいことだけはわかったので、ゆかりは逡巡した後に口を噤む。 永い永い沈黙が二人の間を過ぎた。もしかしたらそれは、一瞬のことだったのかもしれないけれど。 呼吸の音すら煩い気がして、ゆかりは口を小さくつぼめる。 と、再びビクリ、と細い肩が跳ねた。頬の腫れとは違う朱が肌理の細かい膚に徐々に兆す。まさに色づく、という表現がぴったりの変化をゆかりはただ戸惑いながら見つめている。 「ああ、」 黒い瞳に光が射した。 「そうか」 「何が、《そうか》?」 「ゆかり」 呼びかけを無視した死者の溢れそうに大きな瞳。その表面できらめく輝きは、どうやら彼自身の内側から萌えいづるもののようだった。 ガシリと両手を包み込まれ、ゆかりは先ほどまでの彼のように大きく驚く、けれどもちろん体を引くようなことはしない。だってゆかりは彼のことを。 ジワジワと全身の血管を巡る感情は照れと戸惑い、そしてまごう事ない喜びが渾然一体となったもので、現金な自分の変化をゆかりは何より恥ずかしいと思ってしまう。 「ガク、」 「俺は」 小刻みに震える手をいっかな気にせず、ガクは息を吸い込んだ。 「ゆかり、お前が」 「ああガク、またここにいたのか!ゆかりんも!!」 ガシャーン、と何かが粉々に砕け散るような音が聴こえた、気がした。それはおそらく彼(ガク)の心象風景そのものから生まれ落ちたものだったのだろう。 「聞いて驚け、今夜はすき焼きだ……ぜ……?」 「明神冬悟」 地獄の底から這い上がる亡者のような声色で、死者は初めて彼の名を呼ぶ。 「お、おう?」 「死ね」 案内屋が右手に飛び退く1秒前、鼓膜を破りそうに鋭い風が鳴った。2秒後、もうもうと立つ土煙の隙間に忽然と現れたのは、 「ガッ……この馬鹿たれが!また十味のじーさんにどやされるだろ!!」 一昔前、オカルト系の番組で取り上げられた《ミステリーサークル》に酷似したクレーター状の陥没。 「お前はっ……いつもいつもいつもいつも、俺の邪魔をしやがって……!!!」 「待て、待て待て待て待て」 「待たぬ!!!」 「武士か!!!」 また突風がゆかりの髪を嬲る。それを押さえるふりをして、ゆかりは染まった頬を隠そうと試みた。 胸の内はもはや混乱しすぎて言葉にならない。 あの時生まれた甘い空気。錯覚だと自己を卑下するにはあまりに強く、それは匂い立っていた。 どうして、急に。どうして、わたしが。 その答えを得るまでに越えなければいけない夜が息を潜めて彼女たちの到来を待ち望んでいることを、ただの人間にすぎない年若な作家は、まだ知らない。 いつの間にか西の空に宵の明星が輝いていた。 燃えるようなオレンジ色は、最後の一滴まで振り絞ろうとするかのように空と大地の間に薄く薄くとどまっている。 (2013.04.22) モドル |