「……おのれ」
低い声が愛らしい唇から漏れたのと、ガクが彼女に相対したのは同時だった。
黒髪の少女をそっと横たえ、顔を上げた茜は完全に表情を無くしている。瞳はまるで闇の底。
「ころしてやる」
「こっちの台詞だ」
ざりり、とガクの足元で小石が鳴る。
治療のための絶好の機会に恵まれたゆかりは、しかし動けない。二人とも、もはや完全に外界をシャットアウトしているのに。絶望に似た激しい痛みが、切り裂かれた皮膚の一枚下で今際の際の蛇のようにのたうっているというのに。
目だけ動かして茜を見た。空っぽの顔をした美しい少女。と、
「紅(くれない)姉さまだけでは足りないか」
呟かれた言葉に疑問を覚えたのは、ゆかりばかりではなかった。
「は、」
「何を言ってる?」
ビリビリと、触れれば火傷しそうな緊張感を保ったまま、突くようにガクが尋ねる。が、少女は一向に堪えた様子がなく、また虚ろな瞳にも変化はない。もしかしたら喋っているという自覚すらないのかもしれなかった。トランス状態の巫女のように、わずかに体を傾けながら少女はみたび唇を開く。
「絳姉さままで失ったら、私は」
「……ねえ、さま?」
そうして齎された事実はガクが発した問いの答えにはほど遠かったけれど、十分に驚くべきものだった。
忙しなく二人の少女を見比べる。黒い髪と桃色の髪。(今は閉じられているけれど)切れ長の瞳と、満月のように大きな瞳。多少距離があるせいもあったが、少なくともその顔立ちや体つきからは彼女たちが姉妹だとは到底思い至れない。
「……くれ、な」
さらにもう一人、姉がいるというのか?
「紅なんて女、俺たちは知らな」
そしてその少女は、
「貴様らだけは許さない」
茜の表情が変わった。そこにあるのは先ほどとは比べ物にならない絶対的な量の怒り。
その小さな額にゆかりは角(ツノ)を幻視する。鬼女、という言葉が脳裏に浮かんでは消えた。
「だから、こっちの台詞だ」
対するガクは、疑問の解消には元々あまり興味がなかったようだ。絶対零度の声音で答え、あらためて槌の柄を握り直す。
空気はますます緊張を帯び、ゆかりは酸素を求めて喘ぐ金魚のように、速い呼吸を繰り返す。
鼓膜が破れそうな沈黙を無に帰したのは、
「……ろ、茜」
か細くも凛とした女性の声だった。
桃色の髪の少女はポカンと口を開け、絶句する。
「…………絳姉さま!!」
変わらずに横たわったままの少女は、けれど今はたしかに両目を開けていた。
強靭な意志を秘めた黒い輝きは、同時に驚くほどの知的さも備えている。
その頬は今や紙よりも白いのに。
「いま、」
「化野ゆかりを捕えろ、茜」
続く二言目はやはりひどく小さな声だったが、駆け寄ろうとした茜を止めるのには十分だったようだ。
「……姉さま」
「男は殺して構わない」
「……イヤ」
「早くしろ。隙を見せるな。そして一刻も早く」
そこで少女――絳は咳き込んだ。土埃に汚れた着物に、緋い花が咲く。
「白糸様が御前に、その」
「イヤだあ!!!」
棒立ちのまま、ツインテールの少女は両目から滂沱の涙を流した。しかし、横たわる少女の瞳の色は変わらない。汚れた口元を拭おうとすらしないのは、興味がないからか、それとももうそちらに割く気力もないからか。
「茜」
あくまで冷静さを保ったままの呼びかけに、呼ばれた少女は拳を握りしめて応えた。
血が噴き出るのではないかと思われるくらい、強く強く――
「そろそろいいか」
ぶっきらぼうな口調に、茜はゆるりと顔を上げた。
「……敵を待つとは阿呆な男だ」
「ただの気まぐれだ」
言うなり、ガクは跳ぶ。渾身の一撃は、結い上げられた少女の髪の左の先端を断裂せしめた。
ギリギリのところで躱した茜は、しかしバランスを失って地面に叩きつけられる。ガクが再び槌を振りかぶる。撃ち落とす。今度も少女は間際で避けたが、明らかに優勢なのはガクのほう――
地面にめり込んだ銀色の弾丸の切っ先を引き抜こうとした一瞬、それは起きた。
絶叫。
わずかに背を丸めた姿勢の青年の、右の踝に深々と少女の鎌が食い込んでいる。
――アキレス腱、
体中を細かな傷に塗れさせながら、うつ伏せの姿勢のまま少女は凄惨な笑みを浮かべ、
そこに今一度の力が加えられる前に、
ゆかりは、

「……っ」

少女の驚愕が言葉になることはなかった。

この手応えを忘れることは、生涯ないだろうと思った。

勝利の笑みを貼り付けたまま、茜の左腕は武器でなくただの肉体に戻り、
傷つけられた青年は声もなく、一瞬前まで己に害を為していた少女と、その少女を《殺した》者とを呆然と見つめた。
けれど、刃から解放された彼の足首から噴き出す血しぶきが、冗談のように視界を染め上げるものだから、
ゆかりは、それを止めなければと、
ただ、彼のいのちを留めなければと、
それだけを考えて、
今、敵のいのちを奪った武器を、
今度は、味方のいのちを救うために利用しようとする。
意外なことに手は震えなかった。
「……ゆ、か、」
「……活剄――」
ただ、言霊を唱えて正確にそれを彼の傷口に刺した時、
そして、柔らかな水色の光が正しく彼の傷を癒しはじめた時、
みぞおちのあたりから酸っぱいものがこみ上げて、
《見習い》ふぜいの駆け出し作家――化野ゆかりは川辺までよろよろと歩き、思うさま吐いた。

「あだしの、ゆかり」
息のような声に振り向いた。
仰向けに横たわった少女の体は、もう半分もない。うつ伏せのまま絶命した妹の方は、既に全て風にさらわれていた。
「おまえを、うらむよ」
「……私が、何をしたの?」
問われた少女は口を噤んだ。
「白糸様って、だれ」
「……すぐにわかる」
「あなたは、だれ」
「わたしは」
白い光に覆われた彼女は、どうしてかそこで薄く微笑んだ。
「ああ、き……すけ、」
最期の最期に口にしたのは、誰かの名前のようだった。
そして二名の襲撃者は、塵一つ残さずこの世界から消滅した。

***

「おいガク、どういうことだよ」
尖った肩を掴んで詰め寄るが、悪友――犬塚ガクは一言も口を聞かずに横を向いた。その頬と言わず髪と言わず、細かな砂や土で汚れきっていたので、微細な粉末を吸い込んでしまった明神は思わず咳き込む。
「ツバを飛ばすな」
ようやく聞けた声はやや硬くはあったけれども、おおむね普段通りのものだったので、内心ホッと息をつく。あらためて四白眼気味の大きな瞳を正面から見つめた。
「どうしたんだ、ゆかりんは」
悪友には全くあるまじきことに――彼は、目を、そらした。
「なあ、」
「陰魄をころした」
返された言葉に首を傾げた。そんなことは今までだって、
「おまえにはわからない」
「……何が」
吐き捨てた言葉がまるで悲鳴のように聞こえて、だから明神は静かに問返せたのだと思う。
ガクは、まるで親の仇を見るような目で、
「あいつは《普通の》人間だ」
と、言った。
「……フツウ、って」
「俺たちとは違う。たとえこの両手を血に染めても、構わないと思う俺たちとは」
「何言ってンの?」
「だめだった。だめなんだ。俺じゃあ、」
「ガク?」
もう一度、揺さぶるようにしてこちらを向かせようとしたが、彼は大きく身体をしならせて抵抗した。やむなく手を離す。素早く身を翻した彼は、けれど三歩進んだところで立ち止まる。
「……例の、アレ」
「……ああ」
「ゆかり狙いだった」
「……は?」
「ひめのんなんて眼中にない。理由はわからない。無縁断世よりも一般人を優先するなんて、そんな理由は」
「……それが、その、陰は」
「まだボスが残ってる。名は、」
そこで彼は息を継いだ。
「白糸」
「…………蜘蛛、か?」
「おまえがそう言うんならそうなんだろ」
あくまで背中を向けたまま、しかしガクは行く手を睨むように顔を上げる。
「護ってくれ」
そうして放たれた意外な言葉に目を白黒させる明神の沈黙が、彼は気に入らなかったらしい。
「案内屋だろう」
畳み掛けるような言葉に、
「……待って、でも、それは」
知らず左胸に拳を当てていた空の案内屋は、トン、と軽く、厚い筋肉を一つだけ打つ。
「……お前がしたいことなんじゃないの?」
問えば死者は口を噤んだ。その全身が、焦燥と怒りと、何かもっと強いものをひたひたと伝えるのを明神は戸惑いながらただ見ている。
長い静寂の後、ガクはひっそり片手を上げた。そのままトントンと階段を登っていく。
その時、帰るなり共同風呂に押し込められていたゆかりが、浴場の内扉をカラカラと開ける音が聴こえた。おそらくガクは、彼女の帰りを部屋で待つ心づもりなのだろう。
緊張から解放された気持ちと、体中に満ちる疑問符と、訳がわからぬなりにその奥からふつふつと湧き上がる闘志に似たもの。それらを扱いかね、明神は太くため息をついた。

***

明かりを消した部屋は、それでも月光のおかげでぼんやりと物の輪郭が浮き上がって見える。卓袱台、パソコン、ハンガーラック、そして。
振り返った彼の表情は影になって見えない。ただ、サラサラした黒髪が光の加減で青っぽく見えるのを、湯上りの気配を滲ませたまま、ゆかりはぼんやりと見返した。
ガクもまた、彼女を見つめているのだとわかっていた。けれど、ほんの数時間前までのような、体内で喜びと気恥かしさが手を取り合ってダンスを踊るような心持ちには、どうしてもなれない。
代わりにゆかりの脳内をジャックするのは、
両手に染み付いた《殺人》の感覚と、
結局、瞼を閉じてやることすらできなかった《敵》の死に顔――
頬をくすぐる和毛の感触。
俄かに暗く閉ざされた視界。
永遠に伝わることのない搏動。
「……っ」
あまりにも優しい、いとしい人の声にならない声。
出会った時と同じだ、とゆかりは思い、
けれども自分はずいぶん遠くに来てしまった、と深く息をつこうとして、
頬を流れる冷たい感覚にようやく思い至る。
背中に回された腕が強さを増した。気づいている、彼は。だから。
「……あの子、」
震える声が自身の鼓膜をも揺らすのを、ゆかりは夢の中のような心地で感じている。
「人間願望(アニマ)じゃないって、言ったの」
脇にだらりと垂らされた両腕をそろそろと上げた。
「人間、だった」
「陰魄だ」
「ううん」
間髪入れずに返された言葉に、応えるようにコートを握る。
「にんげん、だった」
その先は、獣の咆哮になった。

月はすっかり傾いて、夜は深さを増している。
塩分でヒリヒリする頬をコートの襟元に押し付けたまま、ゆかりはしがみつく腕の力を少し抜いた。それで、ガクの方も長い腕をやや下げるようにした。
それでもやはり寄り添ったまま、ゆかりは小さく息を吸う。
「私、何をしたんだろう」
ガクは答えない。ただ、右手を上げてゆかりの頭の上に置いた。
「私がしたことは」
「……ああ」
苦しそうな相槌は、何かを悟ってのものだったろうか。ようやくすがりつける重みを見つけたゆかりには、残念ながら彼の心情まで慮る余裕がない。
「ある人の人生を、奪ったこと」
「……」
「だと思ってた」
「……それは」
「ううん」
確かめるようにもう一度、掌を開いて厚い布地を掴みなおす。ガクはゆかりの髪に手を滑らせた。
「それは、取り戻すの」
「……そうか」
首筋で止まった手は、そのまま下に降ろされた。
顎を上げる。
息がかかるほど近くに、端正な顔。
それは命綱だった。おそらく、ゆかりにとっても、ガクにとっても。
その距離を、縮めることなど思いもよらない。少なくとも今は。
闇の中でギラギラと光る互いの双眸だけが、ただひとつの道しるべだった。


(2013.05.20)


モドル