肌を刺す木枯らしにゆかりは立ち止まり、おもむろにストールを巻き直した。慣れた手つきで端を始末し、最後に衿元を軽く整えてから顔を上げると、行く手の少し先、四辻のあたりを掃き清めていた初老の女性が、うんざりした顔で風に崩れた枯れ葉の山を見ているのが目に入った。ふと視線が絡んだので、労いの意味を込めて頭を下げれば女性は慌てたように笑顔を作った。もう一度軽く会釈をしながら傍らを過ぎ、空を仰ぐ。ついさっきまで水色と橙がほどよく調和していたそこは、ちょっと目を離したすきに深い紫と蒼に侵食されつつあった。近頃めっきり日が暮れるのが早くなったな、とゆかりは思い、冷えた空気を思い切り吸い込む。
今日で10月も終わる。しかし、どうやら今年は冬の訪れが早い、と昨晩のニュースで気象予報士が言っていた通り、体感的には半月ほど先を行っているような気候の日々が続いていた。押入れの衣装ケースからマフラーを引っ張り出すタイミングを伺っていたけれど、この分なら明日から装いをもう少し重装備にしてもよさそうだ。
と、すぐ背後で響いたのは甲高いベルの音。物思いを中断したゆかりは急いで体ごと路肩に避ける。
「すみませんっ」
すれ違いざまに振り向いた少女は姫乃くらいの年の頃だったが、制服が違った。このあたりには私立の高校が幾つかある。
「ブレザーも可愛いね」
隣を歩いている人に話しかけるでもなくひとりごちるのと、彼が盛大に舌打ちをしたのは同時だった。
「ちょっとガクさん」
ゆかりは足を止めた。
「さっきから何なの」
むくれた同行者はそっぽを向いた。
「話しかければ上の空、買い物が終わってやっと少し機嫌が良くなったかと思えばそうでもないし、だいたい舌打ちって、された方はすごく嫌な気分になるんだよ?知ってる?」
「……わざわざ」
「はい?」
「わざわざ裏道選んでるってのにどうして今日に限ってこんなにうじゃうじゃ人がいるんだ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ従兄妹に、ゆかりははてなと首を傾げた。
「……?いいじゃない、人が多い方が」
「なっ……」
「早く帰りたいからついつい近道しちゃったけど、こんなトコで陰魄に襲われでもしたら面倒だよ」
言って両手を大きく広げれば、ガクはポカンと口を開けた。
現在の時刻は、愛用の腕時計によればおおよそ午後4時30分。日が落ちる前には帰ってくると言い置いた明神は、もううたかた荘に着いた頃だろうか。正義の味方と管理人、二足のわらじを履く彼は今日、日も明けきらぬうちから火神楽正宗と共に《川向こう》の偵察に赴いている。
計画を告げられた昨夜、白金が戻ってくるまで待てないかとゆかりは尋ねたのだったが、提案はゆるやかに退けられた。一刻を争う事態ではないかもしれないが、だからこそ先手を打ちたいのだという案内屋たちの主張はたしかに腑に落ちるもので、だから今日一日、アパートの守りの要になっていたのは《元陰魄》――パラノイドサーカスの面々だ。
「勘違いしないでね、キヨイさんたちを疑ってるってんじゃないよ。単にステータスの分布の問題」
《見習い》ふぜいの自分が役に立てるなど、無論ゆかりは思っていない。ただ、彼らの中に防御に特化した能力者がいないのもまた事実だった。防御、あるいは治癒。
そういうわけで、今日はできればゆかりも外出を控えたかったのだけれど、そんな彼女はついさっき、物書き仕事の休憩のために降りてきたリビングで見てしまったのだ――いそいそと《仮装》の準備をする子供たちの姿を。
そう、今日で10月が終わる。それはすなわち、最近になってこの国に根付き始めたひとつのイヴェントの日付が本日だということに他ならなかった。
元を辿れば遠く西洋の地で発生したはずの民俗行事が、なぜ縁もゆかりもない極東の辺境でこれほどポピュラーになってしまったのか。静かにはしゃぐ子供たちを目にした0.5秒後、ひらりと身を翻したその一瞬で、作家の頭の中に様々な思いが去来したことは言うまでもない。
さて、気づかれないように再び階段を上り、自室のドアを閉めた彼女は頭を抱えた。酒を買い置く習慣はあっても菓子のためのそれはない。けれど幸い、懐には得たばかりのわずかな原稿料がそのまま残っていたので、買い物に行くこと自体は可能だった。
今度はわざと大きな音を立てて存在をアピールしつつ登場したゆかりに子供たちはきちんと反応し、気まずい鉢合わせはどうにか回避された。後はこっそりご褒美を用意するだけ、しかしそこでゆかりははたと腕を組んだ。ハロウィンは俗に《西洋のお盆》などという言われ方をする。果たしてそれが東洋の島国にどのくらいの影響を及ぼすかは未知数だが――
結局、ガクに声をかけた。
ゆかりとは違って、立派な《戦力》たり得る彼を駆り出すのは気が引けたが、もしも一人の時に奇禍に遭い、かえって迷惑をかけるようなことになってはいけない(思い出すのは7月のこと)。そんなこんなでの急な道行きだったが、この調子なら無事に任務を成し遂げられそうだ。
それにしても、とゆかりは現在に意識を戻し、ガクを見上げる。
「誰?こんな時にハロウィンやろうなんて言い出したお気楽トンボさんは」
「あの馬鹿の他に誰がいる」
ふてくされたように呟く彼は、どこか疲れているように見えた。
「どうしたの?」
問うと、ガクは蛙でも飲み込んだような顔で立ち竦む。
「ガー、クー、さ」
パシリ、と小気味よい音がして、ゆかりは呆然と立ち尽くした。払われた左手が痛むのではない。
「……!!すま、」
焦ったような声が遠く聞こえた。その消え入りそうな語尾に、ゆかりはごく緩やかな速度で唇を笑みへと形作る。
「……ごめんね」
ガクはピタリと動きを止めた。次の瞬間、一歩踏み出そうとしたゆかりの肩をガシリと掴む。
「……?ガクさん?」
「付き合え」
「え?」
「そこまで」
長い指で示した先から、ふと水の匂いがしたような気がした。錯覚だろう。
「じかん、」
「近道したぶん、ちょっとくらいいいだろう」
そう言って背を向けた彼の後を、迷った末にゆかりは追う。

河原には人っ子一人いなかった。彼女を誘ったガクさえも、意外そうな顔をしたほどだ。
「……誰もいないね」
「……ああ」
そのまま何も言おうとしない端正な横顔を見上げる。と、美しい曲線を描く長い睫毛が小さくふるえた。
「あ、」
「こっち」
口を開きかけたゆかりを遮るように、再びガクは先に立つ。彼が向かう方向に目をやったゆかりは息を飲む。
「どうした?」
「ううん」
そこはいつかの夏の夜、初恋の人との思い出を刻んだ場所に、奇妙なまでによく似ていた。穏やかに流れる川、その一帯で最も大きな橋の、たもと。
似ているだけで同じではない、とゆかりは自分に言い聞かせる。ともすればノイズのように蘇る記憶の断片に思考を占領されないよう、両目を大きく見開いた。
わたしがいるのは、いま、ここ、だ。
息を吸って、吐く。
「ゆかり?」
「待って、」
そして過去ではなく現在の恋しい人に追いつくため、泥に汚れたショートブーツの爪先で、枯れ草に覆われはじめた大地を蹴った作家は、
「!!?」
訳もわからぬうちに体ごと仰向けになっていた。
咄嗟に取った受身の姿勢。やや丸められた背骨にあるべきはずの衝撃はなく、逆に、柔らかなネットに沈んでゆくような感覚を覚えた。それは衣服ごしにもはっきりわかる、どこまでも肌に吸い付くような、しなやかで冷たく、細い糸。
暮れかけた空の紫と紺を格子状に区切る白をかろうじて視認した瞬間、ヒュッと喉が鳴った。
「ガッ……」
たとえば獣に仕掛ける罠のような、けれどそんな例えではとうてい足りない、あまりにも、あまりにも大きな網。自分が今まさにそれに捕らえられてしまったのだと、混乱の極地にいるゆかりは思い至ることができない。
ただ本能で、その粗い編み目を引きちぎろうと手を伸ばす。しかし、やっと指先が触れた、と思った瞬間、どういう理屈かそれはキュウと縮まった。視界に映る夜が急激にしぼむ。まるで生き物のようなその動きに、ゆかりの恐怖は倍増する。
一気に糸の密度が増したそれは、外側からはさながら繭のように見えたことだろう。
突如河原に現れた、浮遊する巨大な白い繭。焦りで激しく咳き込んだゆかりの反応を楽しむかのように、それはふるりと蠕動し、
弾けた。
とても厭な音がした。
けれど、コンマ一秒で柔らかな檻を破壊した鋭い切っ先はその《中身》に触れることが一切なかったので、
《中身》――もとい、ゆかりの体は勢いよく宙に投げ出され、
――ぶつかる!
垂直に落下する前のみぞおちの感覚にきつく目をつぶったその時、再び彼女の体はしなやかな肌触りを持つ何かに包まれる。しかし今度のそれは、
「ガ、」
「……心臓が止まるかと思ったわ」
涙が出るほどあたたかかった。
頬をくすぐる和毛のような襟元のファー。
一拍遅れてガラン、と響き渡った硬質な音に、ゆかりは自分を抱きかかえている青年の足元を見た。それは彼の得物には違いないようだったが、見たことのない色と形をしている。鈍く光る銀色の表面(さらにそこには文様のようなものが浮かび上がっていたが、この暗さではよくわからない)、なるほどこれならば《叩っ斬る》のも可能だろうと思わせる弾丸上のフォルム。いつの間に新技を開発したのだろう、と、ゆかりが思わず問おうとした時。
「一度ならず二度までも……」
炎のような殺気が二人の背後を静かに灼いた。
ガクを見る。彼もまた、ゆかりを見ていた。一瞬で意思は通じ、ゆかりはそっと地上に下ろされる。のち、寄り添った二つのいのちは同時に振り向く。
橋の上に人影がふたつ。それは和装の、
「女の子……?」
言葉尻が風にとける前に、少女たちは身長のゆうに三倍以上はあろうかという距離を跳んだ。
思わず後ずさったゆかりとガクの前方、5メートルあるかないかという至近距離に難なく着地した二人は、欠片も息を乱すことなくこちら睨んだ。もちろん、ふらつくこともない。
生身の人間ではなかろう。薄暗がりに目を凝らして、ゆかりは闖入者を見定めようと努力する。
和装には違いないが、それにしてもずいぶん奇妙な格好だ。
一人はいわゆる《ハイカラさん》スタイル――袴に革のブーツを合わせた出で立ち。風になびく長い髪には蝶のような形の大きなリボンを付けており、鮮烈な赤が眩しい袴には艶やかと言うにはいささか毒々しい色合いの牡丹が二つ、染め抜かれている。
もう一人はさらに《正統》からはかけ離れた着物姿(いつか雑誌で見ただけの《和ロリ》というジャンルをゆかりは思い浮かべた)――まず、裾は極端に短く、いわゆるミニスカートとだいたい同じくらいの長さだ。腰下の部分はパニエでも仕込んでいるかのようにふわりと形良く広がっており、さらに華やかなレースが随所にふんだんにあしらわれていた。帯は遊女のように前でちょうちょ結びにした形。やはり全体に赤が印象的な衣装のこちらにも、小ぶりではあるもののもう一人と同じような牡丹の花が合計三つ、咲いている。
そしてどちらの少女も、それは整った顔立ちをしていた。
ハイカラさんの方は短い眉に切れ長の瞳、固く結んだ唇が近寄りがたい雰囲気を漂わせている、一種神秘的な美少女(腰まで伸びたしっとりした黒髪がよく似合っている)。和ロリの方は対照的に、大きな瞳と量の多い睫毛、三日月のような弧を描いた唇がいかにも人好きしそうな印象を与える(ただしアニメキャラのような、高い位置で二つに結い上げた桃色の髪にたじろぐ者も多そうだ)。
しかしそれはあくまでもしも、彼女たちが何も持っていなければの話だ。
ハイカラさんが構えているのは、一突きで人を殺せそうな鋭さを備えた大きな糸巻き(幾重にも巻き付く白い糸から、先ほどの罠は彼女が放ったものだと推察される)。和ロリはさらに物騒で、華奢なその手に軽々と携えているのは、見間違いでなければ鎖に繋がれた重そうな鉄球だった(二つある)。
「いつまでジロジロ見てんのよ」
と、鈴を振るような声が紅い三日月の隙間から零れた。人を殺せそうな笑顔だ、とゆかりは思う。
「……あなた達は、どうして」
「どうしてだァ!?貴様、」
「やめろ」
瞬間、声を荒げた和ロリを止めたのはハイカラの方だった。外見を裏切らない、夜の湖に映る月のような心地良い声がゆかりの鼓膜を震わせる。
「……私と姫乃ちゃんを勘違いしてるってことはないよね」
「ああ」
そして少女はゆかりを見た。
「私たちの目的はお前だ、化野ゆかり」
「…………は?」
聞き間違いだと思った。けれど、少女は重々しい口調を崩さぬまま、言葉を繋ぐ。
「私たちの主がお前をご所望だ。大人しく付いてくるならばその男にも危害は加えない」
「…………私、食べても美味しくないよ?」
「主はお前と話がしたいと言っている」
「……最近、こういうナンパ、流行ってるの?」
少女はニコリとも笑わない。
「あくまで拒むなら多少、手荒いやり方を取らせてもらう」
「絳(コウ)ちゃん!」
「黙っていろ、茜(セン)。……さて、どうする」
「……理由を聞いていいかしら」
早鐘のように鳴り始めた心臓を抑え、精一杯胸を張るゆかりを絳という名の少女は凍てつくような瞳で見返した。
「人間ふぜいが主に問いかけようなど、百年早いわ」
「……オーケー、わかった。交渉決裂ね」
言うが早いか、ゆかりは大きく横に跳んだ。一瞬前まで彼女がいた場所に鞭のような糸が伸び、それはすぐに絳の手元に戻る。間髪入れずに第二撃。守り刀は間に合わない。
「……っ、ガクさん!!」
「デカイ的だな」
此度は糸が、束になってかかってきたのが逆に幸いした。銀色の槌はやすやすとそれらを退け、長身の持ち主はユラリと体を揺らめかせながらゆかりの前に盾のように立つ。
「お前は、あっち」
「え?」
「コイツは手練だ」
「……いやいやいやいや、アレだって相当だと思うよ?」
隠すことのない憎しみの炎をその目に宿す茜と呼ばれた少女は、ジャラリと音を立てて鉄球を引き寄せた。一瞬の隙も逃さない構えだ。
「それでもコイツよりマシだ。何とかしろ」
鉄球が放たれた。ガクは正確にそれを打ち返し、再び槌を振り上げた勢いを殺さずに、黒髪の少女に突進する。不意をつかれた彼女は屈もうとしたが避けきれず、中途半端な姿勢でかなりの距離を飛ばされた。小さな体は橋を越えて、落ちた地点は目視できない。
ともかくこれでフィールドは分断された。一対一。
マシ、と称されたツインテールの少女から目をそらさずに、ゆかりは目まぐるしく思考を働かせる。こちらの武器は小刀一本、まともにやり合えばものの2秒でKOだ。ガクの判断は正しかったのだろうか?
再びぐるんぐるんと重そうな鉄の塊を振り回しはじめた少女の瞳は爛々と輝いている。


(2013.04.27)


モドル