張りつめた緊張の糸を断ち切ったのは茜(セン)だった。
ゆかりの頬を風がかすめる。あと一秒、回避動作が遅れていたらこの草むらはあっという間に朱に染まったに違いない、そんなふうにさえ思わせるほどの重い風。
舗装された道路から河原に降りる途中の緩やかな斜面に、一抱えはありそうな鉄球がめり込む。轟音と共に大地が揺れ、そしてゆかりは諦めた。
視線が絡む。ツインテールを風になびかせた少女は、得物を手元に取り戻すべく無骨な鎖を握り直し、
「あっ!!」
唐突に上がった大音声に引かれるように後ろを向いた。
もちろん、声を上げたのはゆかりだ。そして、フェイクだ。
できるだけ驚愕した表情を作り、彼女の背後、やや上方を差してやった。まるで何かが迫ってきたかのように。
「……貴様!!」
一瞬の後、騙されたと知った茜が憤怒の表情を浮かべて向き直った時、ゆかりは既にその場にいない。
「……どこ行った、」
応えるように上がった水柱に、少女は束の間、絶句する。
しかしこんなものは術でも何でもない、単純に、ゆかりが横手を流れる浅い川に飛び込んだというだけのこと。その証拠に飛沫はすぐに収まり、全身から水滴をしたたらせながらゆかりはゆるりと立ち上がる。音が出るほどの歯噛みをしたのは、もちろん茜の方だ。
「貴様……何のつもり、」
「ちょっと頭を冷やしてみました」
「……巫山戯、」
「そうしたらわかりました。あなたたち、あの時の蜘蛛ね?」
問われ、少女は息を飲む。
あの時――すなわち梅雨の合間のとある晴れた日、姫乃の友人であるところのボーイッシュな少女がうたかた荘を訪れた日。その朝、家中にはたきがけをしながらゆかりが見つけたもの。
「変わった模様だなって思ってたの。牡丹、だったのね」
漆黒の小さな体躯に散った紅は、今思えば明らかに大輪の花を示していた。まるで刺青のようなそれは自然の造形とは到底思えず、だからゆかりはあの日のことをこんなにも鮮やかに思い出せるのだろう。――違和感があったのだ、その時、既に。そして。
「賢淵(かしこぶち)ごっこを仕掛けてきたのもあなたたちでしょう。あの、野球した日」
宮城県は仙台市、広瀬川のほとりにたゆたう、その少し変わった名前の淵には以下のような伝説がある。
ある日、男が川辺で釣りをしていると何やら足元に感触があり、見れば、小さな蜘蛛が脛に白い糸を巻きつけていた。不審に思い、糸を外して傍らの大木の根方にそれを移せば、やがてメリメリと音がして大木は水中に没し、「賢い、賢い」と讃える声が水底深くから聞こえてきた――
ひとつ屋根の下に住まう住人たちと、泥まみれになりながら白熱した試合を繰り広げたあの日、夕焼けに照らされた掌の上で、風にさらわれた白い糸くず。かすかな粘り気を持ったそれが《蜘蛛の糸》だと、どうしてその時気づけなかったのだろう。
ともかく、予想は当たったらしい。茜が唇を噛んだのを見て、ゆかりは少しだけ肩の力を抜いた。
「あの時の腹いせ?」
びしょ濡れのまま静かに問えば、少女もすうと静まった。あるいはどこまでも真剣なゆかりの表情とその姿の落差が滑稽で、毒気を抜かれたのかもしれない。
「……主がお前をご所望だと言っているだろう」
「それにしては、ちょっと激しすぎると思うんだけど」
できるだけ軽い調子で、斜面に開いた穴を指差す。しかし行き過ぎた興奮状態でこそなくなったものの、美しい少女は硬い表情を崩そうとしない。
「五体満足で連れて行く必要などない。口が聞ければいい」
「……私、何か、そういう人にばっかり縁があるなあ……あ、」
まさか、と目を見開いたゆかりに少女は顎を引いた。
「あれも我らの差金」
「……目、が、」
瞳を紅く光らせていた男たちの凶悪な面構えを思い出し、ゆかりの背すじを冷やりとしたものが駆ける。――けれど、彼らは。
正当防衛という単語を使うにはあまりな惨状に見舞われた男たちの姿が脳裏をよぎった。思いは表情に出ていたらしく、茜は思い切り顔をしかめた。
「操る側にもダメージはある。あの時は参った」
「……あなたにも?」
「おかげでこんなに時間がかかってしまった」
そして少女は鉄球を提げた方の手で、反対の腕を軽く撫でるようにした。小さな掌が肩から指先までを滑らかに渡り、その後に現れたのは、
「……何、その手」
例えるならばカマキリの前肢にも似た鋭い形状の、
「鎌……?」
橋の上の街灯が点いた。人工の光に照らされた異形の少女は、数秒前まで左腕だったものをきらめかせて微笑む。
「お喋りが過ぎたな」
「な、」
「ころ」
「しちゃだめでしょう!!」
生命を賭けた渾身の突っ込みに、茜はあ、というような顔をし、
「じゃあ半殺しで」
一足で間を詰めた。
鉄球は使わず、ただゆかりの肩をキツく掴む。食い込む爪に顔を歪める暇などない。
ザクリ、と右脚に衝撃。ただ熱い、と感じた。
みるみるうちに溢れ出す鮮血に、
しかし、少女は不審げな顔をする。
「おま、」
「……水(バ)の梵術は、防御と治癒に長けている、んです」
遅れてジワジワとやってくる痛みを逆にたぐり寄せ、捕まえる。それを意識を保つ縁(よすが)にする。
傷から発生したのとは別の種類の熱が体表を駆け巡るのを感じた。
今や水でくまなく覆われた、ゆかりの小さな身体。
「なるほど。剄を体に纏わせて……強化、か」
無言で見つめ返すと、少女は唇の端を上げた。
「おかしいと思った。私が刃を振るったのに、お前の体にはまだ肢が付いている」
「……リアル赤い靴、とか、やめて、いただけ、ませんか、ね……」
「だが力比べではどうだ?」
ギシリと刃が食い込む感覚に、ゆかりは堪らず絶叫した。体中の息を吐ききって、そして、
「……んなっ!!?」
弾かれたように茜が離れる。冷たく光る鎌だったはずの上腕は、一度、輪郭を闇に溶かすようにぼやけ、目をこする間もなくただの腕に戻った。華奢な指先が震えている。恐怖からではない。それは、痙攣。
「何を……っ」
「ビリッて、来ま、した?」
額に脂汗が浮かぶのを感じながらも、ゆかりはようやくわらった。それが挑発に繋がるとわかっていても、止めることができなかった。
《血液を媒介にした剄伝導は、水だけのそれよりも遥かに強力》
《水には守る力と壊す力の両方がある》
澪(ししょう)から教わった幾つもの事柄の、これは応用編だ。
相手はゆかりを殺す気でいる。少なくとも傷つける意欲は満々だ。
ならばまず、身を守ることを考えねばならない。その上で、相手を斃す。
二つ目の突破口は未だ見えないが、とりあえずこれで茜はゆかりに不用意に近づけなくなった。ほんの少しでもその身体に触れようものなら、今、ゆかりができる最大量の剄を流し込んだ水(血液混じり)が、彼女の神経に刺激を与える。イメージしたのはスタンガン、ヒントを得たのは愛読書。人類最強の《赤色》が《糸》に囚われた、という彼の物語のシチュエーションが、発想を容易に繋げてくれたのだろう――
なんて戯言を繰っている余裕は、ない。
右の太ももから流出し続けるゆかりの命。止血に割ける隙も時間も元よりなかった。
おそらく、次の一撃で勝負は決まる。
高鳴る鼓動を抑えるように、深く息を吐く。
少女はこちらを睨みつけたまま動けずにいる。鉄球を持ち上げ、また下げた。
その判断は正しい。もしも先ほどのようにその重い塊を投げつけられようものなら、ドッヂボールの要領で食らいついてやるつもりでいた。さすればやはり、少女は人間スタンガンの餌食となる――
本当は、そこまで強力な剄を持ち合わせているわけではなかったのだけれど。
桃色の髪の少女が思惑に嵌ってくれたことにゆかりは内心、安堵する。
ハッタリに必要なのは何よりもまず、第一印象(ファーストインプレッション)。人間はどうしたってそのような、理屈の合わないものに引きずられがちだ――
「……あなた、は」
振り絞るようなゆかりの声に、茜は華奢な肩をこわばらせ、
「……なんだ」
探るような瞳でまっすぐゆかりの顔を見つめた。
「にん、げん?」
少女は答えない。
「それ、とも、あに、ま?」
「違う」
間髪入れずに返された声は、闇を切り裂く刃のようだ。
「……じゃあ、やっぱ、り」
「人間でもない」
彼女を取り巻く空気が、一段冷えたような気がした。
その向こうにゆかりは青い炎を幻視する。
「我らは白糸様が第一の僕(しもべ)」
「しら、いと、さま?」
「ただそれだけだ」
押し殺すような声音で言い、
少女は鉄球を打ち捨てた。
自由になった右手で再び左腕をさする。と、先ほどと寸分違わぬ銀色が現前した。それはまるで闇に差す一条の光のよう。
確かめるように峰を撫で、少女は改めてこちらに向き直る。
一秒。二秒。
軍靴が踏みしめるリズムのような、激しい鼓動がゆかりの耳の内側で鳴り、
冷たい汗がこめかみを伝う。
永い永い一瞬の後、少女は跳躍するべく深く体を沈みこませ、
「あっ!!」
「その手は二度と食わぬ!!」
激しい語調ながら、その実、僅かにたたらを踏んだ。しかし、《それ》を見てしまったゆかりはそれどころではない。
「ちがっ……ほんと、に、」
最後まで言い切る前に、《それ》は地面に墜落した。測ったように、ゆかりと茜のちょうど間に。
放射状に広がる黒、目を射る赤。そして、
ところどころ傷つき、破れたその衣裳の隙間から絶え間なく湧き出る白い光。
茜を見た。
少女は《それ》を見ていた。
その目から光が消えた。
今や鉛色に染まった瞳は、果たして《それ》を認識しているのだろうか。
「……せ、」
ゆかりが初めて唇に上らせようとした敵の名前は、
彼女自身の絶叫によってかき消される。
その後の光景はスローモーションで見えた。
《それ》――もはや息も絶え絶えな黒髪の美少女――に、茜が駆け寄る。うつ伏せだった彼女を抱き起こし、何やら叫ぶ。ゆかりのことが目に入っている様子はまるでない。
大きく揺すぶられた第二の少女――絳は、完全に意識を失っているようだ。いや、もう目を覚まさないのか?
白い光の塊は、上に昇っていくことはない。ただ彼女の周辺をふわふわと漂い、溶けるように消える。
それは、彼女が陰魄であることの何よりの証左だった。
と、寄り添う少女たちの姿を遮るように、
トン、と何かが地上に降りた。
暖かそうなベージュの毛束。地面に引きずりそうなコートの裾。
「……ガク、さん」
銀色の槌を手にした青年は、ゆかりを振り返り、一瞬にして凶悪な面相になった。


(2013.05.13)


モドル